城データ
城名:大須和城
標高:50m
比高:35m
築城年:戦国時代か
城主:多賀谷氏か
場所:広島県呉市川尻町森
北緯:34.231786
東経:132.686895
攻城記
本丸まで階段があるので楽に攻城できる。
最初の曲輪、広くは無い。
次の曲輪、こちらはかなり広さある。
本丸を望む。
本丸にある神社。
諏訪神社である。
ここから大須和城の名がついた。
曲輪図。
看板説明
大須和城の由来
このあたり一帯をおすわ(御諏訪)さんと呼び親しんでいる。
須和社が鎮座し、祭神は建御名方命(夫)と八坂刀売命(妻)(諏訪大明神とも言っている)で武事をつかさどっている。
また、大須和城の旧跡である。16世紀の初め頃には、水軍の武将として多賀谷氏・及美氏・得益氏が「仁方・川尻」を共同支配していた。
多賀谷氏は蒲刈を中心に勢力を振るい、東方を代表する小早川水軍の武将である。及美氏は呉浦(今の呉市)を代表する武将である。
東と西の勢力が同一の土地(仁方・川尻)で共同支配していた。
この事は東と西が対立しながら、境界に当たる仁方・川尻では水軍として連携していた事を示している。
瀬戸内海地域は、平安時代末期から経済の大動脈として栄えてくるようになった。
16世紀半ばのころ、カラブル神父が本国のポルトガルへ出した手紙によれば、川尻は「船長の九郎右衛門を初め多くの者が船に乗り込んでいた」とある。
当時の川尻の衆は、何隻かの船に武装して乗り組み、水軍として活動していたようである。
大須和城は16世紀ころの水軍の城であった。
平成15年8月 川尻町教育委員会
降りて反対側に向かうと堀切のある場所に到達。
大堀切から本丸を望む。
堀切の向こう側の来襲に備える。
こちらは自然地形である。
麓には天然の川があり堀のイメージが想像できる。
余湖図
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
最高所の1郭の北東側に二つの郭を配し、南側には帯郭を備える。
南西尾根続きには堀切を設けて城域を画している。
広島県中世城館遺跡総合調査報告書より引用
城のある川尻の歴史
厳島の戦い前
戦国時代大永三(一五二三)年の知行注文に「仁賀多河尻七十五貫」の知行人として「多賀屋・乃美・得益」の三人をあげる。
この三人で仁方・川尻地方を共同統治していることが分かる。
多賀谷氏は蒲刈多賀谷氏であり、蒲刈島を中心に勢力を張っている国衆。
乃美氏は小早川家家臣として音戸波多見を中心に勢力を保持している国衆。
得益氏は不明であるが、大内家家臣のもので山口から派遣されたものだったのかもしれない。
厳島の戦い後
また、厳島の戦いの前年までには蒲刈多賀谷氏は毛利氏の降伏して本拠の蒲刈とこの川尻の地も没収され他の土地に移された。
その代わりにこの仁多川尻地区には白井氏が派遣された。
白井氏も最初は反毛利氏であったが後に降伏し、小早川水軍の有力な武将に迎えられて活躍する。
『芸藩通志』には「白井縫殿宅址 仁方村の内、戸田浦竹林の内にあり、縫殿は天正年間、大坂石山の役に戦死すといふ」「縫墓」と記す。とある。
ただ白井賢胤は天文二二(一五五三)年に越中守の官途を得ており、石山合戦後天正一五(一五八七)年に子息縫殿允晴胤が秀吉の島津征伐従軍中に日向鷹城で戦死したときまだ存命していたから、 賢胤が石山合戦で戦死したというのは誤伝である。
なお晴胤の跡を継いだ景胤も、文禄三(一五九四)年、文禄の役で朝鮮にて討死した。
屋敷跡・墓所は、賢胤・晴胤・景胤の白井家三代の記憶として近世仁方村の人々にながく語り伝えられたのであった。
