城データ

城名:浜田城

別名:亀山城

標高:67m

比高:67m

築城年:元和6年(1620)

城主:吉田重治によって築城、(松井)松平氏、本多氏、(越智)松平氏

場所:島根県浜田市殿町

北緯:東経:34.903186/132.073553

浜田城はここ

 

 

攻城記

 

島根県指定史跡 浜田城跡”
指定 昭和37612

 

浜田城跡は別名亀山城とも呼ばれ、北の松原湾と南から西にかけて流れる浜田川によって囲まれた標高68mの独立丘陵上に築かれた平山城です。

 

元和5年(1619)に伊勢松坂から古田重治が54千余石の藩主としてこの地に移り、元和6年(16202月に築城工事に着手、同年11月には地普請が終わり、元和9年(16235月には城および城下町が整ったようです。

 

本丸の北西隅には、高さ14mの三重櫓の天守があり、二の丸には焔硝(えんしょう)蔵、本丸常番所、時打番所などが配置され、中の門外の三の丸には御殿、諸役所、御用米蔵などがありました。

 

城下町は、城の周囲に武家屋敷を、浜田川以南に町家を設けています。

 

浜田城主は、古田家(2代・30年)から、松平周防守家(5代・111年)、本多家(3代・11年)、再び松平周防守家(4代・68年)、そして松平右近将監家(4代・31年)と変わり、慶応2年(18667月に第2次長州征伐で自焼退城となり、その役割を終えました。

 

神社、ここも居住地だと考えられる。

司馬遼太郎も追懐している。

CG復元図。

こういうのがあると分かりやすい。

 

浜田城跡 (浜田市殿町)

 

標高67mの丘陵上に筆かれた平山城であり、北は 松原湾を介して日本海を望み、西南には城を囲むよ うに浜田川が流れている。

 

海陸ともに交通の要地であった。

 

元和5年(1619)に伊勢松坂城主であった、吉田重治が大坂の陣の功によって5万5千余石でこの地に転封になり、浜田川河口部に城地を定めるとと もに城下町の範囲を定め、古くからあった町を整理して城下町の基礎を築いた。

 

翌年2月に築城に着工、 元和9年(1623)5月には城や城下町の工事を完了した。

 

元和の一国一城合(元和元年/1615) 以降に新城を築城した例は、この浜田城を含めても 明石城、福山城などわずかであり珍しい例である。

 

本丸は頂上部にあり、約60m×約50mの規模をもち、北西の隅には三重の天守が建てられた。

 

本丸から 南に向かって、城山の中腹に二の丸、山麓に三の丸が あり、周辺は石垣で固められている。

 

浜田城の城主は、古田家(2代)以降、松平周防守 家(5代)、本多家(3代)、松平周防守家(4代)、松平右近将監家(4代)とめまぐるしく替わった。

 

慶応 2年(1866)に第二次長州征伐で敗れたために、 松平武聡は退城し、浜田城は近世城郭としての歴史を終えた。

 

昭和37年(1962)6月12日指定

平成13年(2001)3月

浜田市教育委員会

島根県教育委員会

 

進んでいく。

旧津和野藩庁門で浜田県庁門となっていた門。

進んでいく。

標高67mなので少し山になっている。

周辺部。

素晴らしい石垣。

少し木々があり、往時の雰囲気を醸し出している。

出丸付近。

 

 

三重櫓(天守)

瓦の残骸も発見。

本丸部分。

海から攻めるのは厳しい。

北廻船の寄港地であった。

本丸周辺部。

二の門。

出丸石垣。

浜田城下町。

周辺の瓦残骸。

近世城郭なので石垣がしっかりしている。

煙硝蔵跡。

煙硝蔵より1段低い曲輪。

 

余湖図【浜田城】

 

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

浜田の地は「番馬塔」として明国に知られるように貿易港として栄えてきた。

 

一般に江戸期になって古田氏が入封して初めて城が築かれたと言われるが、それ以前に毛利氏が夕日ヶ丘に陣屋を築きこの地を支配していたとされる。

 

夕日ヶ丘は近世城郭に取り込まれ現在は宅地になっているが、中世城郭の面影を随所に認めることが出来る。

 

また、江戸期の主郭の北方に空堀と堀切が確認されたことから、この地点も古田氏以前の城郭を推定させる。

 

近世の浜田城は主郭周辺を石垣で固めていたが、破損が著しい。特に主郭の石垣はほとんど破壊されている。さらに、近年の公園化、石垣の積み直しにより護国神社から主郭までのルートも変更された。

 

護国神社東側の谷間に石垣で築かれた中門の跡が残る。現在民家に埋もれているが、当時は大手門からのルートと裏門からのルートがここで合流する要衝であったと推定される。

 

城主は、古田氏、松平(松井)氏、本多氏、松平(松井)氏と続き、竹島騒動の後に入封した松平氏が長州軍に攻められるまで続いた。

 

島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用

 

 

浜田城跡 現浜田市殿町

浜田市中央部、浜田川右岸に臨む亀山(六七三メートル) かめ の山頂を中心に、二つの台地、一つの支脈からなる独立 丘上に築かれた平山城。

 

県指定史跡。北は松原湾に面し、 南と西を浜田川が取巻くように流れ、東は狭い平坦地を 挟み鏡山(七三・八メートル)に対する。

 

丘陵部を除いて市街 地化し、南東に派生する丘を横断して国道九号が通る。  一帯は城山公園として整備され、市民の憩の場となっている。

 

