城データ
城名:八条原城(はちじょうばらじょう)
別名:八条原練兵場
標高:260m
比高:10m
築城年:1868年
城主:浅野長勲 普請奉行:高間多須衛
場所:広島県東広島市志和町志和西
北緯:東経:34.491559/132.639197
現在は志和神社になっている。
この場所は兵舎だったらしい。
藩主の手水鉢。
神社時代は明治40年に勧請されている。
練兵場だったところ。
神社裏には調理場(食堂)があった。
約1000人の食事を作っていた
300人文武館の学生 300人大工や左官などの職人 400人地元から駆り出された人員。
1000人分の食事を作るとは相当な規模。
食堂の場所には窪みがあり、ここは藩主の抜け道(出口)があった(伝承)
本丸に行く途中にある抜け道陥没部分
抜け道は300m位あったようだが、途中陥没した部分がある、道路敷設のため潰された。
直進と右方向、左方向の道がある、こちらは左方向の道で大手道になる。
道を左に進むと八千石倉庫に行く。
八千石倉庫手前の土塁。
礎石。
中央礎石(何か所かあるか大きな礎石はここにしかない、後は近隣の方が持って帰った)
八千石倉庫の番屋跡。
水車小屋。
往時は4つの石臼で米を搗いていた。
その石臼。
瓦残欠、伊予から10万枚購入したらしあい。
本丸。
本丸は高くなっており、段差面は当時石垣で囲まれていた。
今はだいぶん崩れている。
本丸部分は草木が繁茂しているが、一部は地元の方が整備している。
藩主抜け道(陥没している)
石州瓦もある。
当時膨大な瓦を使用していたことが分かる。
政事堂に行く道。
西門(二重になっている)の土塁。
太陽光パネルの先に最初の西門がある。
西門の二重門の一部。
土塁が切れているがここに門があった。
土塁の向こうは庭園がある。
本丸にある藩主抜け穴(伝承)
土塁が広がっている。
下條の池(藩主庭園の池)
明治元年に造られた池で外部からの生物の出入りは無いので江戸時代からの生態系が残っている。
北に進む。
労働者300人が住んでいた長屋があったらしい。
北面の石垣。
300m弱東西に積まれている。
一部分無くなっているが、それは地元の方が田んぼの畔で使用するために持って帰ったらしい。
太陽光パネルの部分も城域であった。
この部分が八条原城の見どころ。
小川が流れており、橋が架かっていた。
豪雨災害で礎石も流された。
東方面石垣。
違い石垣になっている。
この部分に東門があり志和堀からの年貢米はここに運ばれていた。
東石垣。
しっかりと残っており見ごたえあり。
ずっと続いている。
備考
広島に続く年貢街道。
藩主が泊まった宍戸家の家。
藩主のみ通れた門。
【西蓮寺】
神機隊の屯所であった。
位置関係
open-hinataより【八条原城】
アップ画像。
1960年代の航空写真
現在の航空写真
城の概要
八条原城は、幕末の動揺期に広島藩が高間多衛を軍事奉行に任命して築いたものである。
地形としては、四方を山に囲まれ、関川によって開かれた地を一望する三ッ掛山の山麓に位置している。
この城は、藩士の子弟をもって組織した八旗隊(ママ)の練兵場という名目で築かれたものであるが、実は、幕末維新期の広島藩の隠し城ともいうべきものである。
絵図によると、周囲に石垣を築き、東南側に本門を設けている。
この門を入ると練兵場になっており、この練兵場を囲んで八旗隊(ママ)の兵営舎・炊事場・風呂場.柔剣道 場などが建てられている。
北門か らは谷川の水を取り込んで飲料水 を確保していた。
本丸と呼ばれて いる建物の西側の池から、東に溝 を掘って水車場を設けている。
この近くに番所と五間×十五間の大 きな米倉があり、礎石が残っている。
志和盆地の年貢米は八千石といわれ、狩留家峠を越えて広島に 運ばれていたが、この年貢米が八条原城の米倉に入れられたという。
本丸の建物は五間半の玄関のほか、大小約六十の部屋からなり、この本丸の東側には長さ十八間の政事堂と呼ばれる建物があった。
