城データ

城名:高取城

別名:無し

標高:583m

比高:390m

築城年:南北朝時代

城主:越智氏、本多氏、植村氏

場所:奈良県高市郡高取町上子嶋

北緯:東経:34.429102/135.827451

高取城はここ

 

 

攻城記

近鉄壺坂山駅下車する。

歩くと時間がかかるのでタクシーで麓までいく。

 

看板のあるところまでタクシーは行ってくれる。

代金は2500円位。

相当広いのが分かる。

攻城開始。

最初からこのような石垣がありワクワクする。

たまらない。

壺坂口門跡

瓦はゴロゴロある。

壺坂口門跡の上。

先を急ぐ。

大きな曲輪に到着。

登っていく。

圧倒的な石垣。

壺坂口中門まで到着

折れがしっかりある。

大手門跡まで到着。

絵になる石垣。

このような看板があり嬉しい。

さあ、大手門を進んでいく。

もうすぐ中心部。

十三間多聞跡。

二の丸だけあり広い。

十五間多聞跡。

太鼓櫓跡。

新櫓跡。

上に登る。

下り道があるが井戸に繋がる。

二の丸から本丸への石垣が圧巻。

とても痺れる石垣。

本丸までもう少し。

本丸に到着。

井戸跡。

天守台。

三角点もある。

礎石。

景色も良い。

門跡の部分。

周囲を巡ってみる。

本丸周囲の石垣の高さに驚き!!

井戸跡に行ってみる。

石組の井戸があった。

井戸跡周囲の石垣。

千早門跡。

宇陀門跡。

松ノ門跡。

矢場門跡。

国見櫓に行ってみる。

国見櫓からの見晴らし。

どんどん下っていく。

茶碗の欠片か?

二の門跡。

八幡宮が城城内にあったということか?

有名な猿石。

どんどん下っていく。

寄り道。

途中の岩屋不動。

城内に寺もあったのか?

手水鉢。

やっとここまで降りてきた。

確かに日本最強の城。

 

宗泉寺

城主であった植村氏の菩提寺。

 

周辺城下町

当時はすごかったんだと思います。

植村家長屋門

総門

田塩家住宅長屋門

松の門

 

余湖図【高取城】

 

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要・城の歴史

 

高取城は、国中(奈良盆地)と吉野地方との間に障壁のように連なる山塊中の高峰にあり、近世の山城としては異例の高さと規模を有する。

 

中世の高取城の創築は、正慶元年(元弘三、一三三二)に護段親王の挙兵に応 じた越智邦澄によるという説が一般的であるが、確証はない。

 

しかし、越智氏が南朝方で活躍した過程、高取山に砦を築いたことは、南朝方の動きや、 のちの越智氏の吉野方との結び付きからほぼ確実とみてよい。

 

『興福寺旧記』に、 永正十五年(一五一八)「高取城ヲ越智ヨリ攻取、城主子嶋掃部没落ス」とあることから、越智党に属していた子嶋氏を城主として置いていたこともあったよ うである。

 

しかし、永享九年(一四三七)から翌年にかけて、幕府軍に対抗して 越智維通が高取城に立て籠もった伝承(『南朝紀伝』『十津河記』)もあり、越智氏にとって高取城が重要な詰城であったことは確かである。

 

いずれにせよ、越智氏が常時詰める城は貝吹山城のほうであった。越智氏が高取城近辺に居館を設けて本拠とし、高取城が本格的な中世城郭として改修されたのは戦国時代に 入ってからであろう。

 

秋永政孝氏の説によれば、越智家栄の後、伊予守家益の系統と民部少輔家広の系統に分かれ、伊予守系統は貝吹山城、民部少輔系統は 高取城を本城とするようになった『高取町史』。

 

天文元年(一五三二)に南都 一向一揆に追われた興福寺僧徒や国衆が高取城に立て籠もり、一揆勢を撃退した事件があり、高取城が堅固で重要な城となっていたことがわかる。

 

天正八年(一五八〇)に、織田信長の一国破城令によって、高取城もいったん破却されたが、筒井順慶が同十二年二月、高取城を詰城として復興を開始した。

 

同年八月、死去した順慶の跡を継いだ定次は、同十三年、伊賀へ移され、豊臣秀長が入国した。

 

高取城へは脇坂安治に次いで本多正俊が入り、秀長の命で同十七年から本格的な工事を始めた。

 

文禄四年(一五九五)に秀長の子秀保が死んで増田長盛が入国したが、本多氏はそのまま高取城に残り、慶長五年(一六〇 〇)に二万五千石に加増された、本多氏の断絶後、寛永十七年(一六四〇)に植村家政が同石高の大名として入り、幕末まで植村氏の高取藩が続いた。

