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小屋城

城データ

城名:小屋城

標高:36m

比高:36m

築城年:南北朝か

城主:八瀬島氏

場所:江田島市能美町高田

北緯:34.229573

東経:132.435269

 

攻城記

小屋城全景

山頂部は畑になっており壊変されている。

周辺は切岸になっており急勾配。

城域はかなり広いが当時もこの広さであったかは不明。

小屋城から海を望む。

 

城の歴史

●高田にも能美氏(山野井氏)の一族がいたと思われ彼らが築城したと考えられる。

●水軍の城としての機能を有していたと思われる。

●後世は八瀬島氏の居城であった。

 

所感

●当時海岸線が真下にありその突端に突き出た海城だったと思われる。

●能美水軍の一翼を担っていたのではないか?

●城跡は畑や墓所になっており、麓から歩いていける。

●後世に畑化しており、遺構は残っていないと思われる。

●ただし、周辺部の切岸はしっかり残っている。

 

 

堀越城

城データ

城名:堀越城

標高:56m

比高:56m

築城年:南北朝以前か

城主:能美左馬亮、山野井修理(源八兵衛清秀)

場所:広島県江田島市能美町高田

北緯:34.228023

東経:132.434050

 

攻城記

堀越城と推定できる場所の平削地。

戦後まで畑になっており当時の遺構は無いと思われる。

三角点があることからここが本丸か

現在は畑も無くなり竹藪になっている。

真下を望む。

 

所感

●堀越城は小屋城の尾根の延長線上にあり、境界線が不明であった。

●水軍城とての機能を有していたと考えられる。

●戦前や戦後当分の間、このあたりは全て畑になっており壊変されていると思われる。

 

 

北堀城

城データ

城名:北堀城

標高:82m

比高:10m(林道から登って)

築城年:南北朝時代か

城主:八瀬島氏

場所:広島県江田島市能美町高田下井田

北緯:34.230986

東経:132.428655

 

攻城記

北堀城全景

平削地(曲輪跡か)

 

周囲への曲輪は急勾配。

本丸到着。

本丸の面積はそこそこある。

本丸から下を望む。

 

余湖図

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

 

城の概要

城跡は西から東に延びる丘陵先端に位置し,北側には空川を挟んで小城跡がある。

西側は林道建設により破壊されている。

最高所の1郭(25m×15m)のほぼ南側に郭が展開する。

全体的に後世の開墾が著しい。

広島県中世城館遺跡総合調査報告書より引用

 

所感

●小屋城の詰城として、八瀬島氏の居城であったという。

●この城も戦後しばらくまでは畑になっており当時の現状がどこまで残っているか不明。

●山には林道が通っているが、当時は無いのでその延長線上にも遺構があったのかもしれない。

 

 

小城

城データ

城名:小城

標高:99m

比高:25m

築城年:南北朝時代か

城主:能美左馬亮、山野井修理(源八兵衛清秀)

場所:広島県江田島市能美町高田

北緯:34.234371

東経:132.428222


攻城記

 

小城全景図

小城付近から海を望む。

目の前の本丸まで場所は分かったが、余りにも藪化が凄いため、ここで断念。

 

余湖図

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

城跡は西から東に延びる丘陵先端に位置し,南側には空川を挟んで北堀城跡がある。

西側は林道建設により破壊されている。

最高所の1郭(27mx17m)の北から東を幅約8mの帯郭が巡っている。

この郭は北西隅の通路によって1郭北西4m下にある堀切状の郭(20m×14m)につながる。

これらの西・北・東にも郭を6段設けている。

広島県中世城館遺跡総合調査報告書より引用

 

 

所感

●高田にある城のなかで一番藪化がすごく攻城を断念した城。

●ここも後世の壊変で遺構は残っていないと思われる。

●後詰の城としては最適。

 

 

四城説明

『能美町誌』に詳細が記載していた為紹介する。



古城跡

北堀・堀越城跡(高田)

高田の豪族として元弘二年(一三三二)に高田弥十郎直継が衣(江)田 島公文職として活躍(「能美三郎左衛門文書」)し、

次いで明応二年(一四 九三)に高田十郎三郎が厳島の屋敷を相続した記録が残っている(「大柿町史」) 。

その後、戦国時代に入って、高田・清能の小屋城は水軍城と 下井田の北堀城は後詰城として、八瀬島氏の居城であったといわれてい る。

北堀城跡の下にある陣場に古墓あり、八瀬島某の墓と伝う」とある。(「芸藩通志」)