本丸の西北 は庭園で、政事堂の西南に番所見張台があった。 明治二年になると、本門の東北側に生徒三百人の文武塾が建てられ、翌年には廃止されたが、ここには寄宿舎・炊事場・風呂場・講堂が建てられていた。
工事は、明治元年八月十三日に張りを行ない、翌日から同四年三月二十六日 までの二年八か月にわたる突貫工事で、延べ四万五千人が動員されている。
特に、同二年十二月三十一日と翌年正月一日にも動員されていることからもうか がわれるように、急を要するものであった。
なお、志和盆地に入る峠境には、関所を設けて番人を配置し、奥屋 鋳造所・銃薬製造所もあった。
『日本城郭大系』13より引用
八条原城跡
東広島市志和町志和西
安駄山東麓に広島藩が幕末に築いた城。
慶応三年(一八六七)測量を開始し翌明治元年(一八六八)着工、突貫工事の末、同三年春完成した。
表向きは藩士子弟で組織する八 旗隊の文武教育の場ということであったが、実際は平地にある広島城の防備上の弱点を考慮して築いた広島藩の隠し城であった。
「西志和村誌」所収絵図によれば、周囲を石垣で囲み四ヵ所の番所・見張台があって東南側に本門を設け、兵営舎・柔道場・剣道場・炊事場・風呂場などの練兵施設とその奥に約六〇の部屋をもつ本丸、長さ一八間の政事堂 という建物があり、本丸の南には庭園を築いていた。
北 門からは谷川の水を入れて水車場に導き、そのすぐ東には米倉もあって長期の食糧自給も可能であった。
本門の東北には文武塾を併設、講堂・寄宿舎を備えていた。
築城に伴い、志和盆地から四周に通じる五ヵ所(宗吉峠・複ノ山峠・湯坂峠・竹仁峠・関川畔)に関所を置き、奥屋村に鉄砲鋳造所、七彩樺坂村字則載に銃薬製造場などが設置された。
藩主長訓は着工の年に二度も現地を検分し、明治二年にも二〇日間滞在するなど築城に力を注いだが、同四 年の廃藩置県に伴って廃城となり、翌年民間に分割売却された。
講堂は西条町教善寺本堂として移されたという。
現在は石垣・水車場への溝跡などが残り、本門跡に志和神社が鎮座する。
『広島県の地名』より引用。
八条原城趾
志和西字八条にある。前記鶴羽根神社社守の言うような理由によって、明治元年、当国領主浅野長訓 が、落士の子弟を以て八族隊なるものを組織し、陽には八旗隊練兵場と称し、陰には戦乱の際に備える為め、船越洋 之助(後の男爵船越術)を派遣して、三ッ掛山麓の地を下し、ここを開拓して八条原と称し高間多須衛を普請奉行と して築城にかかった。
八条原とは小字の名をとったわけで ある。明治元年八月十三日起工し、同三年春、倉庫、水車 場、牙城、侍臣部屋、雑輩長屋、政治堂、講堂、楼門、外 廊、城璧等が完成した。
其の建築物の位置は、別紙略図の 通りである。
此築城と共に、志和から四隣に通ずる要術に関守を設けて通行人を一々検査した。
其の関所は次の通り である。
関川、志和堀村から高田郡秋越村(元秋山、小越二村の 合併で現高南村)に通ずる関川口。
竹仁峠、志和堀村から上竹仁村(現福富町)に通ずる竹 仁峠の頂上。
湯坂峠、本村から安佐那狩小川村(元高宮郡、狩留家、 深川、小河原三村の合併で現高陽町)に通ずる湯 坂峠で追分、小丸子間。
榎山峠、本村から安芸郡瀬野村(下瀬野)に通ずる榎の 山峠で格木台と称する少し上手。
宗吉峠、本村から八本松に通ずる賀茂那川上村宗吉の峠 で今一号トンネルと称する所。
以上各関所の番所から左右の山に遠く高柵を設けて、番所 を避けて妄りに通行することを響いだ。
八旗隊は八条原城内に駐屯して文武両道を修練し、文学の教師には山田養吉 動細十竹 が来城滞在した。
明治元年八月十二日、落主浅野長訓、土地検分のため入村せられ、当時庄屋同格組頭坪屋市左衛門(現姓宍戶)宅に宿泊し同十月普請検分の為め来城した。
明治元年及同二年の上納米は、志和全部をこの八条原の倉 庫に納め、以て工事費及び七条樺坂の西蓮寺並に奥屋大行寺原に屯在していた神機隊、及び城内駐屯の八旗隊の糧食に充てた。
明治二年十一月二十八日には藩主浅野長勲入城約二十日滞在した。
