城データ
城名:花隈城
別名:花熊城
標高:0m
比高:0m
築城年:永禄11年(1568)
城主:和田惟政
場所:兵庫県神戸市中央区花隈町
北緯:東経:34.688076/135.182854
攻城記
階段を登ればすぐに到着。
当時はこの先は海岸線であった。
open-hinataより【花隈城】
戦後すぐの航空写真
城の概要と歴史
国鉄東海道本線元町駅から高架沿いに西へ六〇〇mの間、北側一帯が花熊城跡である。
中心部に花隈公園がある。 築城は永禄十年(一五六七)に織田信長の命によって荒木村重が家臣野口与一兵衛を奉行として一か年の短期間に築いたと一般的にいわれているが、その時期には信長はまだ入京しておらず、この地方に力を及ぼす状況になかった。
十一年十月に摂津を和田惟政に与えた時に築かれたか、天正二年(一五七四)に 信長が摂津を席巻した時に大坂の石山本願寺と毛利氏の連続を断つために荒木村重に命じて築かせたのか、どちらかではないかと考えられる。
村重によって一 か年の短期間で築かれたことから考え合わせてみると、永禄十一年に築城され、 天正二年(一五七四)に大修築が行なれたのかもしれない。
その時、荒木志摩守が居城した。同六年(一五七八)に村重の部下がひそかに石山本願寺に物資を 供給しているとの疑いをかけられ、村重は疑いを解くために信長のもとへ行こ うとしたが、中川清秀に安土城へ行けば処刑されるだけだと止められ、ついに 叛逆を決意した。
信長は滝川一益・明智光秀らに村重を攻めさせ、村重は伊丹の有岡城に籠もった。
翌七年(一五七九)九月、村重は城を脱し、尼崎城に入り、 十月、有岡城は落城し、一族はことごとく惨殺された。
十二月、村重は尼崎城を脱し、西国に逃れた。同八年(一五八〇)二月、信長は池田勝三郎恒興(信輝) に花熊城の攻撃を命じた。
恒興は生田の森の北に勝九郎(恒興の長子之助)・幸新(次子輝政)兄弟は諏訪山に向城を構え、金剛寺山(現在の大倉山)には家臣伊木・森寺氏らが陣を設けた。
同年三月二日に合戦は開始され、七月二日に落城した。花熊城は同六年には毛利水軍によって占領されたことがあり、十一月、村重が信長に叛逆して毛利方についたために荒木方の支配下に戻った。
花熊城合戦の時、城内には近在の一向宗門徒たちも籠城していたといわれ、一向宗徒と 信長との合戦でもあった。
落城後、恒興は、この城の古材の一部を兵庫城の築城に利用したと伝えられ城の規模は岡山大学所蔵池田家文庫「摂津花熊之城図」によると、大きく三 つのブロックに分けられ、中央部には本丸・二の丸・三の丸があり、東のブロ ックには侍町が二筋、足軽町が三筋あり、西のブロックは町家で四町ある。
本丸には殿守と櫓と井戸があり、殿守は今の福徳寺あたりと考えられ、山門脇に「花隈城天守閣之趾」の碑が建てられている。
二の丸は東西九十三間(一 六七・四四)、三の丸は東西八十三間(一四九・四皿)、二の丸・三の丸を合わ せて南北九十間(一六二・〇m)と明記されているが、本丸にはその注記がない。 北面の切岸は高さ四間(七・二m)、東面・南面の切岸は高さ七間(一二・六 m)であり、西のブロックは東西四十間(七二・〇m)、南北九十五間(一七一・〇 』)、北面の切岸は高さ三間(五・四0)、南面は四間(七・二m)とあり、周囲 には堀がめぐらされている。
現在の地形にあててみると、中央部と西のブロッ クは、ほぼ現在の花隈町内にあたり、城域は東は神戸市立神戸小学校東側の南 北道路、西は下山手通六丁目・七丁目の境の南北道路、南は国鉄高架線あたり、 北は兵庫県庁南の旧市電道あたりに囲まれた範囲であった。 城の東面、生田馬場(生田神社の南西)から鯉川筋(国鉄元町駅東側の南北道 路)の間は、かつて大手町といわれており、大手口があったと考えられる。
搦手は北とも西ともいわれており、明らかでない。特徴としては郭内に町家を取り込んだことである。
現在は中央部南の一角が、地下に駐車場を設けた都市公園に改造され、外観は石垣をめぐらした奇妙な砦のようであり、公園には攻撃側の末孫池田宣政の 筆になる「花隈城趾」の碑が建てられている。
城将荒木志摩守は乱戦の中を脱出して、のちに羽柴(豊臣)秀吉に仕え、馬術をよくして荒木流馬術の祖とされ、 その子元満は二代将軍徳川秀忠に召されて代々馬術をもって仕え、千五百石の 旗本となった。
本丸跡のある料亭の改築工事の折に、天文・永禄などの年号のある一石五輪塔が発見され、現在、福徳寺境内に集めて祀られている。
東郭の 侍町・足軽町は、それぞれに低い切岸で区切られていたが、城域全体が市街化してしまって、遺構はほとんど残っていない。
『日本城郭大系』13より引用
所感
●夜に行ったため詳しくは確認できなかったが、比高はそこまで高くなく、当時どのような城だったのか不明。
●このような城でも信長の攻撃にしばらく耐えた。
●このような城こそ、推定復元図などがあれば嬉しい。
関連URL
荒木村重に縁のある城。
参考URL
散策とグルメの記録 花隈城跡(花隈公園) on 2014-1-29
参考文献
『日本城郭大系』13