城データ
城名:牛首城
別名:若狭城、龍之尾城、龍之口城
標高:240m
比高:30m
築城年:享録2年(1529)高橋氏が毛利氏によって滅ぼされた後に牛首城を築いて居城を移したと伝わる。
城主:佐々部氏
場所:広島県安芸高田市高宮町佐々部字五十貫部
北緯:東経:34.773224/132.734285
攻城記
牛首城跡 (佐々部氏の遺跡)
佐々部氏は、はじめ高階姓を名乗っていたが、志部府面山に城を築き、佐々部地方を支配したことから、地名をとって佐々部氏と称した。
初代若狭守承代(?~1527年)は、耕地が開け交通の便がよく、また、生田川を天然の堀とするこの地(五十貫分)に城を移した。以後五代、100年間の居城であった。
佐々部氏は近隣の諸豪族、阿須那の高橋氏・甲立の宍戸氏などと姻戚関係を結び、地位の保全を図った。毛利氏台頭後はその麾下に入った。
牛首城は、若狭城・龍之尾城・龍之口城などともいい、要害堅固につくられていた。
山城と平城の中間的な平山城(丘城)で、八つの郭と土塁・石塁・竪堀などの遺構が現存する。
「御殿屋敷」と呼ばれる郭の30mに及ぶ石塁、南東側山麓の20条の土塁(畝堀)は特徴的である。
最高所の郭は大手筋を見下ろす櫓台で、城主を祀る「辰之尾(龍能)権現社」がある。
平成14年3月25日 高宮町教育委員会 高宮町文化財保護審議会
攻城開始。
すぐに3郭へ到着
1郭(現在は神社になっている)
4郭。
付近には石垣の跡がある。
屋敷跡か。
6郭。
人工的な石。
6郭から3郭の方向を見る。
8郭近くの大堀切。
佐々部の田園風景
位置関係
余湖図【牛首城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【牛首城】
拡大図。
城の概要
城跡は大きく湾曲して流れる生田川に三方を囲まれている。
特に城跡の西側斜面は生田川によって切り立った絶壁になっている。
1郭は大手筋を見下ろす櫓台で、現在は神社の敷地になってる。1郭の北側は小起伏の平坦面が広がり、7・8郭のような平坦面も見られるが、後世の地形改変が著しく現状は不明である。
ここから西側斜面には三条(墓地造成によって一部破壊)、東側斜面には六条の竪堀群があり、北東斜面にも一条の竪堀がある。
「御屋敷跡」と伝える4郭は東側に長さ32m、幅5m、高さ2mの石塁が設けられており、4郭と5郭間は高さ0.5mの石垣で区画されている。
5郭の東下には三つの小郭があり、これらが虎口を構成しているものと思われる。
南東側山麓部には20条の土塁が構築されており、長さは最長約20m、高さは最大2mである。
このあたりは大正末年に耕地開発は行われており、土塁の破壊や川沿いにある石垣はこの時のものと思われる。
城主は佐々部氏で、当初は面山城に本拠をおいていたが、1529(享禄2)年に高橋氏が滅亡し、以後この牛首城に本拠を移したと伝える。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
牛首城
牛首城址、別名若狭城と呼称する佐々部氏の守城で、佐々部五十貫部に位置する。
佐々部氏は初め佐々部 志部府の面山城に拠っていたが、蛇多きためここに移ると日伝されているが、真偽のほどは知る由もない。
推測するに、この城は一見小城のように見えるが、実測してみるとその規模は大であり、かつ要害堅固に築 城されている。
南面は生田川が岩盤をけづり白浪を飛ばす絶壁であり、西北は五十貫部の耕地、東北は柳瀬・土居之内の 耕地を経て仁後城を望み、現高宮町内各地への交通の要路である。
しかも実測図にあるごとく、城内に御殿屋 敷址と呼ばれる平壇があり、その東面には今なお土塁の址を残している点から、本丸・二の丸・三の丸・居館と総合的山城としての価値が見出され、山城と平城の中間的平山城とも考えられる特異な存在である。
本最高所にあり現在小社が建立されている。
続いて二の丸、三の丸跡、御殿屋敷跡、土塁、石垣などを残している。
城の西・東とも切り立った絶壁になっていて北方(現在県道)に空堀を堀っていたと思われる。
『高宮町史』より引用。
城の歴史
15世紀後半~16世紀初頭:佐々部承世がこの地域を治めていた。
大永5年(1525):佐々部光祐が尼子方に寝返り父である通祐を殺害する、しかし、祖父である承世が光祐を追放して祐賢に家督相続させる。
佐々部御家督之事、宮千代殿可有御存知之由、尤可然候、於向後無別儀可申談候、弥御入魂可爲祝着候、長久不可有御等閑候 仍如件
大永五年十月五日 (高橋)興光 判
佐々部宮千代殿(祐賢) 参
【大意】
