城データ

城名:福原邸跡

別名:無し

標高:17m

比高:6m

築城年:1625年

城主:福原氏

場所:山口県宇部市中尾一丁目5番

北緯:東経:33.968782/131.265648

福原邸跡はここ

 

攻城記

幹線道路から入ってすぐにある。

 

 

石垣(小ぶり)

ごつい石垣。

段差になっている。

当時の雰囲気が出ている。

右と左で石垣の形が全く違う。

当時の瓦。

この辺りが一番雰囲気が出ている。

門の裏側。

別の門。

屋敷跡は広い。

若干の比高がありここが台地の上だと分かる。

井戸跡。

神社。

屋敷裏側。

 

位置関係

琴崎八幡宮からも近い。

 

余湖図【福原邸】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

福原邸跡

所在地字部市中尾一丁目5番

 

福原氏は毛利氏と同じく鎌倉幕府の初代将軍源頼朝の側近であった 大江広元を祖先としており、武蔵国長井庄を所領としていたことから長井氏と名乗っていましたが、その後安芸国(現在の広島県)に移り、康歴三年 (二三八一年)に安芸国福原庄を所領として「福原氏」と名乗るようになり ました。

 

その後福原氏は毛利氏の重臣として主家を支え、関ヶ原の戦いの後 に、毛利氏が防長二ヶ国に国替えになった後も毛利氏に従いました。

 

寛永二 年(一六二五年)の領地替えにより、当時の領主福原元俊が吉敷から宇部八 千石の領主として入部して、領地支配のため現在地に屋敷を構え、以後明治維新までここが宇部の領地の拠点となっていました。

 

宇部の領主となった福原氏は、新川(真締川)の付け替えや、常盤湖や鵜 の島開作築造などの灌漑事業を行い、地域の発展に力を注ぎました。

 

また、 幕末の領主福原越後(元僴)は禁門の変に際し藩兵を率いて京都で幕府軍 と戦い、後にその出兵の責任をとり自刃し、藩に命をささげ、幕末の歴史に その名を残しました。

 

福原家に残る御館の図や関連資料からは、御館には二つの門があり、二 階建ての主家の外に、文武の稽古場や馬屋などが敷地内にあり、堂々たる 構えであった様子がうかがえます。

 

現在は祠や井戸、巨樹などをとどめているに過ぎないものの、敷地全体がよく保存されていて、江戸時代の宇部の歴 史を理解するうえで貴重な史跡となっています。

 

なお、正面の門は、昭和四八年〜五〇年に行われた公園整備事業の際に、 萩にある旧福原家屋敷門(山口県指定文化財)を縮小して再現した門です。

 

平成二十七年十二月

宇部市教育委員会

 

看板より

 

福原氏の歴史

一四代元俊

少輔三郎 左近允 但馬守 隠岐守

はじめ元光と称した。母は日羽春良の娘である。

元和八年二六二六)二月九日、家督をつぎ、翌九年二月一一月、毛 利元俱、児玉景唯らとともに、藩主秀就から国政改革の条令をうけた。

その内容は家臣の役目と、給領支配を中心と したもので、とくに給領地の荒廃をかたく戒めた。

寛水元年、熊野藤兵衛を中心として機地がはじめられ、翌三年八月終了した。同月一三日、元俊は給地等をうけ、 新たに厚荻郡宇部・川上・小串・山中、吉敷那白松(一部)、阿武郡生雲の諸村において計八〇〇〇石石をうけた。

承応二年(一六五三)八月九日卒し、法名を宝嶺宗隣という。

 