賢胤に給与されたのはそれまで多賀谷氏が知行していた部分であると思われるから、仁方だけでなく川尻も含まれ ていたと思われる。
乃美氏は天文二三年に仁方に加増された二〇貫余を含め川尻・仁方を知行していた。
川尻・仁方 は、厳島合戦以降、乃美・白井両氏による共同知行というかたちになっていたのである。
永禄 五(一五六二)年に川尻の岩倉大明神が仁方に遷御したのは乃美宗勝・白井賢胤が川尻・仁方を共同知行していた時期であり、川尻・仁方が所領単位として一体であったことがうかがえる。
乃美・白井両氏は小早川水軍の将として緊 密な関係にあり、地元の海上安全の神を両氏が共同に祀ることによって、よりいっそうの関係の緊密化をはかったの ではなかろうか。
天正年間の石山本願寺への救援準備にあたって、小早川隆景は乃美宗勝に安等船(戦艦)建造を命じての遅れに対して宗勝弟元信と白井晴胤の両人に相談して急いで建造するよう命じている。
多賀谷氏が長らく支配していた蒲刈島は、厳島合戦後、乃美宗勝に給与されていたが、宗勝配下の商人かもと推察される今井助三郎が知行していた三之瀬を含む給地一二貫が、天正年間ごろ、白井晴胤の所望によって白井氏に預けられている。
蒲刈三之瀬は東西航路の要衝であり、毛利領国下では中央と広島湾とを結ぶ幹線航路上の拠点港湾の一 つに位置づけられていたし、一五世紀の『兵庫北関入船納蜒』をみると、蒲刈船が多様な物品を京都方面に運送して いたことが確認され、芸南地域・芸予諸島から物資を京都方面に運ぶさい、蒲刈三之瀬港に所属する船舶が利用され ていたことがわかる。
蒲刈三之瀬港は芸南地域・芸予諸島の物資の集積港でもあったのである。 多賀谷氏にしても乃美・自井氏にしても、蒲刈島と川尻・仁方の双方を支配下に置いていることは重要である。
蒲刈三之瀬港に出入りする船舶の安全航行を保障するためには、蒲刈島と川尻・仁方の間の女猫瀬戸を掌握する必要が あったということである。
また川尻の様子が分かるものが川尻町史あるので紹介する。
宣教師カブラル神父と川尻の海賊九郎右衛門
中世の川尻で特筆すべき事柄として、熱病に倒れた上洛途上の宣教師フランシスコ・カブラル神父 婦で看病し、「天使」と賞賛された「海賊」九郎右衛門のことをとりあげなければならない。
カブラルは元亀(一五七〇)年、イエズス会第三代日本布教長として天草に来着し、翌二~三年、天正二(一五七四)年の二度にわ て、各地の布教活動を視察しながら上洛して織田信長に謁見した。大友宗鱗ら九州の有力大名を改宗させ教会勢力を拡大させることに貢献した。
そのカブラルの二回目の上洛にあたって、天正二年二月、山口で三ヵ月間の布教を終えて堺へ向かう彼を岩国から塩飽まで送り届けたのが、「海賊」九郎右衛門であった。
カプラルと「海賊」九郎右衛門との間の雇用関係以上の人間的交流について詳細に記しているのが、カブラル神父書簡とカブラルからの伝聞に もとづくフロイス『日本史』である。
カブラル書簡をもとにその交流をながめてみよう。
中国地方全域が毛利領国下にあった天正二年、岩国から海路をとって堺に向かおうとしたカブラルは、「海賊の大き な危険」のなかで塩飽まで安全に護送してもらうため「海賊」九郎右衛門を雇い、彼の船に乗船した。
当時の航路か 大野瀬戸、広島湾、呉湾を経て音戸瀬戸を通過したものと思われる。
途中、九郎右衛門が属する海賊 する別の海賊のうろつく海峡を通らなければならなかった」。
