城データ
城名:谷宗尾城
別名:当時は谷宗城ではないか?
標高:55m(現在地)
比高:30m
築城年:戦国時代か
城主:小幡上総守
場所:広島県廿日市市上平良
北緯:東経:34.353570/132.319425
攻城記
畝状竪堀。
綺麗に残っている。
現在は上水道貯水タンクとなっており侵入できない。
当時は連続して畝状竪堀があったかもしれない。
一番端。
谷宗尾城遠景。
城の麓に墓がある。
『廿日市町史』に以下の記載がある。
現在この地に谷峰氏が住んでいるが、土地の人は「タニミネ」ではなく「タニムネ」と呼ぶという。
この場合の谷は、 谷山(タニヤマ)が「谷のある山」でなく「タナ・ヤマ」の転で、「段丘の発達した山、段丘上の高くなった所」とするのと同じ意で、また、宗(ムネ)はミネ(嶺)やウネ(敵)と同じく「高く盛り上がったところ」の意である。
従って、谷宗とは「高く盛り上がったところ」の意である。なお、宗(ムネ)は、中世起源の地名に多い用字である。
位置関係
1960年代の航空写真
余湖図【谷宗尾城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【谷宗尾城】
麓に「谷宗」という地名があるのでこの地名が命名したのではないか。
城の概要
三谷宗尾城
谷宗尾城は、給食センター上の町上水道貯水タン クのある標高七一米の谷宗山にあって、最高所に本丸と北斜面に平壇があったが、削平されて旧状をとどめていない。
七尾城(芸藩通志にいう)の一つである谷宗尾城 が文書に出てくるのは、宝暦二年(一七五二)の上平良村万差出し帳で、小幡上総守が居城していた。
小幡氏は、鎌倉時代に下向した武蔵武士の児玉党 の一族で、上野甘楽郡小幡(群馬県甘楽郡甘楽町小 幡)から起ったものと思われる。
児玉氏は竹仁上下村(賀茂郡福富町)地頭職を得ており、小幡氏は児玉氏の代官として下向したか、又は寛延二年(一七 四九)長州藩士小幡小平太より、松代藩士小幡長右 衛門にもたらされた書簡に「小幡氏始藤原武蔵国児玉党之一類庄塩谷等の一家、文和年中安芸国兼武名地頭職」とあり、兼武名(可部町内か)に関わっ て下向したものと思われる。
応永一一年(一四〇四)九月、安芸国人一揆契状三三名連署者の中に厳島神主藤原親頼、小幡山城守親行の名が見え、小幡氏は佐西郡(佐伯郡)において、神領衆と異りある程度自立した勢力として 存在していた。
大永二年(一五二二)頃小幡氏は新庄(広島市西区新庄町)の狸城に居たものと思われ、大永三年(一 五二三)一一月一日石道城【水昌城](五日市町石内)に居た小幡民部少輔興行は、大内義興に属し て佐東の神領衆に対立して敗れ、三宅円明寺(五日市町三宅)で切腹している。
大永七年(一五二七)二月、大内方の野田興方軍によって奪回された石道新城を守備す る一員に小幡兼実の名が、天文一二年(一五四三)頃石道に新関を設置し守備した中に小幡山城入道の名が見える。
そのほか小幡行延の名も見え、谷宗尾城に居た小幡上総守も一族であろう。
『桜尾城とその時代』より引用。
城の歴史
詳細不明であるが大内氏の桜尾城攻撃の時に七尾と言う場所に陣取ったのでこの城も使用されたと思われる。
天文10年(1541)3月23日
義隆、陣を七尾に進む
同(天文一〇)三月廿三日、七尾へ御陣ヲ寄セラル、櫻尾ヲ取リツメラル、
『棚守房顕覚書付解説』より引用
所感
●現在は貯水タンク使用地で侵入できないが周りには畝状竪堀のような溝が多くあり城を感じられる。
●七尾という地域に大内軍が陣取った時にこの城も使用されたと思われる。
●尾根筋に築城されているのでどこからでも見える、当時も威圧感があったと思われる。
関連URL
参考URL
参考文献
『棚守房顕覚書付解説』
『桜尾城とその時代』
『廿日市町史』
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2024/03/02