また、清能奥の堀越城は水軍城、井田の小城は後詰城であったという。

初め永禄二年(一五五九)、能美左馬亮「閥閲録」が、その後、清景の分家・山野井修理(源八兵衛清秀)が城主として入城したとある。(高田・「山野井文書」)

 

四城位置関係。

 

昭和30年当時の位置関係。

海岸からかなり畑化しており、遺構は残っていないと思われる。

曲輪跡は壊変されているが、切岸などは残っているものと考える。

 

『芸藩通志』に修正加筆。

 

高田の能美氏(山野井氏)について

高田には山野井清秀氏が城主としていたが、その起源は文治2年(1186)らしい。

能美の初代城主である景清の弟である清秀がこの高田の地に来たようである。

しかし、萩藩閥閲録の中に系譜がある。

 

山井中納言経時

山井別府大夫吉方 初吉貞 勝法師丸

能美惣太夫吉貞 初能定

能美十郎権守助平

能美平六秀家

能美弥十郎貞家

能美十郎兵衛康家

能美弥工十郎康定

高田弥十郎貞継

高田十郎三郎貞綱

高田豊後守泰貞

高田某

能美十郎三郎某

十郎三郎弟衣田千松丸

能美弾正忠某

能美内蔵丞宣通・弟法名善慶

始仕元就公

能美筑后守宣仍 始(亀千代丸)弥四郎 内蔵允

元和元年五月十二日死 七十五歳

能美太郎右衛門元古 始五郎助 内蔵允

万治弐年五月八日死  六十五歳

能美太郎右衛門宣勝  始弥四郎

能美三郎左衛門宣重 (五郎介 六右衛門)

 

これらから家系図を作成すると。

 

この中に高田姓を名乗っているものがいる。

南北朝時代にこの高田の地に能美氏(山野井氏)がいた証拠となる。

 

また、厳島合戦後の能美島は、永禄元年(一五五八)、小早川隆景の要請で戦功を挙げた来島(村上)通康が、 地頭として入島した「閥閲録」)。

通康は入島後の永禄六〜八年に次のように能美氏の遺児に所領分けをした。

即ち、能美千寿丸(東能美山野井氏の祖)に四五貫余、能美民部郷丸に七〇貫余、能美与三に五貫余の 土地を支給している。

(民部郷丸、与三は西能美山野井氏の祖)

 

城主石高

能美内蔵尉(宣仍) 27.458石 長門 大津

 

能美清右衛門(重教) 101.07107、5

【内訳】

11.456,5 安芸 山県

29.504  安芸 佐西

60.147  周防 都濃

 

能美清右衛門は人物比定出来ない。

能美城の能美一族か?

 

 

以下推測

●萩藩閥閲録の中に能美氏がいるということは、関ヶ原の戦いの後にこの能美一族は萩に言った。

●その中に「高田」の名前もあるので、能美町高田を本拠とした能美氏が萩に行ったと推測出来る。

●ただし、一族の中には高田の地に残り帰農した者もいると思われ、苗字も山野井に改名したのではないか?

●同様に大柿町大原にいた能美景秀にも来島家通康から、能美島70貫の地を宛う。

●大柿町大原にいた本家の能美氏は厳島合戦の後に帰農、能美町高田にいた一族は毛利に付き萩に行く者もと現地に残るものがいた。

●また、能美町中町にいたとされる能美一族もいたと考えられる。

 

関連城

【広島県】能美城【江田島市大柿町大原】

【広島県】麓城【江田島市大柿町大原】

【広島県】亀山城・新蔵城・堀城・麓城【江田島市能美町中町】

 

参考URL

能美氏|戦国日本の津々浦々

 

参考文献

『能美町史』

『大柿町史』

『広島県の地名』

『芸藩通志』

『中世の呉』(呉市史編纂委員会編『呉市制100周年記念版 呉の歴史』)

『萩藩諸家系譜』岡部忠男著

公開日2021/1/11



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