 

入部当初は藩主は高取城内の屋敷に居住したが、数年後に山麓の下子島に藩主の下屋敷が造られ、家臣も漸次山を下りて、城下町土佐から子島にかけて武家屋敷が並ぶようになった。

 

しかし、植村藩では城の常普請を認められていたので、ほとんど明屋敷となった山上の城郭の補修を続けた。

 

高取城は、城山に点在するすべての郭を含む範囲を「郭内」とよび、二の門・壺坂口門・吉野口門で固められた狭義の城域を「城内」とよぶ。

 

郭内には黒門から二の門までの別所郭・ 岩屋郭、その途中、大手道沿いに点在する諸郭があり、二の門から岡口 門の間には鉄砲矢場・横垣郭があり、 岡口門近くに諸木台がある。

 

壺坂門の下に家臣屋敷群があり、尾根道を西に行くと八幡郭がある。

 

吉野口門からみろく堀切までに赤土郭がある。

 

城内は二の門から本丸まで、三の門・矢場門・松の門・宇陀門・千早 門・大手門・十三間多聞・十五間多 聞・下の門と上の門、都合九か所 (二の門を含めて十か所)の関門があ り、本丸を含めて十一層に区分できる。

 

大手門から内部の二の丸・本丸 部分は石垣も壮大で、防備厳重な構えである。

 

二の丸に藩主の邸宅があった。十五間多聞と下の門の間に小郭を置いてこれを外桝形に扱い、上の門から中が本丸である。本丸は、 天守のある内郭とその周囲を取り囲 む外郭とが二重になって整然とした 縄張りとなっている。

 

天守の郭に上 る虎口は三の門・二の門・一の門をそれぞれ屈折してくぐるようになっ ており、厳重な桝形門である。

 

石垣も本丸部分が最も整った積み方で、時代は天正年間以後のものといわれている。

 

本丸・二の丸以外の大手門から外 の部分が広義の三の丸である。

 

そのうち千早門以内が狭義の三の丸で家老屋敷とよばれている。

 

壺坂口中門から外は壺坂口郭、二の丸の西北下の突出部分は 古川屋敷とよばれ、さらにその先は焰硝蔵で、両脇の石塁は厚く先の石垣は薄い。

 

つまり、火災の時の爆風が城外に向くように造られている。

 

喰違門から外の東北尾根上に突き出した屋敷群がある。ここが吉野口郭で、その先端に巨大な空堀がある。

 

本丸の北の斜面の下、撤鉄状の底に石積みで固めた池のような大きな井戸があり、その西隣、大手門から下った井戸郭にも小さな井戸が二か所、本丸の天守台の前に一か所、矢場門の北の谷に一か所ある。

 

二の門を出れ ば堀を土橋で渡るが、その東側は土手で堰き止めた水堀がある。山城に水堀の あることも当城の特徴である。

 

城内の諸郭はすべて石垣で固められ、中世の高取城の痕跡は全然ない(石垣 のない壁面は積石が崩落したのであろう)。

 

郭内に散在する諸郭もほとんど近世の築造のようである。局部的にみれば、石垣を用いず、単郭な連郭であるものが多いが、位置から考えて、中世に築く必要のないものである。

 

ただ八幡郭だけは、越智氏がよく立て籠もった壺坂寺との連絡道を確保するために必要な立地であり、繩張りも中世的である。

 

近世には、家臣団集住の体制がとられたから、城下と隔たった山城に藩主が常住すれば、家臣全部が山上生活を強いられる。

 

全国で最も比高のある高取城が、最も広大な屋敷地を抱え込んだ山城にならざるをえなかった所以である。

 

いいかえれば、他藩における山下の家臣屋敷地がすべて山上に集まった形が高取城の場合であるといえる。

 

『日本城郭大系』10より引用

 

城主(一族)石高

植村氏25000石

 

所感

●日本三大山城の1つであるが、群を抜いている。

 

●近世城郭と家臣屋敷がそのまま山の上にあったと思うと当時どんな感じだったか想像するだけでロマンに浸れる。

 

●山全体が石垣で囲まれており、重層的。

 

●日本一の山城だと思う。

 

関連URL

【岡山県】松山城【高梁市内山下】

三大山城の1つ備中松山城

 

参考URL

高取城(高取町観光ガイド)

城郭放浪記(高取城)

高取城(ウッキペディア)

植村氏(ウッキペディア)

 

動画

 

参考文献

『日本城郭大系』10

 

 

公開日2024/06/01

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