城データ
城名:茶臼山城
別名:無し
標高:243m
比高:70m
築城年:戦国時代か
城主:武安某?
場所:広島県安芸高田市向原町長田
北緯:東経:34.605911/132.689507
攻城記
茶臼山城遠景。
攻城開始。
最初の曲輪で広さが一番。
尼子兄弟を監視する為に、内藤氏がここに居宅を構えたという話もある。
人工的な加工がされた石。
この曲輪の真上が本丸になる。
城域にある墓所、五輪塔や宝篋印塔がある。
墓の古さや大きさから戦国時代のもので合っている。
尼子家臣の墓か。
二重堀切の1つ目。
上からみたらしっかり残っていることが分かる。
二重堀切の2つ目
土塁。
横堀、こちらもしっかり残っている。
本丸。
中心部。
中心部にはこんもりをした古墳のようなものがある。
本丸部分も広さは十分ある。
近くには円明寺跡があり、そこに幽閉されていたとある。
円明寺が江戸時代以降に真徳寺になった。
古い大仏らしいが、江戸時代に色を塗ったりして損なわれたらしい。
歩いていると五輪塔があった。
位置関係
open-hinataより【茶臼山城】
余湖図【茶臼山城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【茶臼山城】
城の概要と歴史
【立地】
円明寺屋敷から谷を隔ててすぐ隣の尾 根上にあります。それほど険しい地形 ではなく、吉田と広島方面を繋いだ「豊島大道」という街道が麓に通り、水運 が行われていた三篠川も見下ろす要衝 に位置しています。
【歴史】
江戸後期の『芸藩通志』には城主は「武安某」とありますが、これ は長田の領主であった内藤元泰の叔父の武安左近を指すと思われま す。
永禄9(1566)年、毛利氏に降伏した尼子義久ら三兄弟は 出雲から安芸へ護送され、12月に長田円明寺に幽閉されました。
その監視役を担ったのが内藤元泰で、本拠城は田屋城といわれますが、 長年にわたり住み込みで監視を務めました。
なお、三兄弟の従者らには円明寺とは別に宿所を与えられており、 周辺にそうした施設があったようです。
【城跡】
大規模な城とはいえませんが、郭1を中心として同 心円状に細長い郭が三重に廻っています。
郭2の東 には土塁で防備された出入口があり、南西の尾根に は二重の堀切が見事に残ります。
また、少し離れて 屋敷地のような広い郭3や五輪塔が残る古墓もあります。
なお北側には堀切の先に土橋状通路、その東 側の谷には縦に長い土塁状の遺構があり、ともに城 との関係は謎です。
【考察】
三兄弟の宿所に二重に柵を設けたという記録がありますが、同心円状の構造と偶然にも一致します。
尼 子三兄弟を幽閉した時期に武安左近がここを居城としていたとは考えにくく、立地や小規模ながら厳重な構造から、ここが三兄弟密閉に関係した屋敷地であったと思われます。
ただし、それ以前から内藤氏に関係した城であった可能性もあります。
『安芸高田お城拝見』より引用
尼子三兄弟幽閉地としての茶臼山城
城主家系図
城主(一族)石高
内藤中務(元泰)
984.013石
内訳
893.126石 安芸 高田
90.887石 安芸 山県
武安木工丞
190.227石
内訳
21.347石 安芸 山県
16.840石 周防 玖珂
152.040石 出雲 嶋根
武安又右衛門
86.490石
内訳
56.394石 安芸 山県
30.096石 備後 芦田
武安与次
22.440石
内訳
5.030石 安芸 高田
17.410石 備後 三吉
所感
●『芸藩通志』には茶臼山城の城主は武安某となっている、内藤氏と武安氏は上記家系図のような関係となっている。
●尼子3兄弟が長田の地で幽閉されたのが永禄9年(1566)当時内藤元泰は16才であった。
●そこで親族である武安教方が元泰の後見役を勤めていた、元々武安氏の城だった茶臼山城を幽閉の為に内藤元泰が利用したのかもしれない。
※城自体は通常の城とは違い、同心円状の城として尼子3兄弟を監視するように造り直されたとも考えられる。
●逆に、芸藩通志の作成した時にはすでに伝承が間違って伝わっており、尼子三兄弟を幽閉した城だったのが武安某と伝わったとも考えられる。
関連URL
参考URL
参考文献
『広島大学文学部紀要 第四九巻特輯号一 安芸内藤文書 井原文書 その翻刻と解説 』
『日本城郭大系』13
『安芸高田お城拝見』
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2024/03/23