城データ
城名:松本屋敷
別名:姫屋敷、松本御前屋敷
標高:378m
比高:1m
築城年:1588年頃
城主:吉川元春の妻(新庄局)が吉川元春屋敷完成前に居住したと伝わる。また吉川広家妻との伝承もある。
場所:広島県北広島町海応寺
北緯:東経:34.718800/132.463506
攻城記
吉川元春館跡から歩いてこられる。
直進突き当りの家を左に行くと着く。
ここが出入口か。
石垣上部分。
かなり広い敷地になる
位置関係
open-hinataより【松本屋敷】
余湖図【松本屋敷】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
航空写真
『芸藩通志』【海應寺村】
『芸藩通志』海應寺村から一部加工
「吉川元春室宅地」 と記載されている。
城の概要
史跡 吉川氏城館跡 松本屋敷跡 北広島町中山 平成9(1997)年9月2日指定
間口約70m、奥行き約40mの屋敷跡。南面する石垣は中央に約6mの門をはさみ、左右とも長さきっ かわ もと はる やかた まん とく いん
n、高さ約2mあり、吉川元春館跡や万徳院跡共通する石積み手法が用いられています。
天正8年(1580)の吉川元春書状から、元春の妻が「ふもと」の「かり宿」に住んでいたことがうかがえ、松本屋敷はこれにあたると考えられます。
天正11年、長男元長に家督を譲る(=日山城を下る)ことを契機として、元春館の建設が始まります。
八町馬場とよばれる志路原川に沿いの東西道路と、この北側に取り付く約100m間隔の南北道路も造られ、これらは今もその名残をとどめています。
周辺には石垣を伴う土居ヶ原土居屋敷跡などがあり、元春館の建設に伴い家臣の屋敷が築かれていき、日山城の南西麓の「ふもと」に城下町が計画的に整備されていく様子がうかがえます。
北広島町教育委員会
『看板から』引用
今海応寺の御土居の北方、松本屋敷または松本御前屋敷あるいは お姫屋敷と称するところは、すなわち、広家が夫人と共に寓居し新婚の夢を結んだ新第跡である。今なお石垣と大門跡が残っている。
『大朝町史』から一部引用
城の歴史
天正8年(1580):この頃吉川元春が日野山城から館跡をつくり移転する
館が完成するまで一時的に仮宿として住んだと伝承がある。
城主家系図
新庄局が住んでいたと伝わる。
所感
●東西70m、南北45mの石垣が残っており、吉川元春館跡や万徳院跡と同じ技法で作られている。
※石つき者共が関与か。
●一見すると、普通の石垣に見える、伝承が無ければ忘れられた石垣になるところであった。
●芸藩通志では「吉川元春室宅地」とされているが、吉川広家室(容光院)の宅地との伝承もある。
※ひょっとして、吉川に縁のある女性たちが「かり宿」として一時的に住んだ屋敷なのかもしれない。
●南方の国道は八丁馬場跡と呼ばれているらしい。
●吉川氏城館跡(駿河丸城跡,小倉山城跡,日山城跡,吉川元春館跡,西禅寺跡,万徳院跡,洞仙寺跡,常仙寺跡,松本屋敷跡)の一つとして、国の史跡に登録されている。
関連URL
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『大朝町史』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
『万徳院跡 史跡吉川氏城館跡 発掘調査概要 第2次(1992) (中世城館遺跡保存整備事業発掘調査報告』
公開日2025/06/07