一五代広俊

源三郎 左近 隠岐

元後の第五子で、はじめ後次と称した。

宽水一九年(五才)、父元俊の証人(一種の人質)として江戸にのぼり、 承応三年(一七才)まで同地に駐在した。

寛文三年(一大大三)霊元天皇即位のとき、祝儀の使者として上浴し、同九年には蒲主毛和綱広の参観に随行した。

延宝二年(二六七四)江戸当役に任じ、天和元年(一六八一)までの八年間在勤した。

これよりさき宽文一二年、萩土原の川筋に一五〇〇坪の屋敷地を拝領し、小野六郎右衛門を屋敷奉行とした。

天和元年、山中、車地の両村を上地し、代りに床波(以西) および今村の地四三〇金石を給せられた。

また、真事三年 (一六八六)の検地に際しては、熊毛郡光井村の給地が蔵入地となり、藩の直轄に編入された。

そのころから元禄年 間にかけて知行地内の耕地開発がすすみ、早損地帯として知られた学部東部の梶返、野中一帯の農民たちの要請によ り、常識出築造の企てがはじめられた。同じころ、鵜ノ島開作計画され、これは元禄三年から六年にかけて工事が おこなわれた。

その灌漑池「蛇瀬池」が作られたのもとれと時を同じくする。

この代、知行高は増加して八三八〇石一升となった。 元禄八年(一六九五)四月五日卒し、法名を慈雲院乾底宗泉という。享年五八才であった。

 

一六代広頼

権平 和泉 隠岐 俊世 広世

広俊の第八子である。

元禄八年五月一八日、家督を相続した。同年一〇月一六日、鵜ノ島開作の塩浜を国に開発し て石高六五石一升を増し、同一一年(二六九八)には、前代からの大工事であった常盤築造工事が完成し、石盛が おこなわれた。

常盤池、鵜ノ島開作ともに宇部当職椋梨権左衛門俊平の主宰である。

同一四年(一七〇二)には宇部村のうち新聞一三九三石七斗、同村篇田成三二〇石二斗余、床波三一石九斗升を増し、福原氏の知行高は一万一二五石八斗七升三合となった。

正德元年(一七一一)一月一五日、中御門天皇即位の賀使として上落し、三月一日帰滞したが、同四年三月一一日 三二才の若さで卒した。

法名英性院信岩宗雄。

 

一七代広泰

重次郎 雅楽 対馬 広為

一五代広俊の水子で広頼の弟にあたる。

はじめ大野毛利阿波就詮の養子となっていたが、広頼の長子重次郎が早世し、ついて広頼もまた卒し、嗣子がなかったので、正德四年(一七一四)六月一九日、帰って福原家を相続した。

享保一〇年(一七二五)四月一一日、三三才で没し、法名を性源院天峯道真という。

 

一八代元貞

主殿 豊後 はじめ国禎と称した。

実は益田就賢の次男である。享保一〇年六月二〇日、広泰の遺跡をついた。

享保二〇年一〇月九日、松町天皇の即位式に祝賀の使者として上浴し、一一月一八日帰着した。

元文六年 (一七四 一)三月一五日、三四才で没し、法名を光宅院天寧崇祐という。

 

一九代広門

少輔三郎 豊前 肥後 近江 はじめ俊茂、また広茂と称した。

寛保元年(元文六年)六月,父元真の知行一万一二五石八斗七升三合を相続した。

宝暦二年(一七五二) 藩主重就の初人国を三田尻に出迎え、帰城の後、初人国祝催の「能始の役」をつとめた。

同三年、はじめて領地生雲村を巡視し、翌四年、二〇才で毛利伊勢元雅の女鮫子と結婚した。

同七年三月、御留守居役に就任し、一二年、山口常栄寺で毛利際元の二百回局が執行されたときは、その総奉行をつとめた。

同一三年、小邑帳改(宝磨検地)があり、このときの出石(新規登録地)は六歩方を公儀へ召上げられ、四分方方を本知へ加えられた。

それによる増石が一三〇三石二斗二合”また従来からの知行高のうち五〇石をこのとき内藤勘兵 衛へ分地し、六四石七斗余(宇部牧沢)は宝暦一〇年七月、荒廃地として台帳から削られているので、都合知行高一万一三一四石三斗四升一合となり、その打渡をうけた。

ついて安水三年 二七七四)一五代広後の功によって、元禄一三年に広額が拜領した開作地一〇〇町歩のうち小郡の干潟五〇町歩を召上げられ、同五年一〇月、代りに吉敷郡秋穏惣在所の干潟一〇〇町歩を与えられた。

