城データ
城名:槙尾城
別名:児玉城
標高:301m
比高:60m
築城年:南北朝時代
城主:髙橋氏、長田備中守光季、桂元澄、児玉内蔵助
場所:島根県邑智郡羽須美村長田
北緯:東経:34.854819/132.678358
攻城記
槇尾城全景。
まずは神社付近付近に車を止めてから攻城(神社に祈りをささげてからスタート)
登城路はないので神社裏を直登する。
尾根筋は広く削平されており多くの兵も駐屯可能。
帯曲輪。
周辺部。
本丸。
一段下に降りる。
降りて二の丸。
本丸を臨む。
畝状竪堀。
畝状竪堀から。
堀切。
往時はもっと深かったのであろう。
本丸に戻る。
余湖図【槇尾城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
主郭から放射状に伸びる稜線上に堀切を設け、その両端を谷斜面に向かって竪堀状に下ろしている。
特に主郭から北東に伸びる稜線上の堀切は、最も大規模で、二重堀切とされ、両端とも谷斜面で合流させている。
主郭西側の丘陵上は明確な遺構は認められないが、駐屯空間として利用された可能性がある。
島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用
槙尾城
槇尾城は比高90m、四方に延びる急峻な尾根に空堀を設け、西側背後の後城とよぶ境は大きく堀切され、小規模であるが堅固な構えをもつ。
文明8年(1476)9月15日の高橋氏が益田氏と結んだ契状(益田家什書)に被官16人が傘連判を加えているが、そのなかにみえる長田備中守光季の居城といわれる。
享禄2年(1529)若しくは享禄3年(1530)毛利元就は高橋氏を藤ヶ瀬城で滅亡させ、のち家臣の桂元澄を槇尾城に配し、児玉内蔵助を代官にしたといわれることから児玉城とも称される。
地元の言伝えによると、毛利軍が国境の稜線上に押寄せ城中では明日の決戦をひかえて準備を怠りなく緊張した雰囲気のうちに夜を迎えた
遥かに前方を見れば月の無い暗い夜空に稜線上に並ぶ松明の火が美しく映えわたっていた。
城中の将兵は一瞬我を忘れて火の饗宴に見とれていた時、突如として脚下に鬨の声があがり、たちまち戦がまえも整わぬうちに、もろくも打破れ城兵四散し城は乗っ取られてしまったという。
亀園寺の古い位牌に「大檀那桂氏霊」とある如く、毛利氏はこの城に桂元重(ママ)代官児玉内蔵助を置いて高橋氏攻撃の前線基地としたのである。
『羽須美村誌』より引用。
槇尾城
槇尾城は、出羽川の支流長田川中流の峡谷でその彎曲部の一画にある伴蔵山山塊の一丘陵上にあったが、安芸との国境にわずか八〇〇mという交通上の要衝であった。
西に長田川をさかのぼると約五・五㎞で鷲影城に達し、北に下ると約四㎞の地点に矢羽城があり、さらに北東約三㎞で妙見城に達する。
南北朝時代以来、高橋氏の安芸国高田郡への侵攻拠点であった。
国境の稜線上におびただしく燃える松明の火に眩惑されて城下に忍び寄る敵兵に気づかず、落城したという口碑は、享禄三年(一五三〇)に毛利元就が阿須那の高橋興光を謀殺した時の話であるが、高橋氏の滅亡後、元就は下口羽の矢 羽城に口羽道良を配して大森銀山への道を確保させるにあたって、吉田との連 絡拠点として、槇尾城に桂元重の代官児玉内蔵助を配備したといわれる。
そのことは、天正五年(一五七七)上田八幡宮の再建にあたって児玉内蔵助が大檀那 として名を残している(田桑氏の調査)。
廃城の時期は明らかでないが、尼子氏 滅亡の永禄十年(一五六七)以降の早い時期であったものと推定される。
『日本城郭大系』14より引用。
城の歴史
南北朝時代には高橋氏の城として築城されたと思われる。
文明8年(1476):髙橋氏が益田氏と結んだ契状(益田家什書)に被官16人が傘連判を加えているが、そのなかにみえる長田備中守光季の居城といわれる。
享禄2年(1529)若しくは享禄3年(1530):毛利元就は高橋氏を藤ヶ瀬城で滅亡させ、のち家臣の桂元澄を槇尾城に配し、児玉内蔵助を代官にした。
所感
●城としてはしっかりと加工されており、髙橋氏の対安芸国戦線の重要拠点として整備されていたと思われる。
●畝状竪堀もあり、毛利氏が支配した時にも随時改修をされていたのかもしれない。
●登城路は無し、麓の神社を駆け上ればすぐに尾根に到着するのであとは尾根伝いに主郭を目指す。
関連URL
高橋氏本城。
近隣の城。
高橋氏滅亡後に近隣を支配した口羽氏の城。
参考URL
参考文献
『羽須美村誌』
『島根県中近世城館跡分布調査報告書』
『日本城郭大系』14
『島根県の地名』
『島根県地名大辞典』
『石見の山城』
『萩藩諸家系譜』
『萩藩閥閲録』
『毛利八箇国御時代分限帳』
公開日2022/01/08