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城データ




城名:城平山城

標高:200m

比高:23m

築城年:戦国時代か

城主:焼山中務少輔? 野間氏か

場所:広島県呉市焼山町

北緯:34.298164

東経:132.554154

 

攻城記

 

城跡は道になり現在は消滅している。

道路の法面に階段があり一番上まで登ると墓所あり。

墓所からみた風景。

麓にはお寺があるがこれは昔からこの場所にあった。

麓には川も流れており天然の堀の機能を有している。

『芸藩通志』に加筆修正。

1825年当時:道場も記載されている。

戦後すぐもまだ山が残っている。

現在の場所:バイパスが貫通して山自体が崩されている。

 

野間氏の焼山地域の城として機能していたと考えられる。

 

余湖図

 

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

北から南に延びる丘陵先端部を掘り切って独立させて城としている。

 

全体的に急傾斜地工事により削られており、破壊が著しい。

 

城の遺構は、郭4,堀切1からなる。

 

最高所の1郭は現状で12m×6m程度の規模であり、そこから南へ1〜2mの段差で三つの郭を配している。

 

1郭の北側には深さ約2mの堀切を設けており、背後の備えとしている。

 

広島県中世城館遺跡総合調査報告書より引用



また、財団法人広島県教育事業団発掘調査報告書第29集 城平山城跡に詳細があるので一部引用する。

史料からみる城平山城跡

『芸藩通志』巻42には「城平山、焼山村にあり」とあり、沢原家所蔵「文化度国郡志』にも「古城跡壱ケ所,城平山但シ城主名相知不申候」と記載されていることから、本城跡が近世後期までに城跡として伝承されていた事実が確認できる。

 

しかし,どちらの文献もそれ以外の記述がなく,城主には全く触れていない。

本城跡のすぐ側にある円福寺が所蔵する古文書の「当山世系」の項には,「焼山中務少輔トイエル者,此ノ郷二小城ヲ築キ,僅カニ此一郷ヲ領セリ」とあり、 この小城が本城に当たると想定されている

 

焼山中務少輔は同文書で南北朝争乱期の人物とされており、 この記述を事実とするならば、野間氏が安芸郡矢野に入る以前から同人物の城があったことになるが, 「焼山中務少輔」の名がいずれの歴史文献にも出てこないため,信瞳性は低い。

 

ただ, 同文書には城構築者と地域中心者の連綿性、地域中心者と円福寺の深い関係についても記述されており、実際に城平山頂部の南側には墓苑造営以前から円福寺有縁の墓地が存在する。

 

また,町の中心的な神社である高尾神社も「もとは宮ケ迫にあった」との言い伝えがあり,城・寺・神社の密接な関係が想像される。

 

このようにみていくと,本城跡は単に「地域の中央に位置し,円福寺や高尾神社が近くにあった」のではなく,地域住民の精神的な拠り所である寺社と深い結びつきをもった実質的な地域の中心地といえ,地域の有力者と関わりの深い施設であった可能性がある。

 

周辺城跡から見る本城の役割

現在の地域史における本城跡の位置づけはどうなのか。

 

先述したように,本城跡は政治情勢からみて「野間氏の城の1つ」として位置づけられている。

 

15世紀中頃,矢野に入部した野間氏は,矢野城に本拠を置きながら呉地域の西部へと勢力を拡大し,焼山もその支配域に組み込んでいる。

 

区域内には,軍事機能が高い掃部城,館があったといわれる城山,埋蔵金伝説のある陣山城,野間氏最後の合戦地と伝わる茶臼山城など,野間氏伝承と共に数多くの城跡が伝えられている。

 

これら野間氏系の城には城塞網の存在が唱えられており,本城跡も交通の要衝に位置するだけでなく,見晴らしがよいため遠方を望むことができる。ここで, ネットワークの視点から本城跡の意義を検討してみたい。

まず,本城跡から東に望む神山は,呉から焼山・天応へと抜ける主要道が通っており,野間氏にとっては呉との境目となる重要な場所である。

 

もともと「陣ノ山」と呼ばれ,武具に因んだ地名が残っていることから, 「陣山城」の存在が想定されている場所でもある。

 

次に吉浦方面であるが,茶臼山城は山影に隠れて確認できない。

 

しかし, 山々の間に鍋土峠にある小高い墓苑を垣間見ることができる。

 

ここは茶臼山頂を覗くことができる格好の場所であると共に,呉との境界線ともなっている。

 

また, この辺りには「正蓮坊」の存在が伝えられており,野間氏の情報網として機能していたと想像される。

 

天応方面では,沿岸部の山々に見張り台としての城跡が想定されているが,茶臼山城と同様に山に隠れて見えない。ただし, こちらは天応一坂一矢野と海伝いに保木城へつながる「沿岸ルート」が存在している。また,本城跡は天応への通路に面している。

