城データ
城名:仁後城(にごじょう)
別名:尼子城
標高:280m
比高:80m
築城年:不明
城主:尼子の城とも和智誠春の城ともいわれるが詳細不明。
場所:広島県安芸高田市高宮町船木字田屋郷
北緯:東経:34.784957/132.738346
攻城記
高宮町史跡 仁後城跡 (伝和智誠春館跡)
別名「尼子城」ともいい城主は不明。
一説には尼子一族の城といわれ、毛利方の牛首城(佐々部氏)との間にたびたび戦いが行われたという伝説をもつ。
血刀を洗ったため、小川が桜色に染まったので、「桜小川」の名がついたのもその一つである。
また別に、吉舎南天山城主和智誠春の居館ともいわれている。
毛利隆元は永禄6年(1563)、出雲遠征の途中、式敷・蓮華寺で没したが、その前夜誠春の供応を受ける。
その場所は定かではないが、地理的条件や言い伝えなどからここに誠春の館があったとする説は、うなずけるところである。
城跡は、標高280mの丘陵頂部の主郭を中心に北西伸びる尾根筋、南東に伸びる丘陵上に七つの郭と小規模郭群が設けられており、それらの周辺に配した竪堀、土塁などの遺構が確認されている。
平成14年3月25日 高宮町教育委員会 高宮町文化財保護審議会
本格的な山城。
石積み跡。
削平地。
堀切。
先に進む。
最初の大きな曲輪。
大きな堀切がある。
非常に広い曲輪に到着。
その奥を進むと圧巻の畝状竪堀群に遭遇する。
仁後城矢竹。
本丸。
本丸の帯曲輪。
石積み跡か。
堀切。
城の先端に進んでいく。
先端からの見晴らし。
仁後城全景。
余湖図【仁後城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【仁後城】
拡大図。
城の概要
城跡は生田川と用地川の合流に向けて南東に延びる丘陵上約450mの範囲に広がる。
丘陵頂部1郭、背後の鞍部に2郭をおき、ここから北西に向けてゆるやかに上がる尾根筋に土塁をもつ7郭と小規模の郭群があり、堀切、竪堀を配している。
南麓からの登城路は3郭と4郭に挟まれた谷部につけられたものと想定される。
この谷間には竪堀一条、土塁四基があり、さらに4郭にはこの谷に面するところに土塁を設けて防御している。
4郭は本城跡最大の郭で、約60×80mの規模で、ここから浅い谷を挟んで東側に5郭が続く。
さらにその東に延びる尾根を三条の堀切で遮断しており、5郭の南側斜面には九条の畝状竪堀がある。
丘陵先端部にも6郭をはじめとする郭群を堀切がある。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
城の歴史
尼子の城とも、和智誠春の城ともいわれるが詳細不明。
【尼子の城説】
この場合はこの地域が尼子氏の支配下になっていた頃に尼子の関係者で一族か家臣なのかは不明であるが、それらがこの城を支配していたかもしれない。
年代は不明であるが、この地域を支配していた高橋氏が大内氏から離反して尼子氏に寝返ったこともあり、また大永3年(1523)頃には尼子経久が安芸国に侵入もしている。
更に、天文9年(1540)年には尼子晴久が吉田郡山城に攻めているので、その頃に尼子氏が城を接収したのかもしれない。
また、後述する和智氏の中には尼子氏に味方するものもおり、それを含めている可能性もある。
このように、尼子氏が全くかすりもしないという事はないので、尼子氏が何かしらで関与したことを後世の人間が伝え聞いた可能性がある。
【和智誠春の城説】
和智誠春は南天山城の城主(広島県三次市吉舎町)で約32キロで昔でいう8里の距離。
かなり遠いという距離ではなく、馬を使用すれば数時間で行ける距離。
ただし、ここに和智氏の城があったのが良く分からない、飛び地の所領があったのか?
確かに、享禄2~3年(1529~30)年頃に石見の高橋氏が毛利氏に攻められて滅亡しているがこの時に和智豊郷が合力しており、近隣の松尾城を攻めている。
その関係でこの地に何かしらの縁が出来たことも想像できるが、確証はない。
『毛利家文書251』
永禄6年(1563)に毛利隆元が和智誠春の宿所に招かれ、饗応をうけた後に亡くなったとある。
事実は不明であるが、この宿所が仁後城の可能性も指摘されているため、和智氏の城があったのかもしれない。
また、毛利氏の直接の家臣として和智元俊という人物がいる。
『毛利家文書401』
1 福原左近丞貞俊
2 志道大郎三郎元保
3 坂式部太輔広昌
4 門田三河守元久
5 秋広式部少輔就正
6 和智兵部丞元俊
7 福原内蔵助就房
8 桂左衛門大夫元忠
9 桂源右衛門就延
10 兼重弥三郎元宣
以下略
このように家臣団の中でも6番というかなり最初の順番に和智氏がいることが分かっている。
この和智氏も南天山城の和智氏と親戚だと思われるが、どのような関係か不明、ひょっとしたらこの元俊に縁がある城だと想像を膨らます。
和智元俊が誠春の従兄弟との言い伝えもある。
更に口羽一族で春良の次男である元径が和智元俊の養子となっているがその家系図を確認すると、後に上原宗讃と名乗っているため、元俊が上原一族ではないかとも想像することも出来る。
となると、誠春と従兄弟としても合ってくる。
ただし、なぜ上原ではなく和智氏を名乗っているかは不明。
想像を逞しくすると、毛利家家臣であった、元俊縁の所領がこの地にあり、従兄弟の誠春がこの城にて毛利隆元を饗応をしたのかもしれない。
武家家伝 和智氏に以下の記載がある。
和智氏は大内氏に属して尼子氏に対峙したが、大永三年(1523)、毛利元就らを従えた尼子経久が安芸に進攻、 大内方の拠点鏡山城を攻略、安芸国人衆は尼子氏の傘下に降った。ついで南天山城が尼子勢の攻撃にさらされ、 城主和智豊郷は尼子氏に屈服した。ところが、ほどなく毛利元就が尼子方から大内方に転じ、翌四年から大内氏の尼子方への反撃が開始された。
大永七年の夏、陶晴賢と毛利元就の率いる大内軍と出雲から南下してきた尼子軍とが和知郷細沢山で激突した。戦いは七月から始まって、十一月には三吉郷へと広がる大合戦となった。この大内方と尼子方の戦いに際して、和智豊広ははじめ尼子方についていたが、長引く合戦のなかで去就に迷ったようで、九月大内方の山内氏の工作を受けて大内方に寝返っている。
豊広は大内方に転じたものの尼子氏に味方していたことを責められ、みずからは隠居して一族の上原和智氏から 豊郷を養子に迎えて家督を譲った。豊広には実子元朝があったが排除され、大内氏に都合のよい和智氏体制へと 変化したのである。
このことから、尼子派だった和智豊広という関係も考えられる。
このように、色々な尼子関係や和智関係のことが複雑に絡まって伝承が混乱しているのではと考える。
所感
●城の構造はしっかりとしており、多くの畝状竪堀群がある。
●堀切も深く、敵を寄せ付けない堅牢さが分かる。
●これだけの城を築いているということは実戦が想定される緊張状態にさらされていた可能性がある。
●近隣に奥垣内城があり和智氏の出城とあるためこの地に和智氏のなにかしらの縁があったのかもしれない。
関連URL
和智氏の出城とされる。
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『安芸の城館』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
『みよし地方史』
公開日2022/03/05