城データ

城名:熊谷家居館跡

別名:無し

標高:11m

比高:1m

築城年:貞享4年(1687)に熊谷就実のとき自領の津布田で百姓一揆が起こり、その責任を問われて鴨ノ庄に転封となり、この地に屋敷を構えたらしい

城主:熊谷氏

場所:山口県山陽小野田市鴨庄字鴨庄上

北緯:東経:34.065037/131.167313

熊谷家居館跡はここ

 

攻城記

熊谷氏の居館跡だけあり広い

左の大きな家(細迫家)の土地らしい

一段高くなっている

上がったところ

 

瓢箪池

 

航空写真

 

近隣

曹洞宗の円慶寺がある

杉重矩の墓

 

居館の概要

熊谷直實の嫡流家について

嫡流熊谷氏は、今日まで8百年間連綿とした家系とともに約250点におよ ぶ文書 (熊谷家文書一国の重要文化財) を代々相伝している。

 

直實の嫡孫: 直国の時、承久3年(1221年) に 「承久の乱」が勃発し幕府側の 直国は、江州瀬田で奮戦したが討死し、その勲功により直国の嫡子: 直時が武 州熊谷郷の地頭職とは別に、新たに芸州三入庄(広島駅より北方約20キロ)の地頭職 に補任された。

 

直時は、熊谷郷よりはるかに広大な三入庄に本拠地を移し、三 入庄の最奥の大林に「伊勢ヶ坪城」(現在、広島県史跡) を築いた。

嫡流15代:信直 (1506-1593) は、中興の英主で“直實”の再来といわれ、嫡流熊谷氏の最強の時代を築いた人物で、三人庄の南口要衝: 高松山に「高松城」 (現在広島県史跡)を築城した。

 

信直は、毛利宗家の客将・一門として、毛利宗家 の勢力拡大に多大な貢献をし所領は1万6千石であった。 (山口県文書館文書) 信直の嫡孫: 17代元直は、毛利家中で家格や門閥を誇り無礼な振る舞いが 目にあまるとして、慶長10年(1605年) 7月2日、毛利輝元により萩の熊谷屋敷を包囲され誅伐された。

 

後に、長府藩祖で伯父の毛利秀元に養われていた元直の嫡孫: 元貞が「大阪 夏の陣」で武勲をたて、 1617年に2千石で家を再興し、吉田(下関市)に 居館を構えたという。

 

21代: 就實のとき領地の津布田で百姓一揆(貞享4年-1687年)がおこり 領主就實は責任を問われ鴨庄に移封された。

 

新領地は「鴨庄・福正寺・鋳物師 屋 山川・浴・福田」の2千石で、鴨庄の最北の山際台地に居館を構えた。

 

居館跡は、現在、細迫家所有で「御田屋屋敷」とよばれ、面積は約1千5百 坪で上下二壇に分かれている。

 

上壇の奥に「瓢箪池」とよばれる 「瓢箪」 そっ くりの池も残り、大身給領主の貴重な居館跡として、往時を偲ぶことができる。

 

平成 13 年 3 月吉日

熊谷家寓生会

 

看板より引用

 

 

熊谷氏の再興

元直の嫡子直貞は元就の四男穂田元清の女を妻としていたが、文禄年間家督を相続しないまま二十一歳で死去したので、その長子元貞が元直の養子となって熊谷家を相続していた。

 

元直の誅のとき元貞はまだ千代寿丸と称し、幼少であったが、家老桐原宗右衛門が背負って、ひそかに難を毛利秀元の邸 に避けた。

 

千代寿丸の母は元清の女で秀元は伯父に当たる。また吉川広家の従弟の子でもあって、助命され 熊谷の家は存続した。

 

千代寿丸は後に次郎三郎直治と改名し、元和三年(一六一七)に加冠して元貞と称 丹後守に任じられ、福原広俊の女を妻とした。

 

