城データ
城名:五日市城
別名:幸崎城、光明寺城
標高:約20m
比高:約20m
築城年:1456年頃
城主:宍戸治部少輔 宍戸備前守?
場所:広島県広島市佐伯区五日市4丁目
北緯:東経:34.367954/132.357625 か 34.368266/132.358397
もしくは
攻城記
小山がある。
一軒家がある。
遠景。
しかし、この小山ではなく他の場所(現在のキリスト協会)ではないかと推測する。
『芸藩通志』【光明寺城】
2つ山があり右の方の山に城名がついていることから、今はキリスト教会があるところだと思われる。
戦前の地形図
2か所山の地形が記載されている。
戦後すぐの航空写真
既に跡形もない。
位置関係
城の概要と歴史
五日市まちめぐり散策路
あまんじゃくと歩く通りみち
五日市城跡(いつかいちじょうあと)
かつて旧五日市の町並みの西側に「亀山」といわれる高さ20mたらずの小山がありました。
江戸時代の初頭にこの小山の西を八幡川が流れていました。小亀山と共に二つ並んだ形でしたが、 亀山は昭和初期に掘り崩され、楽々園の造成に利用され、その 後「五日市キリスト教会」が建ち周辺は宅地化されています。
五日市城とも幸崎城(こうさきじょう)ともいわれ、宍戸備前守弥七郎元続の居城でした。
城跡の形が亀に似ているので俗に亀山といわれました。 康正2年(1456)将軍の足利義政は厳島神社神領のこの地を取り上げ守護の武田信賢に下賜し、当時の厳島神主の藤原教親はこの地に城を築き武田氏の来攻に備えました。
永正5年(1508)に神主の興親が京都にて客死し、藤原神主家が断絶し厳島神主家争奪戦が起こりました。
東軍の友田興藤とこれを助ける宍戸治部少輔らは、桜尾城とこの城を根拠として、 藤掛尾に拠る西軍と戦を交えました。
天文9年(1540)出雲国の尼子晴久が安芸侵攻を始め、これに呼応した興藤は大内氏に反旗を掲げて戦いました。
ところが尼子軍の敗退により孤立無縁となり、ついに興藤は桜尾城で自刃し、嗣子の広就は五日市城に走ったものの、大内氏の兵に 攻められ自刃しています。
同20年(1551)に陶氏との手切れを決意した毛利元就は、佐西郡に進出し五日市城を始め郡内 を制圧し、宍戸元続にこの地を守らせました。
厳島合戦の後に五日市城は次第に荒廃してゆき、海老山城も廃城されました。
『西国街道ぶらり散策マップ/データベース」より引用 文貴五日市西国街道策俱楽部
広島五日市ライオンズクラブ
キリスト教会の壁に設置した掲示板より引用。
所感
●今はない亀山といわれた場所(現在はキリスト教会がある場所)に城があった可能性が高い。
●現在の小山部分にも城としての機能を持たせていたとも考えられる。
●当時は城の麓まで海岸が迫っていたと思われる。
●宍戸氏は毛利の家臣であるが、五日市城の宍戸治部少輔は厳島神領衆としてその家臣だった、となると、本家である甲立の宍戸氏とはかなり古くに分かれた一族だと思われる。
甲立にも厳島神領があり、その縁から宍戸氏の分流が荘園管理者のような立場で在地にいたが、本家宍戸氏の押領で神領が圧迫した頃に、五日市付近に移動したのかもしれない。
『萩藩閥閲録』巻58 内藤次郎左衛門 建保4年(1216)7月16日に佐伯(内藤)為弘(安芸国高田原を管理)がおり、この家臣として最初は行動していたのかもしれない。
●付近には海老山城があり城主が宍戸備前守とあることから、この五日市城も宍戸備前守の管轄だった可能性も否定できない。
関連URL
参考URL
広島県のお城(五日市城)
参考文献
『棚守房顕覚書付解説』
『桜尾城とその時代』
『廿日市町史』
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2024/03/17