熊野方面では,やや小高い位置にある城山との連結が想定される。

 

野間氏にとっては熊野との境であり,重要な場所といえる。

 

城山からも神山方面を望むことができるが,距離としては少し遠い感がある。本城跡は,やや角度はずれるものの両者の中間的な場所に位置しており, 中継地点とみることができる。城山からは古絵図に伝わるマミガ城が目と鼻の先であり, その背後には絵下山, そして保木城が控えている。

このようにみていくと,右図のような城塞網が見えてくる。すなわち,眼下を通る天応への交通路を押さえつつ,本城跡が焼山の中心に位置するという利点を生かし,呉・吉浦・熊野を結ぶ城塞網の中継地点として機能していたことが想定できる。郭lの北東斜面で確認した焼土は,次の城に連絡をするために火を灯した痕跡の可能性もある。

 

以上の検討を踏まえると,本城跡を野間氏の城塞網の1つと位置づけることは妥当であるといえよう。

 

本城跡の性格

本城跡は,堀切や平坦面の造りなどが不十分で,防御機能が低い。

 

また, 出土遺物がほとんどなく,建物跡らしきものもないことからも,いわゆる永続的な施設と考えられない。

 

しかし,県内には記録や地図にない城跡や本城跡のような明瞭な郭をもたない小規模な城跡も多く,県教育委員会による中世城館遺跡総合調査でも,小規模で軍事機能が高いといえない城跡が数多く分布する実態が明らかになっている。

 

先述の小都氏は,県内のさまざまな城跡を多角的に分析・分類し,小規模城の実態解明を試みている。その考察をもとにしながら,本城跡を検討してみたい。本城跡の特徴をまとめると,次の点が挙げられる。

 

①小規模であり,麓の集落との比高も小さい。
②建物の痕跡がなく, 出土遺物が極めて少ないため、生活感がない。
③軍事機能が不十分である。
④神山(呉),熊野,天応,吉浦へと分かれる交通の要衝に位置する。
⑤焼山を見渡すことができる。

これらのうち,①~③は小都氏が言うところの「砦」の要素に該当する。

 

ただし,本城跡の場合は④.⑤のように交通の要衝に面して見晴らしもよく,他の山城とのネットワークが十分に考えられ, その意味では「出城」の要素ももっているといえる。

 

ところで,小都氏は,小規模城が「郷村内の土豪や有力農民を中心とした小村落を単位とした施設」であり, 「臨時的な共同施設」であった可能性が高いと指摘している。

 

本城跡も,城主に関する伝承や寺社との結びつきから,地域住民との強い結びつきを感じさせる。

 

城平山頂部に寺の墓地がつくられていることも,地域住民が利用する共同施設としての性格が引き継がれた可能性をうかがわせ, 「村の城」としての側面も見られるといえよう。

 

結論

本城跡は,不完全な構造や防御機能の低さから,軍事機能を備えた山城を想定することは難しい。

 

しかし,伝承や史料からみて何かしらの施設があったことは確実であり,周辺の城跡との位置関係や立地条件からみて,野間氏の城塞網の1つに含まれていた可能性は極めて高いといえる。

 

城の築造に関わるとされる「焼山中務少輔」の正体や野間氏との関係は現段階では明らかにできなかったが,丘陵頂部に関する一連の事実を踏まえると,本城跡は円福寺や高尾神社と所縁ある村の有力者に関連した地域的な施設であり,その後丘陵頂部に野間氏と関連した城が築かれ,最終的に野間氏の城塞網の1つに組み込まれていった可能性もある。

 

全てが推測の域を出ないが,野間氏の時代あるいはその前後の時期に,見張り台としての役割を主目的とし,形式を模倣して簡素に造られた砦(または出城)であり,立地を鎧大限に利用した城砦ネットワークの1つとして機能したと結論付けたい。

 

呉市においては数少ない発掘事例であり,考古学的視点から呉市域の歴史にアプローチする格好な資料であるとともに,野間氏の実態や小規模な城の形態などを探る上で良好な資料の1つといえよう。

在りしの城平山城。

 

所感

●現在はバイパスになっており遺構は無くなっているが、山頂の墓所も城だった可能性が高い。

●この地域は野間氏の所領だった為、城平山城も野間氏の砦のような扱いだったと想定される。

●野間氏の前に焼山中務少輔という人物が伝承としているが彼が南北朝時代の人物であったのであれば野間氏入植前として可能性はある。

 

 

関連URL

【広島県】矢野城【安芸区矢野町】

【広島県】掃部城【呉市苗代町】

 

参考URL

城平山城跡 – 全国遺跡報告総覧

城郭放浪記(安芸城平山城)

 

参考文献

『芸藩通志』

『熊野町史』

『広島県矢野町史 上巻』

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』

『中世の呉』(呉市史編纂委員会編『呉市制100周年記念版 呉の歴史』)

公開日2021/02/06

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