城データ

城名:勝尾城

別名:三ヶ山城、三上城、筑紫城三上山

標高:498m

比高:350m

築城年:応永30年(1423)

城主:渋川義俊、筑紫氏

場所:佐賀県鳥栖市牛原町字若林

北緯:東経:33.402145/130.465360

勝尾城はここ

 

 

攻城記

 

当日雪の中強行攻城。

比高が高く苦戦する。

この時点ではまだ雪も少ない。

大手曲輪。

このような石垣があるらしい。

雪が邪魔して分からない。

削平地は広く取ってある。

やっとの思いで本丸まで到着。

標高も高く、一面銀世界。

抜群の眺望。

本丸に戻る。

城山(勝尾城跡)

城山は、九千部山の山ふところに包まれ、前面には 群石山、鷹取山が立ちふさがる天然の要害です、海抜標高 四九四メートルの頂上には三段の平坦部があり、北側は「倉床」 と呼ばれ礎石や石垣が残っています。

 

南側の「物見岩」 からの展望はすばらしく,筑柴平野が一望に見渡せます。

 

勝尾域が記録にみえるのは 応永三〇年(一四二三) から天正十四年(一五八六)までの一七〇年間。

 

その間城主の移り代わりは目まぐるしいが、明応六年(一四九七) 以降は満門―推門―広門と三代にわたる筑紫一族の 本拠地となっています。

 

天正十四年(一五八六)七月、薩摩・島津軍 の攻略により落城しています、周辺にも域報に関連する 施設や地名が数多く残っています。

 

鳥栖市教育委員会

 

勝尾城の本丸。

勝尾城の石垣。

非常に立派で堅牢な石垣が積まれている。

伝二の丸跡の石垣。

伝二の丸跡の虎口。

雪で全然分からない。

 

余湖図【勝尾城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

勝尾城跡 鳥栖市牛原町

九千部山の南の支脚の一峰、城山(四九四メートル)にある中世の山城跡。

 

安良川上流の大谷川・四阿屋川の両谷 に挾まれた岩の多い山で、谷を隔てた前面に小峰群を配 して自然の要害をなしている。

 

岩崖がめぐる山頂にはわずかの平坦地があって石垣の遺構があり、南部に物見、北部に倉床、西方山腹に馬責馬場と称する所がある。

 

南 麓に「お館」という城主筑紫氏の居館跡、その東方に鎮守社勝尾権現社跡・菩提寺全休寺跡・家老邸跡があり、 こうらい門・鐘撞などの地名も残っていて、北麓の貝方、 東麓の桜馬場には敵味方の供養場跡がある。

 

大谷川の横谷を隔てた東方群石山(二〇一メートル)近くの鏡山城、四阿屋川谷を隔てた鷹取山城、葛籠(津倉)城は支城で、それ ぞれ交通堀などの遺構がみられる。

 

「九州治乱記」などに その名がみえる。

 

応安四年(一三七一)から八年の「萩藩閥閱録」記載の軍忠状に「城山御陣」とみえることから、この頃すでに城砦があったとも推測されるが、応永三〇年(一四二三)博多を追われた九州探題渋川義俊がここに退いて築城したともいう。

 

その後、渋川・少弐・筑紫・大内の各氏によっ て攻防が繰り返される。

 

元亀三年(一五七二)城主筑紫広門は竜造寺隆信に攻められて降伏。

 

天正一四年(一五八六)島津家久は大友方へ付いた広門を攻め、落城。

 

以後廃城となる。広門は翌一五年、豊臣秀吉の九州統一により筑後 国上妻郡(現福岡県心女市・八女郡)を与えられてその領主となった。

 

城山南東の集落新町のはずれに川上左京亮墓と伝える所がある。

 

島津方の左京亮は竜造寺隆信の首級をあげた 武将だが、城山攻防戦で鷹取山城主筑紫春門と組み打ち刺し違えたと伝えられ、村人から病気(おこり)平癒の神として信仰されてきた。

『佐賀県の地名』から引用。

 

勝尾城

勝尾城は、筑後川と筑柴平野を一望できる、現在は城山と呼称されている標高五〇一mの山頂付近一帯に所在し、山頂平坦面の状態から連郭式山城と推定される。

 

東肥前有数の城郭である。

 

