城データ
城名:長楽寺跡(城ではない)
別名:無し
標高:56m
比高:10m
築城年:905年に寺は開基、1283年に武田氏が祈願所として定める。
城主:城主ではないが大檀那は武田氏だと思われる。
場所:広島県広島市安佐南区長楽寺
北緯:東経:34.472133/132.429853
※C. フォーマット「度(DD)」の場合を参照。
攻城記
福寿山長楽寺
長楽寺観音堂線起
福寿山不動院長楽寺観世音菩薩不動明主はその安座は今をさかのぼる壱千六十五年(日本歴史の平安時代)人皇六拾代醍醐天皇の御宇延喜5年橘師公を勅使として、この地を賜り大納言祐納の弟覚園阿舎梨法師、紀州高野山に於て得度し、 密宗の法城としてこの地に長楽寺を創建したのに始まる。
本尊観世音菩薩のご真像は弘法大師の作である。
弘安六癸未年六月四日武田大善大夫信隆、佐東、佐西、安南、安北四郡の領主となり金山に築城の際寺領二十四貫文を寄せられ祈願所と定め駐屯武士を配し、金山城北部の警備と民心の収攬に努めその威信益々高かりしが、武田光和に至り武運振るわず終いに毛利元就の領地となり、その支配下に移るに至った。
而して毛利氏は長楽寺の所領として米弐百石を寺禄とし祈願の聖地と定め信仰特に篤く世々 近郷は勿論遠く関西方面からの信仰も群をなしその信仰厚く隆昌を極めたりしが、慶長5年徳川家康が江戸に開幕するに当り安芸国を領していた毛利輝元は、長州に移遷し翌慶長6年、福島正則、当国を領するに及んで長楽寺所領の寺禄弐百石を没収した。
以来漸次衰頽に傾き二王門は二王尊と共に厳島に移譲し七堂伽藍は維持困難となり遂に廃寺の運命を辿るに至った。
しかし観音堂内に鎮座のご本尊観世音菩薩により保存維持せられ開基以来33年目毎にお開扉禮の典禮を現在迄継続し広く世人の信仰の的としている。
昭和四十四年記
鎮守社もあり神仏習合の名残が分かる。
長楽寺の鐘。
紋章は輪宝らしいです。
寺の跡とあって墓もある。
五輪塔の残欠が残っている。
一段下がった削平地もあり。
この石垣はいつの頃のものなのだろうか?
川があるが、こちらからは登ってこれないと思われる。
見上げる。
前方の城が銀山城。
位置関係
『芸藩通志』【長楽寺村】
土地の変遷
1970年代から宅地化が進み山が造成、またアストラムラインができて山も分断される。
現在の地形から想像すると勘違いを起こす。
寺の歴史
延喜5年(905):この年に創建される。
弘安6年(1283):武田信隆が、佐東・佐西・安南・安北・4郡の領主となり、金山に築城の際、寺領24貫文を寄せられ、祈願所と定め、 駐屯武士を配し、金山城北部の警備と民心の収覧に努める。
城ではないが、駐屯所としての機能があったものと考えられる。
天文10年(1541):武田氏滅亡し毛利氏の所領となる、毛利氏は長楽寺の所領として米200石を寺禄とする。
慶長5年(1600):関ケ原で毛利氏が破れ福島正則が入部、長楽寺の寺禄である200石を没収し、以降衰微していく。
城主家系図
武田信隆は信光の庶流にあたる人物だと想像できる。泰継の時に積極的に行動していたことが分かっている。
寺禄
武田時代:24貫文
毛利時代:200石
所感
●寺跡だったが、看板に武田の兵の駐屯所という記載があったので確認の為に行ってみる。
●銀山城の北の守りとして駐屯していたとしても数名だと思われるが寺の武士か。
●寺は七堂伽藍あったというので、最盛期には絢爛豪華な寺が建っていたものと考えらえる。
●鎌倉、室町時代は山陽道がこの付近を通っており、寺に寄るものも多かったのではないか、そうなると、通行人を監視する為の関所のような意味もあったかもしれない。
●今の地形は戦後のもので、山を崩して道をつけているが当時は尾根の一番先端部分にあった寺であった。
関連URL
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2023/01/09