城データ

城名:寺山城

別名:屏風山城

標高:92m

比高:36m

築城年:『日本城郭大系』によれば熊谷直継による築城とあるので鎌倉~室町時代になる。

城主:熊谷氏縁の人物

場所:広島県広島市安佐北区可部町上原

北緯:東経:34.515870/132.518274

寺山城はここ

 

攻城記

現在は大部分が公園になっている。

前方には高松山城が見える。

可部の街並み。

前方の小山は舟山城。

寺山縁起

安佐北区可部、根の谷川左岸にある 標高一〇ニメートルの山です。

 

寺山には弥生時代後期から古墳時代前期の遺跡(墳墓群)と古墳時代中期の古墳がありました。(古墳時代 ほぼ三世紀末から七世紀に至る時代)

 

南北に細長く中央の小さな谷を境に、 北東側(北尾根)と南西側(南尾根) に分かれ、北東側には広島県立可部 高等学校とそのグラウンド、それと 広島市の寺山公園が造成されています。

 

南西側には古墳、遺跡があります。 寺山の北東には標高四百メートル足 らずの高松山がある。

 

この山の頂上付近には高松城があった。高松城は、 安芸国三入荘の新補地頭、熊谷氏の後期山城です。

 

この熊谷氏の所領三千石の内三百石を末寺十二坊を持つ、 寺山の東側山すそにあった「迎接院曼茶羅寺(こうしょういんまんだらじ) の寺領としたと伝えられています。

 

根の谷川に沿って一の字型に伸びる峰は、聖なる山としての貫禄充分であります。

 

又寺山はその姿があたかも屏風を立て掛けた形に見えるとこ ろから屏風山」ともいわれた。

 

熊谷氏(第十四代熊谷元直)は慶長五年(一六〇〇年)関ヶ原の戦いに敗退した西軍の総大将、毛利輝元 (元就の孫)と共に防長(山口県) に移り、その後寺山は、広島藩浅野家の藩領となりました。

 

元治元年(一八六四年)第一次長州征伐・慶応二年(一八六六年)第二 次長州征伐と藩の財政は困窮し、広島藩は南原屋の木坂文左衛門に贋金 (天保通宝)を造るよう命じました。

 

文左衛門は寺山の北西麓で百人位の鋳物職人によって贋金造りを始めました。

 

この頃、寺山を土井清右衛門が買い取り、当時は禿げ山であったが以来、 一衛、一郎、達郎の四代が一五〇年 に亘り代々経営努力を重ねてきました。

 

この度広島県立可部高等学校移転、 広島市立寺山公園造成にあたり観音 像を設立し記念とする。

 

平成二十年(二〇〇八年)八月九日 土井達郎

 

 

現在は可部高校になっている。

比高はあり当時は堅牢な城であったと想像できる。

尾根筋みると何か怪しそう。

曲輪っぽい。

城跡でしょうか。

この場所になる。

 

迎接院曼茶羅寺

400年以上前のもの。

 

位置関係

 

open-hinataより【寺山城】

余湖図【寺山城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

『芸藩通志』【寺山城】

城の概要

 

本城跡は,根ノ谷川東岸の寺山から北東に延びる丘陵先端に位置している。

 

最高所の1郭南西側を堀切によって断ち切り,北側に二つ,東側に三つそれぞれ郭を配置している。

 

遺構のない西側は急傾斜となっている。本城跡は,谷を挟んで高松山城跡の南面に位置し,城郭の構造が北及び東に重点を置いている点などから,高松山城の出城的役割を果たしていたものと考えられる。

 

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用

 

 

1寺山城跡について

今回の寺山城跡の発掘調査では,平坦面1〜5を確認した。ただし,後世の削平により,平坦面以外は明確に城に伴う遺構は確認できず,遺物も少量であった。削平の程度は不明だが,柱穴などが全く見られないことから,削平以前にも柱穴などの遺構は存在しなかったと考えたい。

 

まず,今回の調査の成果を基に各平坦面について概要を述べていく。

平坦面1は城の中央に位置し,中心的な平坦面と考えられる。切岸を造成し,周縁の盛土に一部石材を利用するなど比較的丁寧な作りである。

 

また,東部と北西部に通路状の掘り込みが認められ,出入口とも考えられるが,後世に作られた可能性もあることから出入口は不明としたい。

 

平坦面2は帯郭状の平坦面である。周囲の斜面は西側を除き急斜面で,切岸の役割を果たしていたと考えられる。

 

このことから平坦面2は防御の重点を北東においていたと言えるであろう。

 

平坦面2から平坦面3に続く通路状の部分の時期は不明である。

 

平坦面3は面積が最も広い。北西側は自然地形を利用した切岸と考えられが,南東側は傾斜も緩やかで,防御性が低く,どのような機能を担っていたか想定するのが困難である。ただ,平坦面4から出土した中世の遺物はこの面に伴うものと考えられ,当該期の活動が行われていたと想定できることや,他の平坦面との関連性から城の一部としたい。

 

平坦面4は平坦面3の西側を帯郭状にめぐる。西側は谷で急傾斜だが,平坦面3・4間は高低差が小さく,緩傾斜である。平坦面の配置や先述した炭化物の出土状況,造成の状況から,この面は平坦面3の開墾時に出た土で造られたもので,城には伴わないと考えられる。

 

平坦面5は東側以外は傾斜が急ではなく,面積も狭いが,傾斜が比較的緩やかな城の西側の防御性を高めるために造られた面と考えたい。

 

北側の石積遺構は開墾時に築かれたと考えられる。

 

