城データ

城名:尾首城

別名:無し

標高:60m

比高:50m

築城年:不明

城主:武田氏の出城か

場所:広島県広島市安佐南区祇園

北緯:東経:34.451794/132.459448

尾首城の跡地はここ

 

攻城記

現在は祇園北高校となっている場所が尾首城の跡地。

 

武田山登山口から散策してみる。

 

溝もあり、堀のような役目をしていたか?

 

側面を確認すると急な斜面で攻めにくい。

当時を推測できる僅かな部分。

50~60年位前までは郊外地で畑をしていたと思われる。

現在は高校として削平地になってしまった。

武田山につながっている。

かなり削平地にしたものだと考えられる。

 

龍原と呼ばれたこの地に昔からあった石で、この上に何度も舞い降りる二羽の鶴を見て、武田義信が霊験のある場所だと考え、ここに12の寺院(龍原十二坊)を建てました。

 

中核となる仏護寺は、現在広島別院として寺町(中区)にあります。

 

左の住居の部分も曲輪跡だと思われる。

前方の山が武田山。

 

五輪塔があった。

往時は広大に広がる田園地帯だったと思われる。

 

近くまでは海であったとも。

 

1960年代当時の尾首城。

1970年代の尾首城。

尾首日吉神社

 

村社 尾首日吉神社御由緒

 

この神社は、正応2年(1289)安芸の守護 武田信宗が銀山城を築城するとき、江州(現在の滋賀県)坂本の日吉神社を勧請し、山麓の龍原山に武田氏一門の守護神としてお祭りしたのが始まりである。

 

祭神には、「大山咋神」「大己貴神」を祭り、相殿に「猿田彦神」「宇迦御魂神」が祭られている。

 

銀山城落城後は、衰微の一途をたどったがその後、里人は社を現在地に移し、この里の氏神として祭ってきた。

 

看板より。

 

位置関係

 

縄張図・地形図

「尾首城跡発掘調査報告」より引用。

 

open-hinataより【尾首城】

 

余湖図【尾首城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

 

城の概要

祇園北高校建設に伴い、発掘調査が実施されている。

 

本城跡は、武田山(標高410m)から東へ延びる丘陵先端に位置する。

 

最高所の1郭から東へ三つ、1郭南下に一つ、計五つの郭と1郭背部の堀切からなある。

 

郭の造成に当たって部分的に二~三段積の石垣を築き、盛土の流出を防いでいる。

 

竪堀、柵列等の防護施設は見られず、常時の使用を示す遺物も出土していないので、銀山城の出城的性格が指摘できる。

 

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用

 

尾首城跡は,文献がなく,文献からの検討はできなかったが,銀山城跡のある武田山東山麓に位置し,また独立した山域としては規模も小さく,立地条件もよくないことなどから,銀山城の支城の一つと考えられているものである。

 

遺構は,武田山から東にのびる支尾根を利用したものである。

 

背後は堀切で画し、その前面(東側)尾根上に4段の郭を階段状に,そして南側に3段の郭を帯郭状にならべただけの単純な網張をなしている。

 

それぞれの郭は切・盛土により造成され,盛土だけでは弱い個所には部分的にではあるが石垣もみられる。

 

郭の構成は,頂部の1郭が最大で先端部にある4郭がこれに次ぐことから,これらが中心をなすものと考えられるが,4郭の前面は水田となってゆるやかに下っており,前面の防禦はないに等しい。

 

また1郭についても背後の堀切に面する位置に通常みられる土塁,柵等の施設はなく,周囲に縦堀等の防禦施設もないことから,全体的に防禦・戦闘機能は極めて弱い城といらことができよう。

 

また出土遺物については,1郭で少量の土師質土器が発見されているが,山城で通常みられる陶磁器類は皆無であり,ここで常駐あるいは長期間の滞在はなかったことが考えられる。

 

以上を総合すると,この城は,兵時における独立した山城と考えるより,調査前からいわれていたとおり銀山城直下にあって大手道周辺を見張り,守るための出城的性格の強い城であったことが推定される。

 

「尾首城跡発掘調査報告」より引用。

 

城の歴史

文献で出てこないの詳細不明、銀山城の歴史から紐解くと。

 

承久3年(1221):承久の乱の恩賞として武田信光が安芸国佐東郡を得る、この頃守護所をこの辺りに建てた。

 

正応2年(1289):武田信宗が銀山城を築城するとき、江州(現在の滋賀県)坂本の日吉神社を勧請し、山麓の龍原山に武田氏一門の守護神としてお祭りした。

 

正安元年(1299):桜尾城主平員家の攻撃を受け、佐東銀山城は落城するとあるので、この所も何かしら関わったかもしれない。

 

長禄元年(1457):大内教弘が銀山城を攻める、尾首城も関わった可能性も否定できない。

 

大永4年(1524):大内義興による銀山城攻略、出城として機能した可能性もある。

 

享禄元年(1528):大内義興が再度出兵して銀山城を包するが、義興の病により城を落とせずに帰国。

 

天文10年(1541):毛利元就が銀山城を攻め落城させた、この戦でも出城として機能していたのではないか。

 

この頃廃城とされたと思われる。

 

城主家系図

 

所感

●昭和58年(1983)に祇園北高校が創立した為消滅した城

 

●以前は畑があったと思われるが、高校の敷地からして出城としては広かったと思われる。

 

●銀山城の出城としての機能を有しており、危機があった時に立て籠った城の可能性がある。

 

関連URL

【広島県】銀山城【広島市安佐南区祇園町】

【広島県】南御所跡【広島市安佐南区祇園4丁目】

【広島県】尾越城【広島市安佐南区相田】

 

参考URL

武田山の歴史を知る -武田氏ゆかりの史跡-

尾首城跡発掘調査報告

ひろしま昔探検ネット(尾首城)

 

参考文献

『日本城郭大系』13

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』

『広島県の地名』

『広島県地名大辞典』

『広島の中世城館を歩く』

『萩藩諸家系譜』

『毛利八箇国御時代分限帳』

『萩藩閥閲録』

公開日2023/02/18

 

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