城データ

城名:宮崎城

別名:塔の岡

標高:17m

比高:14m

築城年:天文24年(1555)

城主:陶晴賢

場所:広島県廿日市市宮島町

北緯:東経:34.297140/132.321024

宮崎城はここ

 

攻城記

塔の岡と呼ばれている。

 

この辺りに陣を立てたらしい。

龍髯の松という珍しい松がある。

町屋通り

当時はこの辺りまで砂浜であった。

正面の山が宮尾城で毛利方が立て籠もっていた城。

比高は20mもない位。

塔の岡の語源である五重の塔

応永14年(1407)建立とのことなので、厳島合戦の時にはすでにあった。

 

千畳閣

1598年に豊臣秀吉が安国寺恵瓊に武士の鎮魂のために供養堂の建設を命じた。。

江戸時代には経堂千畳閣とされた。

現在は豊国神社となっている。

 

 

宮尾城から見た宮崎城(塔の岡)

 

位置関係

 

open-hinataより【宮崎城】

『芸藩通志』【宮崎城付近】

 

城の概要

宮崎城

「みやざき」の名は「厳島縁起絵巻断簡」(秘宝厳島)に出ている。また、房顕記には、 「陶禅門へ名ヲ全姜卜付ヶ九月廿一日當島二押シ上り、宮崎ヲ大將ノ陣トシ、弘中三河守 へ、古城ヲ下リテ陣ヲ取ラル。ソノ外ノ防州衆へ、思と思ヒニ陣ヲ取ル」とある。(陰徳記にはくわしく述べている。)

通志にこれを要約して、「陶全姜は、宮尾城(別項)を攻潰さんとて、弘治元年九月、兵三万を率い、島に渡り、先多宝塔に主將の陣を敷き、弘中三 河守隆包は博奕尾に備へ、三浦越中房清、大和伊豆興武は、塔ノ岡より東宮尾城の首尾に屯営す。後二將は軍を合せ、大御堂を後に、有浦を前にして陣し、全姜も多宝塔より塔ノ岡に移り、三浦・大和二氏をし て、宮尾城を攻め、多勢を以て城を堀崩さしめければ、既に危かりしを元就、兵三千五百を率ゐ、地御前村に陣を張り、晦日の夜、風雨晦冥に乗じ、舟に篝火を用ひず、 軍を潜め、島の東裏包ヶ浦に着き、博奕尾に攀登り、翌早天総軍一度に関を揚げ、城中よりも 小早川隆景うち出、父子四人一手になりて、陶が多勢を逐び推り、一日の間、希代の勝を得られたり。」

としている。

 

塔ノ岡という名称はいつのころから称したか未詳だが、(五重塔の創建は応 (一四〇七)という)。

道芝記には、五重塔の説明の中に、「麓の森の岡の山にあり、故にこのあたりを塔ノ岡ともいふ」としている。

宮崎と称した地域は、今の千畳閣、五重塔のある海岸までの尾根の地域を含めて、山の 手一帯の高地を呼んでいたのであろう。

陶全姜の兵力は、通志に三万、二万七千、六万九 六万等とし、日本外史には二万とあるが、これらのいう兵力から想像しても今いう塔ノ岡では小さい。

全軍の布陣にはもっともっと広い地域を要したで あろう。

房頭記には「塔ノ岡」の名称はない。陰徳記は江戸時代になってからの著作であるか ら、塔ノ岡と称している。

 

『いつく島の史跡・名勝』より引用

 

城の歴史

天文24年(1555):陶晴賢が厳島に上陸して布陣したが、毛利元就に攻められて自刃。

 

 

関連URL

【広島県】勝山城【廿日市市宮島町】

【広島県】宮尾城【廿日市市宮島町】

 

参考URL

城郭放浪記(塔の岡)

【大内庭園・雅の宴】周防山口館(塔の岡)

西国の山城(宮島・勝山城塔の岡)

 

参考文献

『日本城郭大系』13

『いつく島の史跡・名勝』

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』

『広島県の地名』

『広島県地名大辞典』

 

 

 

公開日2024/11/10

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