城データ
城名:由良台場
別名:無し
標高:9.6m
比高:9.6m
築城年文久3年(1863)
城主:鳥取藩管轄
場所:鳥取県東伯郡北栄町由良宿
北緯:東経:35.499538/133.756320
攻城記
台場の盛り上がりが分かる。
近隣は公園になっている。
侵入。
国指定史路,鳥取台湯前 由良台場跡
指定年月日昭和六十三年七月二十七日
鳥取藩台場跡は、江戸時代末期、文化五年(一八〇八年)のフェートン号事件、文政八年(一八二五年)の異国船打払合など諸外国との緊張が高まる中、治岸警備のため築造された。
その築造場所は、鳥取藩の海岸線東西百六十キロメートル(四十里)の内、重要港湾を控えた八額所(浦富、 浜坂、賀露、橋律、由良、赤職、淀江、境)である。
由良台場跡は、藩倉が置かれた由良湊に造られている。
この台場の築造は、高島秋帆に西洋砲術を学んだ武信濃太郎総指揮のもと文久三年(一八六三年)から行われたが、藩財政が窮乏していたため、藩からの出資金無しで築造工事は進められた。
男女問わず十六歳から五十歳までの農民が 員され、その延べ人数は七万五千余人に及んだとされ、その人夫質等の費用は中・大庄屋、豪農らの献金にまかなわれたと伝えられる。
文久四年 完成した台場は、東西一二五メートル、南北人三メートル、周囲に高く土 塁を巡らせ、その高さは四・五メートルにも及ぶ。
台場内側は、三段になっており、砲座を中段から上段にかけて設け、そこに計四門の大砲が配置されていた。
大砲は、由良湊近くの六尾反射好で製造されたもので、それぞれ六十斤砲、二十四斤砲、十八斤砲、五寸径胞であった。
算末動乱期 おげる鳥取県の歴史を知る上でも資料的価値の高い貴重な史跡である。
平成十九年三月 烏取県教育委員会
台場内部。
余湖図【由良台場】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
文久3年に築かれた西洋様式の砲台。
敷地は東西125m、南北83mで周囲に高く土塁を巡らした長方形の前面(海側)の二隅を切った六角形をなす。
設置された砲数は4門を数える。
国指定史跡。
『鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)』より引用。
由良台場
文久三年(一八六三)、沿岸防備のために築かれた台場の一つで、最初に構築 された。
守備は武信潤太郎が担当し、民兵を組織して警備にあたった。
設置された大砲は、三六船、一四・四畑、一八智の台場炮各一門と、一五 径の御銘入台場炮一門の計四門であった。
現在でも、その遺構をよく残している。
『日本城郭大系』14より引用。
由良台場跡 大栄町由良宿
由良川河口東岸に位置する。
安政四年(一八五七)六尾の反射炉で初の製造砲ができたのを機に藩がすすめた台場砲設置と沿岸防備体制整備計画の一環として設けられた もので、現在もほぼ原形をとどめ国の史跡に指定されて いる。
面積約七九〇〇平方メートル、周囲約五〇〇メ― トル、内部平地の外囲は約二二〇メートル、最高地点の 標高は約一〇メートルで、五角の砲口面をもち規模は藩内随一であった。
文久三年(一八六三)六月に起工、久米郡 と八橋郡の一部の一六歳から五〇歳の男女延べ七万五千余人が日当米一升で使役され、翌四年二月に完成した。
この台場築造は六尾反射炉事業と連動したもので、資金は瀬戸村の大庄屋武信家以下豪農層の献金により、武信潤太郎を総指揮者として進められた(岩本家文書)。
石材はいっさい使用されておらず、五〇〇から六〇〇メートル南方の鍛冶山や清水山から運んだ粘土が使用された。
備砲は六〇斤砲一門(浜坂とともに最大)・二四斤砲一門・一 五斤砲一門など計九門であった。
なお藩内の他の台場と 同様、異国船から米を守るため藩敵の北に設置された。 ただし新式のアームストロング砲が国内で生産されるようになったため、設置された砲は実戦には一回も使用されないまま、明治三年(一八七〇)六尾反射炉の砲製造道具類と一緒に鋳潰された(在方諸事控)。
『鳥取県の地名』より引用。
城の歴史
文久3年(1863):6月着工開始。
文久4年(1864):2月完成。
明治元年(1868):明治維新となる。
明治3年(1870):砲は一度も使用されることもなく鋳潰された。
所感
●遺構がしっかりと残っており貴重な史跡。
●幕末当時このような台場が日本全国に造られた。
※鳥取で由良台場・境台場・淀江台場・橋津台場・浦富台場などがある。
●地元の方が何やら台場跡で活動されていた。
関連URL
参考URL
参考文献
『鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)』
『日本城郭大系』14
『鳥取県の地名』
『鳥取県地名大辞典』
公開日2021/12/19
攻城一覧