鳥栖地域一帯は古来より交通の要して肥前路と筑後路との分岐点となっていた。

 

また戦略的拠点としても位置づ られており、朝鮮式山城の基肄城ならびに旭山の燦。つまり狼烟台が置かれていた。

 

 

筑前国との国境となって いる背振連山東端の主峰九千部山(標高八四八m)を屏風の如く背後に置き、南東 に権現山(標高六二六m)か杓子ケ峰(標高三一二m)へと通じ、南西に石谷山(標高七五四m)から雲野尾峠(標高四〇〇m)へと連なる。

 

山なみに囲まれた天然の要塞に、城山こと勝尾城はあった。

 

また前面には、群石山などの二〇〇mクラスの 山々が連なり、城山へ登るには安良川の開谷した隘路をたどるしかなく、中世山城として非常に恵まれた地理的条件にあったといえる。

 

城山を取り巻く山々には支城が多く築かれており、 群石山には鏡城、安良川を挾んだ山麓先端部には葛籠城(津倉城)、その頂上付近に鷹取城などがあった。

 

さらに南に下れば朝日山山頂(標高一三三m)に旭山城があり、その西隣りの所隈城も支城とされていた。

 

勝尾城の築城時期については諸説がある。勝尾城という地名が文献に初見す るのは『九州治乱記』(応永三十年)で、九州探題渋河義俊により築城されたと の記録がみられる。

 

また、延徳三年(一四九一)に義俊の子孫である義基が築いたとする記録(『鎮西要略』)もみえる。

 

さらに応永二十六年(一四一九) 渋川義俊が「牛原ニ探題陣所」を設けたのを、勝尾城という名はみえないが、その始まりとする見解もある。

 

同じく名は記されていないが、『萩藩閥閱録ー長井掃部助貞広申軍忠事』『毛利文書―毛利右馬頭春申軍忠次第』『入江文書-田原下 野権守氏能申所々軍忠之事』『山内首藤文書―備後国山内下野守通忠申军忠事 などの中国地方の古文書には、応安五年(文中元、一三七二)の宮浦・由比・高上・雲上・旭山・所隈御陣事の地名と共に、城山·本所城御陣事の記載がみられる。

 

記録にみえる宮浦は三養基郡基山町宮浦周辺の丘陵上に、由比は鳥栖市柚比 みや 町字本陣付近に、高上・雲上は地名が類似しているが、高上は神辺町字土井内 付近に、雲上は立石町雲野峠付近に、旭山は村田町朝日山山頂に、所隈は村田 町字所隈付近にそれぞれ比定できる。

 

したがって、他に相当する地名もみられ ないことから、城山・本所城というのは勝尾城ではないだろうかという推測もされている。

 

だとするならば、応安五年にはすでに勝尾城は築かれていたと考えられる。

 

勝尾城の築城期については、まだ結論を得ていない。 勝尾城の名が記録にみえるのは、応永三十年から天正十四年(一五八六)まで の約百七十年間である。

 

その間の城主の変遷はめまぐるしく、多くを数える。 応永二十五年、九州探題渋河満頼はその子義俊に探題職を譲ったが、その当時、 権勢をほしいままにしつつあった大宰少弐一族と争いになり、応永三十年に 「足利方九州探題渋河義俊博多ヨリ山浦ニ来リ勝尾城ヲ取構へテ居城」(『九州 治乱記』)するが、翌年には「少弐ノ一族筑紫教門勝尾城ヲ攻落シ渋河義俊」は 「筑後ニ落」ち延び、永享六年(一四三四)に「筑紫上野介頼門山浦在城」(『鎮西要略』)と記すところとなった。

 

その後の記録にはあまりみえないが、延徳元年には義俊の子孫「渋河義基(刀禰王丸)十一月廿三日大宰小弐政資ト養父城山ニ戦い」、敗走している。

 

延徳三年には「再ビ来リテ勝尾城ヲ第キテ入ル」こと となるが、明応六年(一四九七)には「少弐政資ノ子高経」が居城している。

 

その経緯については、記録ではみられない。

 

九州探題渋河氏と大宰少弐一族との 抗争に割り込むかのように、中国地方の部将大内義興の軍勢二万余騎が勝尾城 を攻め落としている。

 