明治四年七月廃器置県の際、此城を廃し、同五年二月十七日浅野家典医坪井道成詳は、土地建物全部の払下げを受け其の費は或部分を除き価格二千七百七十二両二歩三朱 と永銭十九及七分七厘であつた。
明治六七年間に於て該土地建物全部を売却した。
現に存する本郡西条町教善寺の庫裡は此城内の講堂であつた。
城跡は現に雑草樹林の中にその名残りを留めて居る。
附記、 この城跡の西に接して現在志和神社鎮座まします。往昔は広い原つばであつたが、林樹、灌木漸く繁く、其の西域に 接して昭和二十五六年のころから、池本氏の果樹閣が設置せられ、東側一帯約五十町歩は、林野を拓いて開発営団による一大耕地と化し、小野池の水をひいて、農作特に果樹 の適地と見られている。
南側に近く溜池があり、これを中心に所謂廻り馬場が設けられて、明治の末期には年々競馬 の神事があつて颇る殿賑であつたが、現在はすたれてしま つた。
城跡の東南開墾地帯の一隅にさきには志和青年学校 が設けられつづいて昭和二十二年来、志和中学校が設置せ られて、青年子女の教育に当つていることは、往昔の八旗 隊の文武両道の修練と相待つて教養の場としての因縁浅か らざるを思わしむるのである。
『西志和村誌』より引用。
東広島市志和町に残る幕末維新期の城
―広島藩が計画した八条原城―No.33
八条原城という城の名前を聞いたことがありますか? 八条原城とは幕末維新の動乱期に、広島藩が今の東広島市志和町に計画していた城のことです。
1 広島城に代わる防御施設
広島城は、今から約400年前、中国地方112万石を領有していた毛利輝元によって築城されました。
88棟の櫓を配し、三重の堀に囲まれ、弓矢・槍・鉄砲・騎馬を主力とした戦闘では難攻不落の城でした。
ところが江戸時代の末期に大きな転機がやって来ます。
開国により西洋から入ってきた高性能な鉄砲や大砲などの火器は、戦国時代から続いた戦闘の方法を大きく変えていきます。
射程距離の長い大砲の出現によって、かつて要害を誇っていた城郭の多くは、その軍事的な防衛機能を失っていきます。
とりわけ広島城に代表されるような、海に面した交通の要地に築かれた平城では、射程距離の長い大砲を積んだ軍船からの攻撃には対応できません。
このような情勢のなかで幕末の広島藩では、広島城に代わる防御施設の構築が急務となりました。
2 広島藩の取り組み
『芸藩志』という広島藩の歴史書から、秘密裏に進められた広島藩の取り組みを探っていきます。
文久3年(1863)12月16日、広島藩主浅野家の分家で江戸青山に屋敷を構えていた浅野長厚が高田郡吉田に移住します。
このことが『芸藩志』には「広島は国家の有事に際して、守るに適した場所ではない。
高田郡吉田は僻地ではあるが、土地は広く、周りは山に囲まれた要害の地である。」と記されており、この時期には、吉田盆地を軍事拠点として北方の守りを固める計画が窺えます。
さらに慶応4年(1868)8月9日の『芸藩志』には、「広島は交通の便は良いものの、平坦な地形であり、近年の戦闘では守ることができない。
一方で賀茂郡志和は四方が山に囲まれ敵が侵入し難い。ここを非常の際に使用する場所に定めた。」と記されており、非常時には志和盆地も拠点とすることが決められたようです。
志和盆地は海岸から約20 キロメートル離れた内陸に位置し、周囲を 700 メートル級の山に囲まれた面積約66平方キロメートルの盆地です(図1参照)。
①海から離れた内陸部に位置する。
②主要な出入口を封鎖することによって、容易に盆地全体を要塞化することができる。
③盆地内で収穫する8,000石の米が長期の兵糧として利用できる。これらのことから志和盆地が選ばれたと思われます。
志和西村の八条原には、藩主の邸宅・政事堂・米倉・練兵場・文武塾の講堂などが造られます。
これらは志和盆地が要塞化されたときに必要な施設です。このほか鉄砲鋳造所や銃薬製造所の建築も計画されていました。
3 工事の始まりと終焉
慶応4年(1868)8月、やがて最後の広島藩主となる浅野長勲は、実の父である浅野懋昭とともに、道家牧太・宮田真経・黒田益之丞・高間多須衛らの重臣を従えて志和盆地を訪れます。
