城データ

城名:毛木城(けぎじょう)

標高:140m

比高:76m

築城年:不明

城主:毛木氏

場所:広島県広島市安佐北区安佐町毛木

北緯:東経:34.530072/132.427980

毛木城はここ

 

攻城記

攻城開始ですぐに矢竹に遭遇。

おそらく後世の畑の土留か。

本格的に登り始める。

登り始めて最初の曲輪。

本丸から東へ下りたところの曲輪で広さはあまりない。

石垣の跡か。

本丸、完全に藪化している。

本丸土塁。

窪み。

本丸から西へ降りた場所の堀切。

堀の遺構。

堀からみた本丸方向。

周辺部分。

毛木城全景。

 

open-hinataより【毛木城】

 

余湖図【毛木城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

『芸藩通志』毛木城

 

城の概要

最高所に二つの郭を置き、背後に土塁がある。また、東下には二つの郭がある。

背後の堀切をはさんで西側の尾根筋状には土塁がみられるが、城跡に伴うものかどうかは不明である。

北側斜面には等高線に対してやや斜めに下る竪堀群がある。城主は毛木氏と伝えられている。

 

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用

 

城は太田川に向けて伸び出した半島状尾根に載る。比高七〇メートルほどで、遠目にはなだらかな丘陵に見えるが、意外にも急峻で要害の地形となっている。城は主郭と一メートル下方に付属する腰曲輪からなる小規模なもの。

 

主郭南下方には井戸跡らしい凹地もある。単郭に近いシンプルな縄張りだが、主郭西辺を囲む土塁は高さ四メートルに及ぶものだし、主郭背後を巡る堀切は南北両斜面に大きく伸びて延長一〇〇メートルに達する。

 

城の本体である曲輪に比べ、不釣り合いなほど大規模な堀切と 土塁で防御された城となっている。

 

もう一つ、意外な感覚にとらわれるのは畝状堅 堀群の位置である。一般に畝状竪堀群は、背後の 堀切に隣接して曲輪の切岸下に築かれるのだが、 本城では竪堀群のほとんどが堀切の外側に築か れている。

 

刻まれた竪堀群の上方に曲輪は無く、 緩斜面が広がるだけだ。ただ尾根上にはわずか ながら平坦面があるから、兵の屯営地として利用 された可能性もある。

 

『広島の中世城館を歩く』より引用。

 

 

毛木氏について

『陰徳太平記』に毛木氏の名前が散見される、永正十四年(1517)旧広島県山県郡千代田町有田近辺にて有田合戦があったが、その時に武田元繁の家臣として従軍した人物に毛木七郎三郎行福、毛木三郎四郎、毛木民部大輔信久の名前がある。

 

(前路)さて本陣の先鋒は、毛木民部の太輔信久、筒瀬左衛門の太夫信実、辺坂入道々海、同き小次郎繁澄、久村、溝田、中山、已下、一千騎 二陣は後略) 

出典「陰徳太平記」有田合戦付元繁戦死之事

 

(前略) 如斯て丹比勢北にくるを追事頻りなれは、壬生辺にて、品川小平次、毛木三屋五郎太郎、板垣新三郎、辺坂権六、同き五太夫、溝淵五郎兵衛、飯富孫八、小川権助、なと返して討死す、瓜生田三郎左衛門、尾首藤左衛門は、深手負ひ、壬生の在家に立入、隠居たりしをー揆等討果たして、頸を有田へ送りけり(後略)

出典 「陰徳太平記」有田合戦付元繁戦死之事

 

また、武田光和死去に伴う家督相続の場にも参加している。

武田光和は、大内氏の侵攻中の天文9年6月9日に亡くなった。「陰徳太平記」によれば、その相続人として光和の妹婿、伴繁清(伴五郎)の子である刑部少輔を養子にすることになっていた。

 

また一説には、若狭の武田信実を養子にする案もあったが、結局、尼子の推挙した武田信実を養子に迎えいれた。

 

しかし、ここで重臣の中で争いがおこった。毛利元就や熊谷信直らに対して、「武田元繁や光和の弔い合戦をすべし」とする品川氏ら強硬派と、「まずは一旦元就と和睦をすすめ、武田家が断絶することのない状態にしたのちに時機をみて合戦をするべき」とする香川氏や己斐氏らからなる和平派が各々に主張した。

 

武田の老臣品川左京の亮は当家一味の国士 香川、已斐、飯田、温科、福嶋、山県等、其外家の子に筒瀬、毛木、部坂、粟屋、内藤、一条板垣などを呼び集め、(後略)

出典 「陰徳太平記」武田家督評定之事

 

また古文書に毛木の地が記載されているが、当時毛木が香川氏の領土になっていることが分かる。

 

毛利元就袖判奉行人連署人足注文

注文

元就公御判

二十人  香川領毛木

       筒瀬

       八木

十人    三須領 

三人    遠藤領   

八人    戸坂領

        以上

 

常楽寺之家臣八屋津(佐東郡)被招寄候、就其人足之儀被电候条、被成御合力候被仰付御馳走肝要之旨候、

恐々謹言

五月八日(年号は不詳)

児玉三郎右衛門尉

      就忠

井上四郎兵衛尉

      就重

平佐源七郎

      就之

 

福井十郎兵衛尉殿

御番所

出典『広島県史』古代中世資料編V(339頁)

「毛利元就袖判奉行人連署人足注文」「譜録」福井信之

【大意】

常楽寺の家臣を(佐東郡の) 八屋津に召し寄せられた。それについて、人足を出し言われたので、協力することになった。(福井から香川・三須・遠藤・戸坂氏へ)仰せ付けられ、馳走する(所定の人足を出す)ことが肝要である。恐々謹言

(所定の人足は、香川領の毛木・筒瀬・八木から20人、三須領から10人、遠藤領から3人、戸坂領から8人)

 

1592年頃の所領を記した、『毛利八箇国御時代分限帳』にも毛木氏が記載されていないことから、毛木氏は香川氏の家臣化したのかもしれない。

 

所感

●比高も低くすぐに登れる。

●前方の東に太田川が流れており天然の堀の形になっている。

●毛木氏は武田家臣として1517年の有田合戦に出陣しているがれ以外には不明なところも多い。

●地元の方に確認したが、昔はこの地域に毛木さんという方がおられたが今ではいないということ。

●『芸藩通志』には毛木城2城を記し、一つは毛木小太郎ともう一つは毛木民部の居城とする(もうひとつの城は毛木古城であろう)

●『陰徳太平記』では毛木氏を「家の子」としており武田氏の庶流の可能性もある、そこで武田氏滅亡時に離反することが出来なかったのかもしれない。

 

関連URL

【広島市東区戸坂】中世戸坂氏について

同じように国人領主から陪臣化したと思われる戸坂氏。

 

参考URL

毛木城(広島市)

open-hinata

 

参考文献

『芸藩通志』

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』

『毛利八箇国御時代分限帳』

『新裁軍記』

『広島の中世城館を歩く』表邦男著

 

公開日2021/05/02

ホームに戻る

攻城一覧

 



Copyright © 山城攻城記 All Rights Reserved.