寛政三年(一七九一) 七月一五日、七〇才で没した。

法名養寿院和室貞光。

 

二〇代就清

少輔三郎 丹波 播磨 豊前

(一七五六)に生まれ、はじめ俊郷、また就郷と称した。

安永九年(一七八〇) 二五才の 即位の視賀使を命ぜられ、翌天明元年二月六日裁を出発して上洛し、五月に帰裁した。同六年(一七八方)一二月、 関東川筋ならびに伊豆国の河川普請総奉行を命ぜられ、翌七年二月四日江戸に着き、六月任務を終えて八月江戸を出発した。

その帰途、芸州吉田を訪れて毛利元就の廟を拝し、ついで福原村の代々の墓所に詣でて九月九日萩に帰着した。

寛政元年(一七八九)二月晦日、父広門が病気のために隠居したので、就清が家督を ついだが、広門は七月に没し、就清も八月一八日江戸で卒した。

法名清斎猗園信誓。 就清は字を伯郷、猗園(のち華峯)と号した。

文学を好んで造詣が深く、荻生狙律、 服部南郭、太宰春台、山県周南らに私淑し、古文辞派の学問を修めたことは、その書き残した「猗園漫稿」や、「狩園随筆」からもうかがうことができる。

なかんずく、徂徠に深く傾倒していたことは、たとえば「猗園」の号が徂徠の「護園」に因ったとみられること。

また、その連稿「猗園随筆」の題名が、祖様の「護園随筆」にならって付けたと思われるとなどから、十 分に察せられるのである。

 

二一代房純

勝三郎 豊前 はじめ馴備、房俊、俊明などと称した。

実は徳山毛利就酬の次男である。

宽政三年(二七九一)八月一八日、就新 が没したので、一〇月二日福原家に入り、二月二一日、家督を相続した。

翌四年九月一六日、宇部の領分へ初入 部して宗隣寺へ参詣した。

寛政一〇年三月、真緒川筋を赤崎より神ノ山にかけて直接掘抜いた新川堀が完成した。

同年七月、日光東照宮修理 御手伝の総奉行に命ぜられたが、このときは金納で済んだために、実際には出役しなかった。

この年九月、実戸就年 の女美祢を娶った。 同一二年、加判役を命ぜられ、文政元年(一八一八)六月一〇日、堅田就正に代って当職に就在し、同七年六月一八 日までその職にあった。

天保二年(二八三一)防長両国にわたって惣百姓一揆がおこった。

八月二六日、房純は急に城に呼び出され、一揆の対策を議した後、小畑口抑えの役を命ぜられ、二八日帰萩した。

このとき字部の領内では、 石炭に対する課税免除の要求などが出されたが、過激な動きは見られなかった。

房純には久しく実子がなかったので、享和二年 (二八〇二)九月,毛利親著(重就の第一五字)の子豊之允(房 昌)を養子に迎えたが、文化二年(二八〇五)八月一〇日、実子繁次郎が生まれ、ついて五年八月一五日、さらに次 男雄五郎が生まれたので、同一一年、豊之允は宗家に復帰した。

天保七年(一八三六)正月二日卒し、法名を智徳院高巌義尚という。

 

二二代熙賢

繁次郎

文化一一年一二月二八日、房純の嫡子と決定し、天保七年正月二日、家督をついだが、一週間後の正月十日日、三二才で没した。

法名仁岳院湛源慧流。

 

二三代親俊

近江 左近允 二郎と称した。

天保四年七月二日に生まれ、同七年正月、父熈賢が死去したため、五月一 一日四才にして祖父房純の遺跡を相続した。

長州藩のみならず、わが国にとって激動の時代であった。

嘉永六年(一八五三)のペリーの来航後外交問題が急にやかましくなり、和親条約につづいて、安政五年(一八五八)六月にはアメリカとの間に 締結された。

世にいう「安政の仮条約」である。

当時、長州藩は藩是として「天朝へ忠節、幕府へ信義、祖先へ孝道」の三綱領を定めたが、この年 の海岸警備を命ぜられた。

七月二三日、親俊はその総泰行として兵庫に出張したが、八月八目病をえて役を辞し、一 〇月、二六才の若きで没した。

法名好謙斎道光宗貴。

 

