城データ

城名:琵琶甲城

別名:矢羽城

標高:280m

比高:160m

築城年:享禄4年(1531)頃に口羽通良によって築かれた伝承がある。

城主:口羽氏

場所:島根県邑智郡邑南町下口羽

北緯:東経:34.885426/132.667600

琵琶甲城はここ

 

 

攻城記

琵琶甲城全景。

宮尾八幡宮からみた風景。

宮尾八幡宮。

毛利家と同じ家紋がある。

攻城開始。

削平地がある、曲輪跡か。

ここが城山ということが分かる。

琵琶甲城の特徴である大きな竪堀。

本丸の東にある曲輪。

更に下っていった曲輪。

いったん戻り本丸の一段下がった東の曲輪にある石垣。

石垣が崩落しているが往時は立派なものがあったと思われる。

河原石もある。

本丸の虎口(画面中央部)

本丸。

別の角度から。

本丸から西に下がっているところの曲輪。

結構広い曲輪。

本丸へ戻る途中の石段。

草木があるので分からないが眼下に街並みが広がる。

 

宗林寺

口羽家菩提寺。

山門が立派。

口羽家墓所。

 

西連寺

阿須那にある西連寺(通良の三男である元可が住職となる)

由緒
永禄3年(1560)下口羽の琵琶甲城主(初代)口羽下野守通良が創建。

 

真言宗 観世音院 西蓮寺と号した。

 

天正4年(1576)石山合戦の最中、口羽守通は毛利氏の大将としてよく奮戦して織田水軍を破り、石山本願寺へ数百艘の船をもって兵糧武器等を送り届けた。

 

浄土真宗十一世宗主 顕如上人の御感あさからず。

 

その縁あって通良は、以来顕如宗主に深く帰依して、翌年、元可(三男)へ泉秀と法名を賜り、この寺の住職とした。

 

爾来、浄土真宗に改宗、寺領の寄進も受け、江戸時代には浜田藩の菩提寺、徳川家の位牌所の一つにもなり、石見、安芸、備後に多くの門徒を持っている。

 

 

楼門(山門)
弘化三年(1846)起工、嘉永元年(1848)上棟。

 

棟梁は、旭町「和田の匠」と呼ばれた名工、長山喜一郎で、その傑作として石見三門の一つにあげられている。

 

桁行8.3メートル、梁行4.4メートル、棟高11メートル、瓦葺二階建て、入母屋造り。

 

一切金釘を使用せず、扇や庇、上欄等一ブ未完成の部分もあるが、素木の総欅造りである。階下に六頭の竜、四対の獅子、鶴と雲が十二、花に極楽鳥、正面に雲竜、階上には竜、獅子、鶴等、華麗な彫刻で飾られている。

本堂。

 

余湖図【琵琶甲城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

主郭は突出した尾根の頂上付近に構築されている。

 

その東側斜面には石が一面に張ってあり主郭の地盤を補強している。

 

ここには重量感のある建造物が築かれたのだろうか。なお、虎回は小規模だが石積が随所に認められるものである。

 

主郭西南には規模の大きな郭が築かれている。この主郭側の壁は削り込まれているが、尾根筋に対しては浅い堀切が2本築かれているだけである。

 

堀切の北端は、竪堀となって北側に築かれている連続竪堀群に合流している。

 

この連続竪堀群は規模が大きく、尾根筋の防御施設と比較するとその差が著しい。したがって、主郭西の郭は連続して築かれていた堀切を破壊して築かれた可能性もうかがえる。

 

主郭南側の中腹には居住空間と考えられる郭が存在する。城主には毛利氏と姻戚関係にある口羽(志路)氏が伝えられている。

 

島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用

 

琵琶甲城跡 羽須美村下口羽

東流する出羽川が大きく馬蹄形に方向を変えて江川に合流する地点の西、出羽川左岸に川をめぐって屹立する 龍尾山(標高二七六メートル、比高一六〇メートル)の天険の山上に築かれた山城。

 

本丸・二の丸・まりの段・釜屋の段 の主要郭群を中心に、南に延びる尾根には勢溜りと思わ れる一〇段の削平地と、北東に延びる尾根に九段の削平 地があり、いずれも比較的に広く、先端に竪堀・空堀を 設けている。

 

西方の斜面も急峻で、七条の竪堀が認めら れ、続く背後の鞍部を大きく堀切で画している。

 

城主口羽氏の居館跡といわれる地には土居・馬場の地名が残り、 現在は同氏の苦提寺宗林寺がある。

 

城の東方少し南の出羽川対岸の丘上は毘丘人城とよばれ、当城の支城跡ともいわれる。

 

琵琶甲城は毛利元就四奉行の一人口羽刑部大 輔下野守通良の拠城で、矢羽城(石見八重葎・石見誌)ともいう。

 