元貞は再興熊谷家の初代であるが、同九年に二十九歳で死 去嫡子主膳正がわずかに五歳で家を継ぎ所領二、〇〇〇石を安堵された。

しかし主膳正もまた翌々寛永二年に早世したため領地は一旦没収された。

 

藩主秀就は名家の断絶すること を憂え、翌年に宍戸広匡の二男忠三郎に熊谷家を継がせてその所領を安堵した。

 

忠三郎は同十一年(一六 三四) 五月十九日主計頭に任じ、元実と改称し、二代目当主となった。

 

彼は元貞の母と同じ穂田元清の女を 母とし、さらにその妻に元貞の叔母が嫁した杉重政の女を迎えたので熊谷家の血脈を伝えることになった。

 

寛永三年五月、秀就が忠三郎に与えた次の親書は、名門熊谷家をいとしんだ秀就の心情をよく伝えている。

 

家格と領地

熊谷氏の家格は寄組で、その領地は寛永三年(一六二六) の配地のときは、 津布田村一、三 五九石三斗八升七合と、吉田村六四〇石六斗一升三合の計二、〇〇〇石であった。 津布田村はほぼ一円知行であったが、三代就実の貞享四年(一六八七)に百姓一揆が起こり、首謀者は法に照らして死刑に処せられ、就実もその責を問われて知行地替えとなった。

 

新領地は「地下上申」によると、鴨庄村の中、鴨庄・福正 寺・鋳物師屋で一〇八七石四斗二升一合、末益村の中、山川浴で五 一一石五斗七升九合および福田村で四〇一石の合計二、〇〇〇石であった。

 

就実は初名を貞知といい、のち帯刀と改称した。 元禄十一年(一六九 八)に家計窮迫のために一時在郷住宅を出願し許されて居館を鴨庄盆地 北辺の山際に構え、 桐原氏らの家臣を近くに居住させて領地を治めた。

 

四代元貞は帯刀と称し、延享三年(一七四六) 六月一日から寛延三年 (一七五〇)七月二十三日まで、約四年の間藩の当役の職に就いてよく 第六代藩主宗広を補佐した。

 

七代永太郎煕経 (徳) は文化七年(一八一 〇)に領地の中、福田村において三一五石一斗六升五合、鴨庄において 二八四八斗三升五合計六〇〇石を上地して家政の整理に当てたが、文政二年(一八一九)に江戸在番中三十四歳で急に死去、直行が国司家から入って八代当主となったが、末期養子のために六〇〇石を収され 本知一四〇〇石となった。

 

この直行も同十年(一八二七)に十九歳で早世、 直温が山内家から入って九代当主となったが、末期養子のためさらに四〇〇石を収されて知行高は一〇〇〇石に減少した。

 

『山陽町史』より一部引用

 

居館の歴史

1687年:21代: 就實のとき領地の津布田で百姓一揆がおこり 領主就實は責任を問われこの鴨庄に移封された。

 

城主家系図

 

城主(一族)石高

「鴨庄・福正寺・鋳物師 屋 山川・浴・福田」の2千石

 

所感

●一時は毛利氏家臣団の中でも重臣だったが元直がやらかして大幅削減

●それでも家名を保ち江戸時代を持ちこたえた

●現在は細迫氏の土地らしいが細迫氏は熊谷氏の家臣

●近隣には桐原というアパートもあったが「桐原」も熊谷の家臣でありこの地に熊谷家臣団の子孫がまだ生き続けている

 

関連URL

【広島県】トンガ坊城【広島市安佐北区可部町下町屋】

細迫氏の城

【広島県】高松山城【広島市安佐北区可部町】

安芸国時代の熊谷氏居城

参考URL

城郭放浪記(熊谷氏居館)

 

参考文献

山陽町史

 

公開日2026/01/02

ホームに戻る

攻城一覧

 

 

Copyright © 山城攻城記 All Rights Reserved.