そして志和西村八条原に縄張りを行ない、表向きには藩主の別邸と練兵場の建設として工事が始まります。
志和盆地内の石は、大小を問わずここ八条原に集められ、敷地を取り囲むように、高さ1m、幅50cmの壁が造られました。
中央部には藩主の邸宅が建てられ、これに接して、政治を行うための政事堂が造られました。藩主の邸宅には大きな玄関があり、24畳の大広間をはじめ大小60 の部屋を全て合わせると 440畳、庭には松の木40本を植えたと『西志和村史』にあります。
米倉が造られ、これまで広島城下に運ばれていた志和盆地内の米は、全てこの米倉に納められました。
また、藩士の子弟にイギリス式練兵と漢学を教育するための文武塾が開設されています。
工事の開始に伴い、志和盆地に出入りする主要な通路6 か所には柵門が設けられ、常時番兵を配し「他藩の者は通行禁止。盆地内の住人であっても、庄屋が発行した通行札を持たなければ通行できない。」との規制が設けられます。
10月からは、この規制はさらに厳しくなり、広島藩士でさえも通行するには通行札が必要になりました。
工事には、連日、数百人の職人と人夫が徴用され、盆正月も休まず続けられます。
工事が続いた慶応4年(1868)から翌明治2年(1869)にかけて、広島藩主の浅野長訓や浅野長勲(明治2年1月に浅野長訓が引退し浅野長勲が藩主を継ぐ)が頻繁に来村して工事を検閲しており、この工事が緊急かつ重要であったことが窺われます。
しかし、明治2年12月には工事は中止され、志和盆地の主要な出入口に設けられていた6か所の柵門も全て廃止されました。
工事が行われた慶応4年から明治2年は、戊辰戦争の内乱の真っ只中であり、戦乱の拡大も懸念されていたときです。明治2年5月の戊辰戦争の終結とその後の鎮静化によって、工事の必要性が薄れていったのでしょう。
*慶応4年は改元され、明治元年となった
4 その後の八条原
明治4年(1871)の廃藩置県において、広島藩の財産は広島県に引き継がれました。
しかし、八条原の建物や敷地は広島県に移管されることなく、翌明治5年(1872)、旧広島藩主・浅野家の個人所有の別荘として売却されています。
その代金の一部は、戊辰戦争で広島藩兵として働いた応変隊や神機隊などの隊士に分配されています。
このような理由から、志和盆地の八条原で行われた工事の詳細は、歴史に埋もれたまま、今日に至ったのでしょう。
現在この場所は、地元の人から八条原城跡と呼ばれています。
そこには志和神社(写真1)が鎮座し、裏山には苔むした石塁(写真2)が残り、広島藩の運命を担って計画されたにもかかわらず、僅か 2年後には完成を待たずに放棄された八条原城の残影を今に伝えています。
(広島城ボランティア「ひろしま歴史探検隊」尾川健)
『しろうや広島33』
城の歴史
慶應2年9月:木原秀三郎・川合三十郎、志和に独立部隊の結成を建白。
慶應3年9月19日:神機隊結成。
慶應4年7月25日:藩主別邸など建設開始。
明治元年8月13日:張りを行う。
明治2年4月:文武塾の開校。
明治2年12月:築城中止。
明治5年:浅野家の典医であった坪井道成に払い下げられる、代金は2700両。
藩主別邸と政事堂は藩主が使用されたものを売却するのは、畏れ多いということで解体焼却された。
薬草園にしようとする。
明治6年~7年:坪井道成の薬草園も失敗し他に売却する。
所感
●近代の城になるが、見どころ多い。
●現在は草木が繁茂しているが、往時は広大な場所に藩主も滞在できる空間で立派であったと思う。
●地元の方も知らない無名な城であるが、整備すれば歴史好きにはたまらない城と思われる(特に維新時の歴史)
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』13
『広島県の地名』
『しろうや広島33』
『芸州藩隠れ城ものがたり 八条原城』
『西志和村誌』
公開日2024/05/04