城データ
城名:白鹿城(しらがじょう)
別名:白髪城
標高:154m
比高:122m
築城年:永禄年間(1558年〜1569年)か?
城主:松田満久
場所:島根県松江市法吉町
北緯東経:35.499531/133.053339
攻城記
麓の看板
ここで1563年頃に毛利軍と戦いがあったことが分かる。
整備されており比較的攻城しやすい。
三の床跡
遠く松江城が見える
二の床跡
戦時中の暫定的な加工
本丸跡
平削地は広い。
別のところに大井戸もあり。
ため池のような感じか。
余湖図
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の説明板
この城は、松江市の中心から北方4キロの島根半島の山脈にある白鹿山(標高149.8m)に築かれた山城で、軍記物では白髪城とも書きます。
すぐ北側の真山には、この白鹿城に対する毛利の向城として築かれた真山城があります。
城のはじまりはよくわかりませんが、戦国時代に尼子氏の本拠であった広瀬の富田城を防御する上で、この島根半島一帯は水運や軍事上重要であったため、白鹿城を築いて戦略拠点としました。
一方、尼子打倒と出雲制覇をもくろむ毛利勢は、元就をはじめ吉川元春、小早川隆景が自ら出雲にのりこみ、永禄五年(1562)宍道湖北岸の洗隈山に荒隈城を築き富田城攻略の向城としました。しかし、まず半島の拠点である白鹿城を落とす必要がありました。
幾たびの攻防戦の末、ついに翌六年(1563)十月落城しました。そしてこの三年後にとうとう富田城も毛利勢の手に落ちました。
今、城跡には、本丸、月見御殿、水ノ子、井戸跡、一ノ床、二ノ床、三の床、大黒丸、小白鹿、高坪山、大高丸、小高丸と呼ばれる郭などの遺構が残り当時使われた陶磁器やかわらけの破片は発見されています。
平成九年三月 松江市
看板より
城の概要
概 要
松江市街地の北方に位置し、宍道湖、大橋川、島根半島の水運を把握する拠点として尼子氏に重視されていた。
主郭は白髪山の最高所と考えられ、急唆な地形を利用して防御施設がつくられている。土塁や堀切も認められるが規模は小さい。
毛利氏は尼子氏に白髪山城を開城させた後、当初白髪城を攻めるための陣城とした真山城をこの方面の拠点とした。
そのため、白髪山城は毛利軍の改修を受けていない可能性もある。周辺の山々には「大高丸」「小高九」「小鹿城」「高坪」等の地名が残り、
それぞれに普請は不十分だが防御施設が認められる。城将は尼子晴久の姉婿ともいわれる松田誠保と伝えられる。
島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用
松江市法吉町の一角にある標高154mの白鹿山頂にあった戦国期の山城で、遺構として頂上部に本丸および月見御殿とよばれる平坦地があり、三の床・二の床・一の床がこれに続いてる。
中腹に井戸跡があり、東側の谷には毛利元就が石見銀山の坑夫に命じて地下道を掘らせて井戸水を抜いたと伝えられる水の手を呼ばれる場所がある。
築城時期は明らかではないが、歴史上とりわけ大きな注目を集めたのは毛利氏が尼子氏討伐のために出雲に進出した永禄5年(1562)から翌年にかけての初期尼子・毛利合戦の際である。
当時、白鹿城は羽倉山城とともに尼子氏が島根半島と中海・宍道湖を掌握し、富田城への兵糧米と軍需物資の補給を確保するための戦略拠点としてきわめて重要な位置を占め、尼子麾下第一といわれた松田誠保が守備していた。
毛利元就は宍道湖岸の荒隈山に前線基地を定めるが、それは元就が白鹿城のもつ戦略上の重要性を十分認識してのことであった。
毛利軍による白鹿城への本格的な攻撃は永禄6年(1563)8月13日から開始され、小白鹿などの諸丸固屋を落として本丸に迫った、そして10月になってようやく落城に至った。
城の歴史
毛利氏の尼子侵攻により城主の松田重久は白鹿城に立て籠もる、しかし、最終的には陥落し降伏する。
しかし再度尼子側に離反、毛利軍の攻勢にて開城し降伏、松田満久は自害すると伝わるが息子の誠保は隠岐に逃げる。
エピソード白鹿城の戦い
城主家系図
※尼子政久娘は松田満久の妻という文献もあり不明な点が多い。
※松田吉久が後に赤穴城の城番となったというが、経緯は不明。
所感
●毛利軍侵攻の為に築城された山城の為、加工度は低い感じをうける。
●山の広範囲を城域化しており、尾根はかなりの部分加工されていると思われる。
●城主の松田氏は元々備前国和気郡金河城主であったというが詳細は不明。
●登り口も分かりやすく1時間もあれば本丸にたどり着く。
●松江城も見えるので是非確認を。
参考URL
参考文献
「島根県の地名」
「法吉町史」
公開日2020/12/24