城データ

城名:奥垣内城

別名:梅木城

標高:230m

比高:50m

築城年:不明

城主:和智氏の出城とある、奥垣内氏の城かもしれない。

場所:広島県安芸高田市高宮町船木字水谷

北緯:東経:34.784734/132.766773

奥垣内城はここ

 

攻城記

奥垣内城全景。

階段を上っていく。

麓を臨む。

山頂に向かって進む。

削平地。

本丸。

周辺部。

畝状竪堀があるようだが、よく分からない。

麓に降りる(右側が奥垣内城)

 

余湖図【奥垣内城】

 

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

『芸藩通志』【奥垣内城】

拡大図。

 

城の概要

遺構は四つの郭と土塁,堀切及び畝状竪堀群からなる。

 

1郭の北西端部は約0.3m高く櫓台状になっている。

 

2郭は二段からなり,上段は土塁で両側を囲まれている。

 

4郭は四方を土塁で囲まれており,虎口部をなす郭である。

 

背後には堀切があり,北東斜面には畝状竪堀群が十条,南西斜面に二条の竪堀がある。

 

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用

 

奥垣内城

梅木城址、別名奥垣内城とも呼称する。

 

城主は不明であるが、伝説によると、和智氏の出城と伝えられている。

 

高宮町大字船木水谷の東端の東南に突出した山峰に位置する。

 

城の南側斜面に無縁墓地があり、数基の五輪塔を残す。本丸、二の丸と東西に平壇を設け、本丸西端を空堀にしてL字形に掘り込み、西から連なる山頂を断ち切っている。

 

二ノ丸東端は、切りたった崖に続いて平壇となり、崖と山頂をうまく利用して築城されている。

『高宮町史』より

 

城の歴史

詳細不明。

和智の城とある、場所が全く違うので可能性は低いと思われるが毛利元就が高橋氏を攻めた時に和智豊郷も協力しており、その時の出城として一時的に和智氏が城主となっていたのかもしれない。

『毛利家文書251』

 

また宍戸の庶流に奥垣内氏がおり、その城の可能性もある。

天正3年(1575):備中国での戦にて、奥垣内小左衛門尉が手柄を立てる。

『毛利家文書375』

 

城主家系図

奥垣内氏の城と仮定して。

所感

●城主に関しては資料が残っておらず詳細不明であるが、個人的には宍戸氏の庶流である奥垣内氏の可能性もあると考える。

 

●この地域は宍戸氏の所領となっており、支配者である佐々部氏も宍戸家臣となっている。

 

●その為、この城がある地域に宍戸氏の庶流が勢力を扶植していてもおかしくはないと考える。

 

●城自体は畝状竪堀が特徴であるが、藪化でよく分からなかった。

 

関連URL

【広島県】五龍城【安芸高田市甲田町上甲立】

【広島県】祝屋城【安芸高田市甲田町深瀬】

宍戸一族の城。

 

参考URL

城郭放浪記(安芸奥垣内城)

 

参考文献

『高宮町史』

『宍戸記』

『日本城郭大系』13

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』

『広島県の地名』

『広島県地名大辞典』

『安芸の城館』

『広島の中世城館を歩く』

『萩藩諸家系譜』

『毛利八箇国御時代分限帳』

『萩藩閥閲録』

公開日2022/02/26

 

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