城データ

城名:財崎城

別名:無し

標高:220m

比高:20m

築城年:戦国時代か

城主:天野隆重

場所:広島県東広島市志和町志和堀

北緯:東経:34.502796/132.672031

財崎城はここ

 

攻城記

現在は称学校になっている。

ここからでも若干の比高がある。

周囲から少し高いところに位置しており、館としての機能を有していたと思われる。

 

【殿様の墓】

小学校の裏側に墓所がある。

こちらの墓が天野隆重に縁のある墓らしい。

ただし、隆重は1854年に亡くなっているし、嫡子の元明は関ケ原までは生きていたらしい。

別の墓。

 

位置関係

 

open-hinataより【財崎城】

 

余湖図【財崎城】

 

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

『芸藩通志』【才嵜城】

 

城の概要

1970年に小学校改築によって削平され,原形をとどめない。右図は1965年頃の略測図である。

 

比高10〜20mの丘陵の東側を掘り切り,三つの郭を階段状に並べている。ただし,この状況も明治期に地主が開墾したもので,相当改変されているものと思われる。

 

城主は天野氏と伝えられる。

 

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用

 

 

財崎城

志和堀、堀市にあった。今の志和堀小学校の校地がそれで、かつての城跡のあった丘は削りとられていて遺構はない。

 

建武年間(一三三四改元)天野政貞が志芳堀庄三五〇貫の地をもって入ってくる。(萩藩閥閱録・天野求馬書出) これを他の天野氏と区別して便宜上堀天野氏とよんでいる。

 

その堀天野氏代々の居城であった。

 

一説による と戦国時代東天野氏から養子に入ってくる元貞の築城とも伝えている。

 

堀市の名は、城下市の名残りであろう。付近に円福寺があり、慶長四年(一五九九)在銘の天野隆重の子の墓と伝える宝篋印塔や五輪塔が散在している。

 

『賀茂郡史』-中世武士編-より引用。

 

財崎城

財崎城は、志和堀内に東方から延びてきた丘陵の先端を利用した城で、志和 町の水田地帯をなしている関川と東川が合流する地点を眼下に眺める交通上の要地に位置している。

 

この城について、『芸藩通志』『賀茂郡志』は天野元貞の子隆重が築いたとしている。

 

また『賀茂郡古城史』には天野元重が築いたと記されている。

 

築城年 代は明らかではないが、毛利氏の部将として各地を転戦した隆重が、この城を 本拠としたことは明らかである。

 

隆重の活躍したのは天文三年-天正六年(一 五三四―七八)頃であり、その時代に築かれたものとみられる。

 

財崎城に拠った天野氏と志和東の米山城に拠る天野氏とは同族ではあるが別系で、元貞は米山城八代興次の弟であった。

 

ともに毛利氏に従っていたが、別別の動きをしており、元貞・隆重・元明・元信・元重と続く志和堀の天野氏のほうは堀財崎天野氏と呼ばれている。

 

隆重の子元明は、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦に敗れた毛利氏が防長へ 移封となったので、それに従って転出したが、

 

元明の弟で、その養子となって家を継いだ元信は同十年八月に萩城の造築工事に関連して益見元祥と争ったことや、またキリスト教を棄てることを拒否したことから、同じくキリシタンで あった岳父の熊谷元直らと共に毛利輝元に死刑に処せられた。

 

この時、元明の 養子元重は身の危険を感じて筑前に逃げた。

 

その後、同十二年に惣領家の元政は自領に招き返されたが、寬永二年(一六二五)に元政の子元倶が父の遺命だとして元重を殺したため、天野氏の直系の子孫は断絶した。

 

財崎城跡は、近年、小学校の建設によって削平され、昔日の面影はないが、 土塁はなく、郭が西側に一、二段存在し、東側に堀切を設けた単純な構造で、平時の居館であったようである。

 

この城の背後の浄源寺跡に、天野隆重の子の墓と伝えられる五輪塔がある。

 

また、城の南側には堀市の地名が残っており、城下の市場の名残ではないかと思われる。

 

『日本城郭大系』13より引用。

 

城の歴史

戦国時代に天野隆重が築城か。

 

 

城主家系図

 

天野元行=元貞

 

城主(一族)石高

天野五郎右衛門(元信) 

7,140.955石

【内訳】

5,595.232石  備中  上房

351.094石   備中  賀陽

1,194.629石   安芸  賀茂

 

天野新兵衛(元嘉)

3,283.182石  備後 怒歌

 

天野九郎左衛門(元勝)

1,018.413石

【内訳】

312.102石  安芸 賀茂

94.174石    安芸 高田

327.815石  出雲 出東

159.400石     出雲 秋庭

50.016石    出雲 神門

74.906石    備後 芦田

 

天野二郎右衛門(元時)

782.956石

【内訳】

638.221石  安芸 賀茂

144.735石   備後 恵蘇

 

天野吉蔵(元重)

486.322石  周防 玖珂

 

所感

●現在は小学校になっており、遺構は全くない。

 

●ただし、寺跡、堀の由来となった堀市、小学校からみる風景などから往時を推測できる。

 

●戦国時代の混乱時期に金明山城を築城、平時になってまた財崎城に館として築いてきたか。

 

関連URL

【広島県】金明山城【東広島市志和町志和堀】

 

参考URL

城郭放浪記(財崎城)

西国の城(財崎城)

財崎城 (東広島市)

天野隆重(ウッキペディア)

 

参考文献

『日本城郭大系』13

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』

『広島県の地名』

『広島県地名大辞典』

『広島の中世城館を歩く』

『萩藩諸家系譜』

『毛利八箇国御時代分限帳』

『萩藩閥閲録』

『賀茂郡史』-中世武士編-

 

公開日2024/05/05

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