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城データ

城名:堀城

標高:98m

比高:96m

築城年:戦国時代か

城主:浦宗勝

場所:広島県呉市仁方中筋町

北緯:34.223687

東経:132.652758

 

攻城記

仁方の町から山に向かって登っていく。

現在は堀観音堂になっている。

城跡の周辺付近も削平地があるが、中世時代のものかは不明。

 

堀観音堂の由来

当地は堀城趾で、浦(乃美)兵部宗勝が領育していたと伝え られる。

「芸藩通志」に「浦兵部宗勝、瀬戸島(安芸郡音戸町) の人、小早川(隆景)氏に属して武勇絶倫」とある。

「仁方郷土誌」によると堀城の近くにあったとされる宗測寺 (建立年度不詳)に、城主の守り本尊として持経観音菩薩が 安置されていたが、戦乱で寺は廃寺となり観音像も盗難に あった。

やがて時は下って、天保十三年(一八四三年)に庄屋の 手島多三郎が三津村(豊田郡安芸津町)より持経観音を取り戻し当地に堀観音堂を建立し祀ったと伝えられる。

観音堂には観音像とともに、僧形の木像一体と位牌一体が安置されている。

昭和八年に堀喜六ほか九人の世話人により本堂の太修繕及び 庫裏が新築された。

しかし、長年の風雨で荒廃し平成三年の 台風十九号で更に傷みが著しくなったので、平成八年に 三登山萬願寺住職・寺下公興僧正により千歳山宗源寺観音堂 及び庫裏が再建された。

 

宗源寺多宝塔

本尊 龍神観音菩薩

平成十年、当地と縁のあった浦宗勝の普提所・並びに堀家、 手島家の菩提所として、三登山萬願寺住職・寺下公興僧正、 (株)谷屋建設社長・谷本健吾(掘家の子孫)及び有志により 創建された。

 

釣鐘。

多宝塔

戦国時代当時は奥まったところまで海であり、海上交通の押さえとしてこの場所に築城したのかもしれない。

多宝塔の裏に浦宗勝公墓所の檜が植えてある。

檜から下を見下ろすと曲輪っぽい跡がある。

曲輪跡か

見上げると急斜面で登れない。

堀城矢竹。

『芸藩通志』に加筆修正。

 

余湖図

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の歴史

戦などの記録は無いが浦宗勝の居城であったころから戦国時代まっただ中に存在した城。

浦宗勝は小早川水軍の主力として活躍。

当時この一帯は小早川氏の勢力範囲内で近くの呉市音戸町も浦氏の勢力範囲であった。

 

城主家系図

乃美(浦)宗勝の妹は仁保城城主である白井賢胤の妻となっている。

【広島県】仁保城【南区仁保】

 

永正年間には仁方の守将である「仁賀田近江守」が存在している。

永正年間の川尻・仁方の守将仁賀田近江守 を領する乃美氏は「瀬戸」を名乗ることがあったが、永正年間、乃美氏のなかには「仁賀田近江守」を名乗るものがおり、乃美氏は川尻・仁方をたんに知行していただけではなく、実際に仁方に館と城郭を構えて直接現地を支配していたようである。

 

資料として以下の3通がある。

 

A小早川弘平書状

(切封)

就率便申候、仍瀬戸三河守書状本覚寺上之時上給候、委細披見候、預参之由無心元存候、能々養生専一候、就其要害存間敷之由候、驚入候、幸左衛門尉被居候事候間、万廿年以後も別儀ハ有間敷頼敷候処、如此之儀不及覚悟候、内心之通御尋候て重承可成其覚語候、委可申候へ共、急便之事候条一華申候、恐々謹言、

五月甘日 弘平(花押)

乃美近江守殿

 

B陶興房等連署書状

就其境之儀、中書(弘平)与風可有御下向候由、頻雖被仰候、当時之儀公私不可然候条、被抑留申候、各有相談先無事之御覚悟可為肝要候、屋形 (義興)下向之時、旁以一段可被申合候、委細対礼部(治部少輔)直被申候間、各被相談候者弥肝要候、此等趣尚得其心可申之由候、恐々謹言、

十二月十三日

                                                興亮(花押)

                                                弘胤(花押)

                                                興房(花押)

仁賀田近江守殿

 

C小早川弘平書状

(切封)