その後は、大内方へ降った少弐一族の筑紫満門が城主として居城している(「『北肥戦誌』)。

 

以後、筑紫一族は満門―惟門ー広門と続き、 天正十四年(一五八六)に島津勢によって攻め落とされるまで、一時の空白はあ るにしろ、約九十年間、城主として君臨している。

 

筑紫一族ならびに勝尾落城 については『北肥戦誌』に詳しい。

 

現在、城山の頂上にはわずかな平坦地があり、石組みの遺構が残っているだけである。

 

しかし、頂上南部に物見の石、北部にクラトコ(倉床)と称する所が あり、物見台・倉庫があったものと推定される。

 

クラトコと称する付近一帯か らは炭化米が出土する。

 

山麓から四阿屋川(安良川の上流)にかけては、城郭関係の地名(字名)が多くみうけられる。

 

城山の南麓を下りきった所に現在は筑紫 神社があるが、そこは別名オタチ(お館)と称し、城主筑紫一族の居館跡と推測 される。

 

その東方には鎮守社勝尾権現社跡があり、その周辺からは炭化米・古瓦が出土したと聞く。

 

四阿屋川を挟んだ筑紫神社の反対斜面には、カネツキとよばれる水田があり、おそらく非常警報所としての鐘撞があったものと思われる 。

 

その山頂が鷹取城跡であるが、山麓にはその城主春門(広門の子か)の 跡がある。

 

鷹取城のある尾根線を下りきった山麓先端部が葛籠城(津倉城)跡で、 鷹取城まで続く空堀(交通濠)が残っている。

 

葛籠城は勝尾城の支城であるが、 その城主については不明である。山浦新町北側で城山をめぐる道が合流してい るが、その地区は井川口(井構口)という字名になっている。

 

また、その合流点付近一帯には、キリヨセ(刺寄)・コーライモン(迎来門か)・サクラババ(桜馬 場)などの宇名が残っている。

 

桜馬場には、築紫春門と川上左京の故事にちな み、敵味方供養碑が建てられている。

 

また筑紫一族の菩提寺全休寺跡、広門の家老友清邸跡もその付近であると推定されている。

 

『日本城郭大系』17より引用

 

城の歴史

応永26年(1419):渋川義俊が「牛原ニ探題陣所」を設けたのを、勝尾城という名はみえないが、その始まりとする見解もある。

 

応永30年(1424):九州探題渋川義俊により築城されたとの記録あり。

 

応永31年(1425):※小弐氏の一族である筑紫教門が勝尾城を攻めて、渋川義俊は筑後に落ちのびる。

 

延徳3年(1491):渋川義俊の子孫である義基が築いたとする記録(『鎮西要略』)もある。

 

明応6年(1497):少弐政資の子高経が居城している。

 

永正18年(1521):少弐氏一族の筑紫満門が当城の城主となる。

城主としては筑紫満門―惟門ー広門と続く。

 

天正14年(1586):島津勢によって落城する。

 

城主家系図

家系図1

家系図2

共に『史跡勝尾城筑紫氏遺跡保存管理計画書』35ページから引用。

 

惟門の父は正門ともある。

 

所感

●冬の雪山ということで、見どころである石垣群が雪に覆われており確認が難しかった。

 

●山頂には削平地があり数か所の曲輪があるが、城の全体遺構は広大で筑紫氏の力の大きさがが伺われる。

 

●城は主に筑紫氏の居城となっていたが、最終的に島津軍に攻められ落城、幽閉されるも、秀吉の九州征伐での華麗なる恭順で大名に返り咲く。

 

関連URL

【佐賀県】筑紫氏居館跡【鳥栖市牛原町字若林】

麓の居館跡。

 

参考URL

鳥栖市ホームページ

 勝尾城主要誘導板

史跡 勝尾城筑紫氏遺跡保存管理計画書

勝尾城(ウッキペディア)

城郭放浪記(肥前勝尾城)

武家家伝(筑紫氏)

筑紫氏(ウッキペディア)

筑紫満門(ウッキペディア)

筑紫惟門(ウッキペディア)

筑紫広門(ウッキペディア)

 

参考文献

鳥栖市教育委員会発行『 史跡勝尾城筑紫氏遺跡保存管理計画書』

『佐賀県の地名』

『日本城郭大系』17

公開日2021/10/10

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