城データ

城名:三笠城

別名:熊野城

標高:302m

比高:180m

築城年:南北朝~室町時代か

城主:牛尾氏

場所:島根県雲南市大東町南村

北緯東経:35.337928/133.031694

熊野城はここ

 

攻城記

三笠城跡と登城口があり分かりやすい。

このような整備された道を進んでいく。

熊野城矢竹。

途中眼下が広がる場所もある。

石塁跡の目印。

石垣のことであろう。

石垣を多用した城ではなくこの部分に残る。しかし、この部分の何故石垣がるのかは疑問が残る。

本丸手前の曲輪。

曲輪の中では本丸よりも大きい感じをうける。

本丸跡。

本丸は一番広い。

本丸中央部は少し高さがある、櫓台があったためか。

比高が180mある。

 

牛尾城全景。

 

海潮神社

本殿。

三笠城跡縁の石

 

看板抜粋

“延喜式内社 元郷社 海潮神社御由緒

御祭神 宇(う)能(の)治比(ちひ)古(この)命(みこと)

(略)
…降(くだ)って、出雲式社考あるいは雲陽誌には、大森大明神と称し、正9年11月(420年前)造営の棟札があり、以後17回の社殿造営の記録がある。

 古来武将部門の崇敬篤く、中世のころ、この海潮の地を領した尼子氏の重臣・牛尾弾正忠は、三笠城に拠り当社を祈願社と定め、社地社領の寄進をし、祈願神事に用いたと伝える獅子頭を今も社蔵している。

 

明治維新までは、年々御札下げにて社領来の寄進があったが、王政復古を期して廃止された。

明治5年1月新制度により郷社に列格、郡政下にあっては例大祭に郡長の参向が続き、明治・大正・昭和の初期までは大森さんと称して親しまれ、遠近を問わず崇敬されてきた。

 

創立以来千数百年、社地社殿等の移転もなく今日に至っている由緒ある神社である。

 

境内社 稲荷神社 恵美須社
八幡宮 高平社
社日社 総荒神社
鷲神社
三大祭 例大祭 10月20日
祈念祭 3月22日
新嘗祭 11月27日

平成13年10月20日 正遷座祭斎行記念
宮司 新田有一職

 

余湖図

 

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

概 要
急峻な地形を利用して築かれており、堀切は確認できない。最高所が主郭と考えられ、尾根筋に対して土塁を築いている。

普請は全体的に不十分だが、地形が急峻なため必要とされなかったものか。尾根伝いに入雲山を経て熊野城に連絡できる。

毛利軍は入雲山に高津場番城を築いて両城の連絡を進断し、個別撃破したと伝えられている。牛尾氏の居城として知られる。

 

島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用



城の歴史

応仁の乱後京極氏に従った牛尾氏によって築城された。

 

文正2年(1467):京都で応仁の乱が勃発すると、出雲守護京極持清は東軍に属し、因幡・伯耆・石見の守護山名氏は西軍の中心勢力であった。出雲の赤穴氏、牛尾氏、三刀屋氏らは上洛して西軍の斯波義廉の軍と戦う。

 

文明16年(1484):尼子経久討伐の命が発せられた時にこれに三沢・朝山・古志、そして三刀屋氏と共に富田城を攻撃する。

 

永正4年(1507):大内義興がかねてより庇護していた前将軍義尹を奉じて上洛軍を起こした。

 

この陣には尼子経久をはじめ三沢・三刀屋・牛尾・朝山らの出雲国人衆も従った。

 

永正8年(1511):牛尾幸清が尼子経久の共に大内軍として参加船岡山合戦にて三好氏と戦う。

 

天文9年(1540):尼子晴久の安芸遠征にも随行して安芸武田氏を援護した。

 

天文11年(1542):大内氏が出雲に侵攻すると、牛尾幸清が月山富田城の守備に当たった。

 

永禄元年(1558):尼子晴久の小笠原長雄応援に従軍。

 

永禄5年(1562):牛尾幸清が毛利氏の白鹿城攻め時に尼子軍援軍として戦うが白鹿城は落城する。

 

永禄6年(1563):毛利氏が富田城に迫ると、幸清・久信父子は富田城に入った。

 

永禄9年(1566):城内の兵糧が底を突き、幸清・久信父子も毛利氏に降った。

 

永禄12年(1569):尼子家再興の為挙兵した尼子残党勢に牛尾幸信が合流し、牛尾城に拠った。

 

元亀元年(1570):布部山の戦いで尼子勢は惨敗を喫し、牛尾城も毛利輝元に攻められ落城した 自刃する。

 

この時牛尾弾正正忠兄弟三人をはじめとして160人余が討死した(「討捕頸注文」毛利家文書)

ただし、別説では生き延びて降伏する。

降伏後は安芸国高宮郡深川(広島市安佐北区深川)に移り住み、院内城主となったともある。

 

※院内城は明光院の東に聳える山に築かれており、山号が牛尾山になっている。

 

牛尾城のその後は補修して牛尾豊前守一族の居城となったとも伝えられる。

 

 

城主家系図

 

 

また、別の系統では牛尾豊前守の系統があり、「新雲陽軍実」(115/131)に三笠城落城のことが記載されている。

また安芸武田家との繋がりもあるとされている。

 

城主石高

「尼子分限帳」には、

御家老衆:牛尾遠江守 備前之内10万石。

御手廻り衆:牛尾太郎左衛門 伯州之内17000石

惣侍衆:牛尾弾正大弼 松江之内3733石

とある

ただし、どこまで信憑性があるかは不明。

 

所感

●全体的に加工度は低い、一時的な城であり、耐えられなくなったら別の城に移動したのかもしれない。

 

●湯原某氏から何故牛尾氏になったか不明であり、しかも尼子氏の中では実力者であったのもどのような経緯があったか分からない。

 

●牛尾氏の最後がどのようになったか不明であるが、牛尾遠江守幸清は降伏して広島市安佐北区深川の院内城に移動したとの伝承がある、また一族の牛尾豊前守は三笠城の城主となった。

 

●閥閲録の中に牛尾氏がいないことから、萩には行かなかったと思われる。

 

参考URL

牛尾城(ウィキペディア)

三笠城(城郭放浪記)

西国の山城(三笠山城)

武家家伝_牛尾氏

 

参考文献

「大原郡誌」

「日本城郭大系14」

「島根県の地名」

「尼子盛衰人物記」

公開日2021/01/02

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