其後者不申承候、何事共御入候哉、御床敷存候、其方何事なく候よし承候、肝心候、こ>もと同前候、中島動之儀共御心に入られ候由 注進候、本望候、弥御心二入られ候者可為喜悦候、在京いつとなく候て、不弁めいわくせひなく候、毎々たのミ存候、仍誠ニ御むつかしき申事二候へ共、此方にて尋候へハ、高直にも候、又料物不弁ニ候間申候、しま折物を一たん御たつね候て給候者、可為祝着候、千 万頼存候、こ>もと不弁ニ候て、きる物なと不弁ニ候、おり物之事たのミ存候、恐々謹言、

九月甘七日  弘平(花押)

乃美近江守殿

 

この三通の文書は、小早川弘平が大内義興に従って上洛中のものである。義興が足利義尹を擁して上洛中していたのは永正五(一五〇八)年六月以降のことである。

 

在京中の弘平の態度に着目すれば三通の順序は、「要害」問題で不慮のことを知らされて驚いている五月二〇日付けのA、在京長期化のなか「中島」での敵の動きを知らせてくれたことに 感謝する九月二七日付けのC、境界紛争解決のため帰国を焦る一二月一三日付けのB、ということになるだろう。

 

Aは大内軍入京後だから永正六年以降の五月に出されたものである。

 

Cの「在京いつとなく候て、不弁めいわくせひな く候」という文面からは長期在京の弛緩した気分がうかがわれる。

 

永正八年八月二四日の船岡山合戦の激戦の一ヵ月後にこのような弛緩した気分でいるとは思えないから、長期在京とはいっても永正八年ではないと思われる。

 

Bにみ える陶興房・問田弘胤はともに船岡山合戦に参加し、弘胤はこのとき戦死しているので、Bは弘胤在世中の永正五年から七年の間の二月に出されたものである。

 

時系列はA→C→Bの順序であるから、この三通の書状はすべて永正 六年か七年のものと考えてよいと思われる。

 

この三通の書状の宛先はACが「乃美近江守」、Bが「仁賀田近江守」である。

 

この両者は、①同じ乃美文書のなか にある、②大内義興上洛中の永正六年か七年に京都から出された小早川氏の所領紛争に関する一連の書状である、 ③乃美氏は仁方を知行している、の三つの点から同一人物とみてよい。

 

乃美近江守は仁賀田近江守とも名乗っていたの である。それは瀬戸城を居城とする乃美賢勝が瀬戸賢勝と名乗ったのと同じである。

 

乃美近江守は川尻・仁方を知行し、仁方に館と居城を有し「仁賀田」を名字としていた、瀬戸乃美氏の一門だったのである。

 

四年までみえる乃美家氏の官途は「備前守」であり、嫡子賢勝は弘平に従って上洛して船岡山で勲功をあげており、この時期は「小太郎」を名乗っている。

 

したがって「乃美(仁賀田)近江守」は家氏・賢勝とは別人であり、嫡子賢勝にまだ官途がないのだから賢勝の兄弟に「近江守」の官途があるとは思われない。

 

家氏の兄弟か、ひょっ として家氏と一体化した旧乃美家平系の人物かもしれない。

 

以上の事からもこの「堀城」の城主は乃美賢勝というよりか乃美一族であり地元の名前を冠した「仁賀田近江守」の方が自然に感じる。

石高

詳細は不明であるが、大永三(一五二三)年の知行注文に「仁賀多河尻七十五貫」の知行人として「多賀屋・乃美・得益」の三人をあげる。

更に、天文二十(一五五一)年頃の恩賞として大内義長から東西条仁賀田村二十貫八〇〇文の地を給付された。

 

このことから仁賀田の地で二〇貫余りを所領として得た乃美氏がいたと考えられる。

 

所感

●堀観音になっており現在天守付近は壊変されているが、直下の平削地は曲輪跡だと推測できる。

●戦国時代似小早川氏の勢力拡大に伴いこの地もその勢力下に入ったものと考えられる。

●海からはかなり奥に入っており標高も100mとある。直接海を見渡せる場所ではない。

●1592年頃の浦宗勝の所領は50石、嫡子景継は401 石であり恐らく宗勝が当主であった頃は500石位の所領があったと思われる。

その中のいくらかはこの仁方からの石高であったのかもしれないが詳細は不明。

 

関連URL

【広島県】大須和城【呉市川尻町】

参考URL

城郭放浪記(安芸仁方堀城)

 

参考文献

『毛利氏八箇国御時代分限帳』岸浩著

『萩藩諸家系譜』岡部忠男著

『川尻町誌』

公開日2021/1/16

更新日2021/2/11



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