二四代元僴

主殿 越後

実は徳山藩主毛利広鎮の大男である。

はじめ激之助、勝定と称し、吉敷毛利蔵主の猶子となって、文政九年(一八二六) 四月六日、佐世石見守親長の養子となった。

嘉永七年四月、毛利斉元の一字をうけて元と改名 八月、藩主敬親の命によって親俊没後の福原家をつぐこととなり、一一月二三日入家した。

家に入ったときは四四才で、親俊よりも実に一八才の年長であり、すでにそれまでに八組頭 若年寄、大頭役、老中などを歴任し、さらに江戸留守居役をつとめていた。

安政六年二月から八月まで兵庫御備場の総泰行に任じ、万延元年(一八六〇)六月二七月、浦元裏にかかわって当職となり、文久三年、加判役に転じた。

当時、藩主敬親は時勢にかんがみ、萩城を去って滞政を山口に移す考えであった。

そこで元個は主命をうけて、山口に 新館造営の準備に赴き、六月、吉田、舟木両宰判の警衛奉行 となって海岸を巡視した。

つづいて給額宇部の額政改革をおこない、同年一二月には吉敷郡一手の総奉行、山口小郡在陣 諸隊の総轄を命ぜられ、元治元年(一八六四)正月には、改 めて山口新館造営総奉行に任命された。

この時期が尊攘運動のもっともたかまった時代である。

前年の文久三年五月、下肉において攘夷を実行した長州滞は、同年八月一八日の政愛によって京都を追われ、三条実実美 らの七卿を藩地に迎えたが、元治元年の夏、政変後の福勢を一挙に挽回すべく、元個および益田釈施、国司裁相らに命じ、三軍に将として東上せしめた。

そのころ長州藩をはじめ、各藩の志士たちは多く京都に集まって嵯峨天電寺に屯し、一部は大阪天王寺にあって義挙を企てていた。

六月一六日、元側は江戸へ赴くと称し、来島又兵衛らの軍兵約三〇〇人をひきいてまず藩地を出発したが、途中、朝廷へ嘆願の筋ありと称し、山城にとどまって入京を企てたのである。

長州兵は七月一八日の夜中に行動を開始し、天王寺、天竜寺、伏見の三方から入洛しようとした。

は総勢七〇 〇の兵をひきいて伏見を出発し、道を大仏街道にとったが、藤森で幕府府軍と遭遇して顔に負傷し、山崎に退いた。

益 田、国司の両軍もまた利あらず、元側は軍を班して七月二四日周防の室津に帰着し、二五日、新地宇部に帰って謹慎した。

京都の変動後まもなく長州藩征討の命が発せられ、八月五日には、さらに炎仏米蘭四カ国の連合艦隊が下間に襲来した。

長州藩はかつてない危機に直面したが、このとき蒲政は保守派の手におさめられ、朝廷および幕府へ謝罪のため、責を福原、益田、国司の三家老のほか、宍戸左馬介ら四参謀に負わすことによって、この難局を切り抜けようとした。

八月七日、元面は嗣子駒之進に宛てて違言状を書き残し、徳山に送られた。

ついて一一月一一日、徳山から岩国に 移され、翌一二日竜護寺において自刃した。

時に五〇才、法名を隆文院顧堂全忠という。

に対する課状は「御国体を破り、殊に伏見滞留中公辺より脱走の者引取⋯⋯⋯藤森其外にて暴発に及び、恐れ 多くも感標を飛かし奉りたる次第⋯⋯」とある。

すべて変動期の藩政を担当したものの免がれががたい時世故の罪であ る。

これを個人の責任として追究され、どんなにか不本意なことであったろうと同情に堪えない。

は幼時から文学をだしなみ、人となり重厚にして舞言、温雅にして真怒を面にあらわさなかった。

その知識は 広く藩内に知られ、とくに詩文、和歌に秀でたことは、その遭稿「家生詩詩鈔」(漢詩)や「緑浜詠草」(和歌》など にもうかがわれる。

まことにゆかしい人柄であった。

 