佐々部の御家督のことは,宮千代殿が御承知されるべきだということは,もっともなことです。今後においても,支障なく相談しましょう。いよいよ御入魂なされるということで,めでたいことです。長久になおざりにはしないつもりです。以上。
大永五年十月五日 (高橋)興光 判
佐々部宮千代殿(祐賢) 参
『萩藩閥閲録巻88山内源右衛門-4』
大永6年(1526):祐賢が祖父の承世から佐々部氏に伝来する證文、宝物の牛玉に加え、高橋興光と毛利元就からの書状を添えて譲られた。
「宮千代丸進之候
佐々部播磨守承世」
佐々部兵部少輔(通祐)を、子候式部少輔(光祐)雲州尼子と申あわせ生涯させ候、然者祖父にて候播磨守、式部少輔追捨候て、
貮番子候宮ちよ丸を當家に相定候、さゝへ三ヶ村同のへしき候、他之さまたけなく知行あるへく候、自然何方ニ古なる支證共候とも、
此以一行知行可仕候、縦式部少輔子候て嫡之儀申候共、一度重科之者之子候間、用ニ立ましく候、爲後日一筆ミやちよ丸に書渡申候、
同高橋(興光)殿御一行、毛利(元就)殿様之御一行取そろへ持候間、於此上者聊茂他之さまたけあるましく候、并ちうたい(重代)そへわたし候者也、同牛之玉、是も寶してそへ進候、仍而証状如件
大永六年丙戌正月十一日
佐々部播磨守 承世 判
宮千代丸 進之候
【大意】
「宮千代丸進之候
佐々部播磨守承世」
佐々部兵部少輔(通祐)を,その子である式部少輔(光祐)が,雲州尼子と申しあわせて,殺害してしまった。そこで,祖父である播磨守が,式部少輔を追放して,二番目の子である宮ちよ丸を当家の後継者に定めた。佐々部三ヶ村同のへしき候(意味不明,佐々部三ヶ村の所領を宮千代丸に与えると言う意味か?)。他の妨げなく知行されるべきである。もし,どこかに古い証文があったとしても,この一行(知行宛行状)をもって,知行するべきである。たとえ,式部少輔の子がいて嫡男だと申し立てたとしても,一度重い罪を犯した者の子であるので,用には立たないだろう。後日のため,一筆,宮千代丸に書き渡し申す。
おなじく高橋(興光)殿の御一行(知行宛行状)と,毛利(元就)殿様の御一行を取り揃えて持ってくるので,この上においてはいささかも他の妨げがあってはならない。併せて,先祖伝来の刀剣を添えて渡すものである。同じく,牛の玉(家宝?)も,これも宝として添え,進呈する。よって証状は以上である。
大永六年丙戌正月十一日
佐々部播磨守 承世 判
宮千代丸 進之候
『萩藩閥閲録巻88山内源右衛門-5』
大永7年(1527):承世死去。
享禄3年(1530)年頃:高橋氏滅亡後は2家に別れてそれぞれ毛利氏と宍戸氏に属し、その頃面山城から南の牛首城に移ったと言われている。
享禄5年(1532):毛利氏家臣団32名が互いの利害調整を元就に要請した連署起請文では27番目に「佐々部式部少輔」と署名をしている。
『毛利家文書396』
諱や花押がないのはまだ幼少のためか。
天文9及び10年(1540、41):佐々部祐賢は尼子晴久の吉田郡山城攻撃の時(宮崎長尾の戦い)には宍戸元源の軍に属して武功をあげる。
天文22年(1553):毛利元就が備後高杉城を攻略した時にも武功を上げる。
天正3年(1575):備中国での戦にて、佐々部氏が手柄を立てる。
毛利家臣(志道氏内)の佐々部助次郎がいる。
宍戸家臣に佐々部美濃守と佐々部民部丞がいる。
天正5年(1577):佐々部家祐は讃岐元吉城において武功を立てる。
城主家系図
城主石高
佐々部家惣領家は宍戸氏の家臣となる(祐賢以下)
ただし、毛利家に従った系統もあり、『毛利八箇国御時代分限帳』に何名かの佐々部氏の人物が記載されている。
佐々部弥吉
748.907石
佐々部善左衛門
55.990石
佐々部丹後
8.910石
佐々部又右衛門
10.074石
所感
●佐々部氏内でも一族の内証があり、承世と息子の通祐は大内方で孫の光祐は尼子についている。
●1525年には光祐が父通祐を殺害するが承世が光祐を追放して次男の祐賢に家督相続させる。
●しかし、若狭守が家臣の信木氏に謀殺されたとう伝承もあるが承世の官途名が若狭守なことから承世も殺害されたのかもしれない。
※承世の没年は1527年とされている。
●1530年前後に高橋氏が滅亡すると、姻戚関係である宍戸氏の家臣となり活躍する。
関連URL
牛首城の前の城。
参考URL
参考文献
『高宮町史』
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『安芸の城館』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/02/26