カブラルは安全航行のため「別の海賊」の一人を雇うこ とにしていたが、「別の海賊」集団は他の船舶を襲撃して立ち去ったということで、「別の海賊」に遭遇することなく 時峡を通過し、九郎右衛門の「多数の知り合いをもつ村」で一泊した。
「別の海賊のうろつく海峡」は 大野瀬戸厳島海域だとわれる。「多数の知り合いをもつ村」とは、あるいは厳島であろうか。
カブラルは荒天のもとで九郎右衛門の船で一昼夜を過ごして彼が住む川尻に着き、川尻に滞在して広島で布教をしていた修道士ジョアンがやってくるのを待った。カブラルが自身で広島を視察しなかったのは、一つには体調が悪かったためであった。
カブラルは九郎右衛門宅に着いたとたん頭痛と高熱に倒れたが、八日にわたり九郎右衛門とその妻子は力の及ぶかぎり献身的に看病をした。
カブラルは「夜中に私が呻くこともしばしばあった。 このような時、海賊は非常に丁寧に、大きな同情を以て何をしてほしいかと尋ねた」と心から感謝している。
また川尻 について「ここの部落の住民⋯のすべてが海賊である」「この村はあまり清潔でなかったし、魚しか食べるものがな かった」と記している。
ジョアンは川尻に到着すると布教のための説教を始め、九郎右衛門夫婦は改宗する意思を示したが、しかし一人の僧侶がカブラルの出発前にキリスト教徒になることを宣言したという。
カブラ ルは、ジョアンが到着した日に浄血をした。九郎右衛門が川尻の住人が害意を懐くことを恐れて早期の出発を促した ので、浄血をした翌日、熱をおして出発した。
九郎右衛門はカブラルを「確実に案内する義務を」履行して塩飽まで送り届け、「自分の友人であり、また立派な家 を持つ人のところへ連れて行った」が、彼は九郎右衛門への「慮り」からカブラルを「丁重に扱」った。
九郎右衛門は カブラル一行を堺まで送り届けてくれる船を手配し、その船長に一行を丁重に待遇するよう話を付けた。
カブラルは 九郎右衛門について「かつて今までこのように善良な盗賊を見たことがない。彼は私に対して、どんな時も盗賊とい うよりも天使であった」と賛辞を惜しまなかった。
以上の事から、厳島の戦い前にはこの地域を多賀谷氏、乃美氏、得益氏が共同統治し、厳島後には乃美氏、白井氏が共同統治したこととなる。
そのような中で乃美氏か白井氏の家臣として海賊「九郎右衛門」がこの大須和城を拠点にしたのではないかと想像出来る。
『芸藩通志』から加筆修正。
海岸線近くにある城であることが分かる。
城主家系図
城主については詳かではないが、伊予善行録(愛媛県)に「渡部公廣、藝州賀茂郡川尻の城主、丹波 十三世の裔孫なり」とあり、この大須和城がこの川尻城に当るかともいわれている。
渡部氏については、さらに同家系図によると、丹波国(京都府)の国司で掾であった裔に渡部大和守網一という者がいて、これが川尻に移り住んだのがはじめで、代々大内氏に属したという。
そして公広のとき大内氏が滅亡し、伊予国越智郡の来島通総をたよって落ちのびたのだとある(同書)
『賀茂郡史 中世武士編』より引用。
所感
●何気ない山城であるが、当時は海岸線の近くにあった城であった。
●天正2年(1574)年のカブラル神父がきた頃には川尻は乃美氏、白井氏の共同統治をしていたので彼らの被官として「九郎右衛門」が海賊の棟梁としてこの大須和城に関係する可能性も否定できない。
●城自体は大きくないが、少しの曲輪があり、また堀切もあり城としての最低限の機能を有している。
関連URL
仁方にある堀城、乃美一族の城。
白井氏がもといた仁保城
参考URL
参考文献
『芸藩通志』
『広島県の地名』
『川尻町誌』
『賀茂郡史 中世武士編』
公開日2021/2/11