二五代芳山

駒之進五郎親徳

弘化四年(一八四七)六月二三日、粟屋親親酸の子として生まれ、はじめ国司報通の養子となって駒之進良通と称した。

元治元年七月二一日、藩主敬親の命によって元の義子となり、翌二年三月一四日、その遺跡を相続した。

夫人は元元の女トハ子である。

慶応元年(一八六五)正月、諸隊の拳兵により、恭順派との間に内証が起った。

このとき恭順派に反対の立場で結れた鎮静会議員は、三月に至って「干城隊」と改称されたが、芳山はその初代総督に任命され、鈴尾」と改めた。

「福原」のままで公的な役職につくことは、朝廷や務府に対して憚りがあったからである。

このときにあたり、幕府はすでに長州再征の議を決し、九月にはその勅許をもえた。

これに対して長州藩は「武備恭順」の藩是を決定し、どこまでも恭順の趣旨は失わないが、もし幕府から無法に戦端を開くならば、決然としてこれに応戦する覚悟で、諸隊の部署を定めるとともに、翌二年正月には薩摩藩とも盟約を結び、迎撃の体制を整えた。

かくて六月に入り、幕府軍は大島郡に侵入し、ことに四境戦争がはじまった。

長州軍はまず大島の敵を撃退し、つい で芸州口(小瀬川口)、石州口、小倉口の幕軍と対戦したが、芳山は七月六 日小瀬川口に出陣し、一一日、その搦手亀尾川口諸軍の総指揮役となり、一 七日以後、翌八月初旬にかけて芸州友田、明石、折敷畑に戦い、ついに幕軍 を広島に敗走せしめた。

とくに八月二日、七日の激戦に抜群の功があり、一二月敬親から感状ならびに手書を贈られた。

八月二四日いったん山口に帰り、後さらに小倉口に転戦したが、九月、幕 府と休戦の条約が成立したので一一月七日、山口に帰還した。

これよりさき、四国連合艦隊との和議が成立した後、赤間関には外人応接場が新設されて列国公使との交渉がおこなわれた。

また、慶応元年以後の軍制改革にあたっては、長崎の英国商人から小銃や軍艦(乙乙丑丸、丙寅丸な ど)を購入し、その後もひきつづいて、とくにイギリスとの接近がいちじるしかった。

芳山は時勢を察して早くから洋学修業の志を抱いていたが、四境戦争の終了を機会に長崎遊学を出願し、一二月二〇日つぎの手形を下付された。

 

手形

御手前兵学為修得,肥前国長崎に之御殿最前被遂御許容、依之上下弐人二为近々御出足之由、御状之都承届候、物 限無相違、追而御帰之上、此手形可有御差返候、以上

寅十二月

 

                                                     毛利出雲判

                                                     志道隼人”

                                                     毛利筑前”

 

鈴尾五郎殿

 

この手形には「兵学修得のため」となっているが、彼の志はむしろ政治学にあったらしく、翌三年二月には、長崎 遊学を「英国留学」に切り替え、七月一日ロンドンに到着した。

編来、明治七年までの七年間、英国にあって政治や 法律の研究に従事したことが、彼の「美国政体覚書」(福原家文書二一,二一三)などで知られる。

同年八月三一日に帰国し、司法省に出任したが、明治一四年、大審院に移り、翌一五年八月一七日、三五才をもって東京で没した。

法名 瑞芳院感応道雄。

芳山の後は嫡子俊丸がつぎ、明治三三年五月九月、父祖の功をもって飛族に列し、男爵を授けられた。当主元宏は 元公爵毛利元道の二男である。

 

城主家系図

 

当主石高

1625年当時8000石

 

所感

●毛利氏家老職として申し分ない邸宅だった。

 

●石垣は当時のものを利用しているか不明。

 

●実際の当主は萩におり、この地は家臣が守っていた。

 

関連URL

【広島県】鈴尾城【安芸高田市吉田町福原】

 

参考URL

福原邸跡の史跡紹介

 

参考文献

『宇部市史』

 

 

公開日2024/10/06

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