城データ
城名:星ヶ城
別名:無し
標高:613m
比高:583m
築城年:戦国時代か
城主:立野主膳
場所:広島県廿日市市市原
北緯:東経:34.383219/132.316800
攻城記
まずは極楽寺を目指す。
標高600m以上あり景色は最高。
藤掛城跡が見える。
こちらは岩戸尾城が見える。
極楽寺から降りていく。
登山道を道なりに降って行く。
ここら辺から城域になってくる。(虎口か)
城の先端が見える。(北端の曲輪)
北の堀切。
城域に到着。
特徴として尾根に何段もの曲輪がある。
このような曲輪が何段もある。
自然石なのか、意図したものか不明。
土塁か。
余湖図【星ヶ城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
1郭を中心に郭17,堀切3本,竪堀1本を弓状に並べている。大手を南側とし,東と西は急斜面となっている。
搦手の北端の郭の下には竪堀と堀切と自然石を利用した虎口がある。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
十 星ケ城
星ケ城は、極楽寺原参道と廿日市参道の出合う、 老木がうっ蒼と繁る左上の標高六一六・五米の岳 にある。
最高所の本丸に相当する郭は、広さ約二五一平方米(七六坪)あり、南の峯に向って段々に下っ て六段の平壇がある。
北の峯に向っては二段目の平壇が二之丸に相当 する郭で、三段目と四段目の平壇の間に堀切がある。
五段目の平壇が三之丸に相当する郭で、六段 目と最北端の七段目の平壇の間に堀切がある。
古記録によると星ケ城は、大永頃(一五二一〜 一五二七)立野主膳の居城で、落城後帰農して後畑に居住し、其子八九郎に至り洞雲寺に俗縁があり天正四年(一五七六)佐方に居住し、子孫は庄屋を勤めた。
伝承、記録共に乏しく詳細は不 明であるが、細長い尾根に一五段の郭と堀切が二ケ所あり、相当な規模の城である。
広島湾のうち厳島から太田川河 口の範囲、及び廿日市町、五日市町の平地部、石内筋が俯瞰できる位置にあり、厳島神主家が大内氏と結び武田氏に対立していた神領地を巡る争いの頃に、桜尾城との関係があったのではなかろうか。
『桜尾城とその時代』より引用。
城の歴史
詳細不明
大永年間(1521~27):この頃立野主膳の城だったことしか分からない、厳島神主家の友田興藤の家臣であれば1541年頃に桜尾城も落城して立野氏もこの頃帰農したのかもしれない。
所感
●この比高は高く眺望が良いはずだが、現在は木々で見れない、麓から距離もあり攻めるには難しい。
●曲輪の数も多く何段にも連なっており所々に堀切も存在する。
●極楽寺から降りていけばすぐに到着する城、遺構もよく残っている。
関連URL
参考URL
参考文献
『棚守房顕覚書付解説』
『桜尾城とその時代』
『廿日市町史』
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2024/03/17