城データ
城名:地蔵堂山城
別名:地蔵堂山古城跡
標高:56m
比高:42m
築城年:不明 戦国時代か
城主:久村玄番允
場所:広島県広島市安佐北区落合3丁目
北緯:東経:34.476798/132.509966
攻城記
現在は団地になっている。
段差があることが、この場所が山であったことを示す。
遺構ではないが、城があった場所は山であり、急峻だったことが僅かに分かる。
団地を整地するときに階段状にしたため、僅かに城だった部分の土が残っている。
団地造成に伴い、旧状はとどめていないが雰囲気は伝わる。
太田川の向こうには敵対していた香川氏の八木城がある。
来たに目を向けると恵下山城がある。
位置関係
open-hinataより【地蔵堂山城】
余湖図【在りし日の地蔵堂山城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【地蔵堂山城】
比較
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
1960年代航空写真
現在
城の概要
本城跡は、高陽ニュータウン建設に伴って発掘調査が実地されている。
城跡の北側には、諸木川が流れて太田川に合流しており、恵下山城跡とはこの川を隔てて対峙している。
また、太田川の対岸には八木城跡がある。
郭の構成は、1郭から大手に当たる北西方向に郭5、南西方向に郭2、南東及び北東方向にそれぞれ郭1と、合計10の郭を配置し、城域の長さは、370mにも及んでいる。
なお、城跡の先端の低地には、「土居」という地名が残っている。
発掘調査の結果、1郭の北西に接する堀切から土橋の機能を持つ遺構とそれに付属する木橋の存在を示す柱穴群が発見されている。
また、遺物は陶磁器・土師質土器・鉄釘などが出土している。
城主については、久村玄蕃允と伝えられている。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
地蔵堂山城跡
標高約56mの丘陵上に位置して,本丸に相当する第1郭を高所に配置して階段式に郭を配置している。
本丸の南に小郭があり,この郭と第1郭の下に帯郭がめぐり,二の丸に相当する郭には土橋の機能をもつ遺構がある。
三の丸に相当する郭の西には馬蹄状を呈する登り口の施設があり,この先端にさらに郭を設けている。
出土造物には備前焼,瀬戸焼,土師質土器,中国製白磁及び青磁,土錘,鉄釘などがある。
時期は戦国時代で,城主の久村玄番允繁安は天文15年(1546)に太田川対岸の八木城主香川光景と争って敗れた。
『横山城発掘調査報告書』より
『芸藩通志』では「地蔵堂山 土居山 會下山 並に玖村にあり地蔵堂山は 久村玄蕃允 所居 天文中 落城」と記載されている。
城の歴史
詳細は不明であるが、城主の久村玄番允については伝承がある。
「城主久村玄蕃殿申伝候、何代相続哉ノ義相知不申候、天文ノ頃八木村香川殿ニ戦負当時退転ノ由申伝候共、委敷義相知不申候」とある。「郡中国郡志」
永正14年(1517):有田合戦に久村氏も武田方として出陣している「新裁軍記」
大永7年(1527):7月30日に大内義興が久村にて合戦「高陽町史」
天文15年(1546):正月、大内氏に帰順して久村を安堵されていた城主久村玄蕃允繁安が香川光景の攻撃に失敗し、備後へ遁走。「陰徳太平記」
天文20年(1551):香川光景に殺される「陰徳太平記」
所感
●高陽ニュータウンの団地造成により城跡は全く無くなっている。
●しかし、城があった場所の山が全て更地になった訳ではなく、一部山の部分が残っている。
●城の面影はないが、山の段差などは確認できる、また、対面の八木城も確認できて、当時の香川氏との緊張関係も体感できる。
関連URL
参考URL
参考文献
『高陽町史』
『新裁軍記』
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2024/02/03