ここまで寺山城跡で確認された平坦面について述べてきたが,これらの平坦面と城との関係について触れておくと,平坦面1は位置や造り等からみて,本城の主郭といえる。平坦面2は位置や形態から北東及び北西方向を防御する郭と帯郭が機能的に結びついた郭と考えられる。

 

平坦面3及び平坦面5はそれぞれ北東,北西を防御する郭といえよう。平坦面4は開墾時に造成されたと考えられる。

 

また,各平坦面を連絡するように設けられている道状の部分は土層観察などから,城とではなく後世の耕作地との関連が深いと考えられる。

 

以上のことをあわせると本城は,4つの郭をもつ連郭式の山城であったと推定でき,平坦面1以外は防御的機能はやや低いものの,谷のある北東方向に防御の重点をおいて造られたことが伺える。

 

なお,平坦面1と南西側に続く尾根を遮る施設は,平坦面1の切岸のみであり,他の部分に比べ防御力が格段に低い。

 

このため調査では平坦面1の切岸の終端付近に堀切などの防御施設が存在しなかったか特に注意して精査したが,確認できなかった。

 

しかし,地表観察では切岸終端から約10m南西の南東斜面に尾根頂部付近まで竪堀状の窪みが見られることから,南西側の尾根にも堀切などの何らかの施設が設けられていた可能性が極めて高いと考えられる。

 

今回の調査では寺山城跡について次のようなことが明らかになった。

①4つの郭からなる中規模の城であること。

②活動の痕跡が乏しいこと。

③北東方向に重点をおいた造りであること。

④15世紀後半から16世紀代の間に使用された可能性が高いこと。

 

以下では,上記の点に立脚して寺山城跡の性格について推論していくことにする。

 

まず,前述した諸要素のうち,①〜③と,これまでの縄張り調査で分かっていた,周囲の平地との高低差が50m以上ある点などを併せ考えると,寺山城跡は一定の軍事的勢力を持つ集団が軍事的目的で築いた可能性が高い。

 

ところで,寺山城跡の北東約1kmには,熊谷氏の居城・高松山城跡が存在し,寺山城跡からは高松山城跡の南側を一望できる。高松山城跡に関する文献は少ないが,篠原達也氏は,熊谷氏が武田氏から離反する時期つまり16世紀前半に高松山城跡に居城を移転してきたと推測している。

 

高松山城跡が熊谷氏の勢力範囲の南端に位置し,南(武田氏)を強く意識した点や,山頂に築造された戦略的な城である点などから,移転時期を16世紀前半とした比定は妥当と思われる。

 

さらに,寺山城跡から15世紀後半〜16世紀と考えられる遺物が出土していることを併せ考えると,二つの城は同時期に存在した可能性が高い。こうした位置的関係及び同時代性から両者は何らかの関係を有していたと推測できる。

 

一般的にはこのような位置的関係にある場合想定できるのは,寺山城跡が高松山城跡の出城(支城)あるいは向城(付城)の2通りである。

 

従来,寺山城跡は高松山城跡の出城と考えられており,今回の調査では両者の具体的な位置付けも視野に入れて調査したが,これまで述べてきたとおり,遺構・遺物が極めて乏しく推定も難しかった。

 

なお,生活の痕跡が乏しいのは,高松山城跡が比較的短期間使用された城であることから,高松山城跡と関係の深いと考えられる寺山城跡も,本格的に使用される前に軍事的緊張が緩和し,廃城となったためではないであろうか。

 

一方,芸藩通志によれば,寺山城跡の所在する寺山には蔓茶羅寺があり,奥房,浄安寺, 竹林寺など十二房を擁したとある。

 

なお,寺山の東側麓にある上原八幡宮の北側付近にはジョウアンジという地名が今も残る。

 

曼荼羅寺の創建年代は不明で,熊谷直実が法然上人から授かった迎接曼茶羅を納めたとする説もあるが,真偽は明らかではない。

 

ただ,こうした状況から,寺山に当時寺社が存在した可能性は捨てきれない。

 

すなわち寺山城跡は軍事的目的で築かれた城である可能性が高いものの,何らかの宗教的性格を帯びた施設であった可能性も否定できないであろう。

 

いずれにしても少ない資料をもとに推論を重ねており,今後の類例を待たなければならない。

 

『財団法人広島県教育事業団発掘調査報告書第5集』
寺山城跡
県立可部高等学校移転事業に係る埋蔵文化財発掘調査報告

 

より一部引用。

 

城の歴史

城に関する記述はないが、15世紀後半から16世紀代の間に使用された可能性が高い。

 

所感

●城になる前には寺山として何かしらの宗教的な施設があったかもしれない。

 

●熊谷氏と武田氏の抗争があった時に高松山城の支城として築城された可能性もある。

 

●今はほとんどにも残っていないが、一部に曲輪跡っぽいものもある。

 

関連URL

【広島県】高松山城【広島市安佐北区可部町】

 

参考URL

ひろしま昔探検ネット(寺山城)

城郭放浪記(寺山城)

財団法人広島県教育事業団事務局埋蔵文化財調査室 2004 『寺山城跡』財団法人広島県教育事業団発掘調査報告書5

 

参考文献

『日本城郭大系』13

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』

『広島県の地名』

『広島県地名大辞典』

『広島の中世城館を歩く』

『萩藩諸家系譜』

『毛利八箇国御時代分限帳』

『萩藩閥閲録』

 

 

公開日2024/04/20

ホームに戻る

攻城一覧

 

Copyright © 山城攻城記 All Rights Reserved.