享禄二年(一五二九)毛利元就は尼子氏に帰服したとして藤根城の高橋興光を滅ぼし、そのあと家臣志道元良の 次男通良が口羽に封ぜられ、在地名を名乗って口羽氏を 称した「口羽氏系図」閥閲録など)。

 

通良は琵琶甲城を築いて拠城とし、のち毛利四天王とも称された。

 

天正一九年 (一五九一)のものとみられる一二月一七日の小早川降景書状(譜録)には「其時北口=者口羽之城を被取出候而、此 間之下野守を被指籠たる御事候」とある。

 

城地は赤名(現赤来町)を経て出雲、都賀(現大和村)を経て石見銀山、安芸国川根(現広島県高宮町)から吉田郡山城(現同県吉田町)へと 続く毛利氏の軍事・交通・経済の要衝にあたり、山陰進 出への拠点となった。

 

城の南西出羽川対岸に幡屋城とよばれる堅固な山城跡がある。

 

上口羽にまたがる標高三一一メートル・比高一 九〇メートルの山塊頂上を本丸とし、三方の尾根に郭を 階段状に配し、北東に延びる長い尾根にはさらに二方に 九段もの郭群を設けている。

 

城の東麓、下口羽地内の集 落は土居といわれ、山際に数基の宝態印塔・五輪塔からなる墓地があり、善林寺の地名も残る。

 

文明八年(一四七 六)九月一五日に高橋氏が益田氏と結んだ契状(益田家什書) に傘連判を加えた者の一人として口羽下野守光慶の名が みえ、この地を本貫地としたともいわれる。

 

また志道通良が琵琶甲城築城以前に居城としたとも考えられる。

 

『島根県の地名』より引用。

 

 

城の歴史

当初は佐波氏の勢力下にあり矢羽城と呼ばれていた城を築城していた。

 

戦国時代には阿須那の高橋氏の勢力範囲でこの口羽地方も高橋氏が治めていたと思われる。

 

1530年頃 高橋氏滅亡して志道通良が口羽に入部して在地名をとって口羽通良となる。

 

1550年 阿須那の賀茂神社を毛利隆元とともに再建(通良38歳)

 

1558年 天神宮(天満宮)を建立(通良46歳)

 

1560年 阿須那に真言宗 西連寺を創建する。

 

1561年 三代目口羽通平が生まれる(通良49歳)

 

1564年 二代目口羽広通が死亡(通良52歳)

 

1573年 滅亡した高橋氏の一統鎮魂の八注連神楽を奉納(通良61歳)

 

1576年 石山合戦のおりには毛利軍の大将として活躍する。

 

1577年 石山合戦にて本願寺顕如に深く帰依し西連寺を浄土真宗に改宗する 三男口羽元可を住職にする。

 

1577年 妻芳心院が死亡(通良65歳) 妻は福原広俊女。

 

1582年 口羽通良が死亡(享年70歳)

 

1593年 三代目口羽通平が死亡(文禄の役で朝鮮で病死) (享年32歳)

 

1600年 関ケ原の戦いの後に萩に移動する。

 

城主家系図

城主石高

口羽善九郎4,400.033総石高
(口羽通平)2,996.852備中 英賀
1,222.108石見 邑知
181.073備後 世良
口羽十兵衛2,931.159総石高
(口羽元良)880.168石見 邑知
484.709備中 英賀
1,190.436備中 河上
351.982出雲 楯縫
23.864安芸 高田
口羽久三郎1,159.658総石高
(口羽元智)622.858備後 世良
455.800石見 邑知
22.838周防 都濃
13.962安芸 高田
44.200出雲 大原
口羽刑部太夫521.190備中 英賀
(不明)
口羽孫右衛門500.000安芸 高田
(口羽元武)
口羽六兵衛300.713総石高
(口羽元可)277.700備中 英賀
23.013備中 英賀

 

所感

●宮尾八幡宮から尾根沿いに行けばすぐに到着する。

 

●尾根が長いので急ではない、しかし途中屋敷跡?くらいからは急になる。

 

●遺構はしっかりと残っており、また石垣の跡もあり見ごたえある。

 

●口羽氏自体は宗林寺の場所に居館があったと伝えられている。

※当時の宗林寺は山の中にあったらしい。

 

●口羽だけの所領では到底少ないので(上口羽、下口羽で1000石位か)

高橋氏の勢力下にあった場所の一部もその所領であったのかもしれない。

(本拠地である阿須那の賀茂神社の再建や西連寺の建立などから阿須那地域まではその所領であったと思われる)

 

関連URL

 

 

参考URL

城郭放浪記(琵琶甲城)

島根県邑南町の城跡(琵琶甲城)

西国の山城(琵琶甲城)

口羽氏(ウッキペディア)

武家家伝(口羽氏)

 

参考文献

『島根県中近世城館跡分布調査報告書』

『毛利八箇国御時代分限帳』

『萩藩閥閲録』

『萩藩諸家系譜』

『島根県の地名』

『日本城郭大系』14

『石見の山城』

公開日2021/08/14

 

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