〔築城の経過〕

寬政一〇年(一七九八)の浜田古事書抜(浜田 市立図書館蔵)、浜田鑑(藤井家蔵)によると、毛利氏が石見 を支配していた頃、吉川元春や吉川元氏らが浜田に在番し、当地に陣屋を構えたと伝える。

 

元和五年(一六一九)七 月伊勢国にいた古田大膳大夫重治が石見国内に五万石余、 丹波国内に五千石余を与えられ「寛政重修諸家譜」など)、 浜田に封じられた。

 

重治の入部に先立ち、古田将監・勝長兵衛らが領内の益田、三隅(現三隅町)、周布などの旧城地を検分した結果、「浜田庄は狭けれども大川の流れあ り、左右に湊有りて万端自由よろし」として城地に定め (浜田古事書抜)、鴨山を亀山と改称し、山中や麓にあった 寺院を替地を与えて移したと伝える。

 

同年六月、安芸広 島城主福島正則が改易されたとき、隣国諸大名に対して 出兵の命があったため、築城はしばらく延期されたとい う。

 

石州浜田御城覚書写(浜田市立図書館蔵)によれば、石 見国は異国に近く、また中国地方と西国との交通や物資 流通上重要であるとして、城普請手伝が雲伯因三国に命 じられたという。

 

滝山一学・古市久馬が防ぎ方・攻め方 となり、北条家浪人松田武太夫が助言者となって縄張りを担当し、計算方は今村一正が受持ったとされる。

 

元和六年二月から地割普請を始め、亀山山頂を削って本丸と し、中腹台地に二の丸、山麓に三の丸を置いた。石垣用 の石材は城山の麓から切出した。工事人夫は地元民だけではなく、工匠・石工などは安芸・周防・長門からも招いたという。

 

同年一一月には地普請を完了し、続いて城 内外の作事・小細工、さらに城下の町割に着手、同八年一〇月には郭内内片庭に並木の松を植えるなどして、同 九年五月にはひととおり城および城下町の工事を完了し たとされる(「浜田町史」など)。

 

『島根県の地名』より引用。

 

浜田城

 

浜田城は、浜田市街の中心にある標高七〇mの独立丘陵にあったが、その山麓を流れる浜田川や松原湾に囲まれた平山城で、現在、城跡には護国神社・放 送局や島村抱月ら名士の碑があり、桜の名所としても有名で、散策する市民も多い。

 

 

元和五年二月、伊勢松阪から古田動治が五万四百余石でこの地に封ぜられたが入国すると益田・三隅・周布・浜田の各地を検分のうえ、吉川元氏が在番していた夕日丘を含めたこの地に、滝山一学を防ぎ方、古市久馬を攻め方とし て当城の縄張りを定めた。

 

翌六年二月から着工し、同年十一月に完成した。安 永九年(一七八〇)の『浜田城要目明細』によれば、一四m(一説には八m)の殿守造りの三重櫓が本丸の北西部にあり、四方を塀で囲み、北で五・五m、西で 四mの石垣が築かれていた。

 

本丸から渡門造りの中の門まで約二二〇m、中の 門から冠木門造りの大手門まで約二二〇mあり、三の丸には諸役所など三七四〇㎡の建物が建てられていた。

 

内堀は幅三〇mのものが東側に掘られ、浜田川と共に守りを固めていた。

 

吉田家は二代で改場され、慶安二年(一六四九)、播磨国宍粟から松平康映が封ぜられた。

 

その間、宝暦九年(一七五九)から十年間、本多中称家が入国していたこともあったが、以来、天保七年(一八三六)、奥州棚倉へ移封されるまで松平周防守家がここを居城とした。

 

その間には、康福・康任が老中として幕閣に参じ、天明六年(一七八六)には一万石の加増を受けている。

 

しかし、天保六年十 月、康任は仙石事件に連坐して老中を辞任して隠居し、ついで同七年には転封 易の竹島事件が発覚して国家老岡田頼母らが自刃するなど、藩内は混乱をきわめた。

 

その跡には上野館林から松平斉厚が入国した。当城十八代の城主武聡は徳川 斉昭の十男であったが、病で臥せているところに長州兵の進撃を迎え、苦悩のうちに慶応二年(一八六六)七月十八日、城を出て美作国(岡山県)鶴田へ落ちて行った。

 

この時、天守は焼け落ちたとも、また残ったともいわれ、その存亡は定 かでない。

 

なお、この開城をめぐる藩主や重臣の苦悩の様子は、用人生田精が残した『激源余滴』に詳しく記されている。

 

『日本城郭大系』14より引用。

 

城の歴史

元和5年(1619):古田重治が大坂の陣の功績により浜田に5万4000石を与えられ入封。
元和6年(1620):2月築城開始。
元和9年(1623):5月城と城下町が完成。

 

城主石高

概ね、どの大名も5万石で治めていた。

 

所感

●松平武聰の時に長州征伐があり、長州に敗れて浜田城を焼き払ったのは残念。

●石垣などしっかりしているが、後世の破損も多い。

●CGでの再現は分かりやすくいい。

 

関連URL

 

参考URL

浜田城(ウッキペディア)

城郭放浪記(石見浜田城)

復元CGに見る浜田城の姿

古田重治(ウッキペディア)

 

参考文献

『島根県の地名』

『日本城郭大系』14

公開日2021/06/25

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