新沼家
長沼家は私の曾祖母の実家ですが、祖父が養子ですので血縁関係はありません。
このような関係になります。
まず戸籍で、本籍地(住所)が判明していましたので、電話帳で同じ住所の方がいないか確認。
合わせて戸籍の最後に記載している孫の名前が電話帳に記載されていないかも確認。
そうすると、明治41年生まれの新沼寛という人物が、戸主が新沼良次郎の戸籍に記載されていました。
※新沼良次郎の戸籍に嘉右衛門、コマチ夫妻が「父」「母」で記載されていました。
ここまで分かっていた為、この新沼寛さんのところへ手紙を書き何かご存知でしょうかとたずねました。
戸籍の最後に記載されている人物であれば、電話帳に記載されている可能性を感じました。
絶対に分からない山の中のお墓
そう連絡すると返信があり、墓の場所を教えてくれるとの事でしたので、伯父と一緒に公民館で待ち合わせをして一緒に墓にいきました。
残念なことにご当主である寛さんは10年以上前に亡くなっており、来られたのは奥様とお嫁さんでした。
叔父はこの付近で育った為に、地域のことや新沼という家がこの地域に多いことも分かっており、奥様と話が弾んでおりました。
墓所は山奥の中にあり、他人には絶対に分からない場所でした。
そこの新沼の墓を確認すると、ちゃんとした墓があるのですが、墓の隣に石が固まっておいてあるのが確認できました。よく見てみると昔の墓の残骸でした。
※新しい墓を作る時に崩したとのこと。
それをさらに見てみると五輪塔があるではないですか。
長沼さんにお話を聞いたら長沼家は昔からの旧家だったらしいです。
綺麗に整えられた墓所
位牌や過去帳の存在も確認しましたが、両方無いとの事、菩提寺は遠いところにあるが、現在は住職が亡くなり、廃寺になっており隣村のお寺にお経を上げてもらっているとのことでした。
後日、県史を見てみると、地元有力者に新沼家がいたことが判明しました。
更に他の資料でも新沼氏が出ており、戦国時代に九州の宗像氏が没落し落ち延びたとあり、そこで新沼氏に改名したとありました。
おそらくその新沼氏と関連があるのではと考えています。
江戸時代には庄屋をしていたようですが、私の先祖にあたる新沼氏との関係は不明です。
後日墓所に行った時に衝撃的な光景を見ました。
なんと墓石が崩されていました。
残骸になった墓所
どのような経緯でこのような形になったのかは不明ですが、少し残念な気持ちになりました。
新沼家と祖母
新沼家は祖父の養母の家になります、
しかし、全ての戸籍を入手して家系図を作成する途中で、実は祖母の先祖に縁があったことが判明しました。
家系図で示すとこんな感じになります。
つまり、祖父から遡っていくだけでは杉本平太、ユウ夫妻との血のつながりは無いと判断しますが、実は祖母系統を遡れば高祖母の両親として血のつながりがある事を発見しました。
※養母の母親であるコマチは杉本平太とユウの子どもであるが、実は祖母から遡っていくと、祖母の曽祖父母が杉本平太、ユウとなり血統でも直系尊属になることが判明。
このことから、安易に養父母だと思っても、実は別の系統から遡ればその遠い先祖で血が繋がっている可能性も否定出来ません。
高祖母が姉で新沼コマチ(旧姓杉本コマチ)が妹という関係になります。
子ども達は従兄弟の関係です。
祖父母が結婚したのは昭和8年になります、当時いい嫁さんがいないか親戚で探している時に、祖母に白羽の矢がたったのかもしれません。
私からすれば遠い昔の話しになりますが、当時は近親者で話しをして決まった普通のことだと思います。
学んだこと
●比較的新しい系統(曽祖父母や高祖父母までの家)は探しやすい。
●戸籍で最後に記載されている方は電話帳に記載されている可能性もある。
※電話帳検索では以下のものを使用しています。
●叔父などの親戚と一緒に行くと、往時の話しなど自分が想定していないことも聞ける場合がある。
●田舎の墓所は山の中にあるので、知っている方と一緒に行かないと場所の特定が難しい。
●最近は住職が亡くなり廃寺になっているお寺も多くなっている。
●養子だと思っていた系統が別の系統から遡っていくと、血統で繋がる場合もある。
はじめまして。
庄屋は、日頃市町の亡くなられた一二三さんの「おおはん」ですよね。
新沼家でも甲子地区と宿地区では違うと母親から聞いたことがあります。