城データ
城名:南御所跡
別名:無し
標高:20m
比高:10m
築城年:不明だが承久3年(1221)に武田氏が下向して銀山の麓に守護所を建てたとある。
城主:武田氏
場所:広島県広島市安佐南区祇園4丁目
北緯:東経:34.442333/132.456339
※C. フォーマット「度(DD)」の場合を参照。
攻城記
比高は高くは無いが急峻。
周辺を散策してみる。
削平地があるがこれは後世の加工か。
城の麓には大きな石灯篭がある。
大歳神社の扁額。
山頂には歓喜寺がある。
歓喜寺の鐘。
大歳神社。
広い削平地に神社とお寺が一緒にある、神仏習合時代の名残だと思われる。
石塔とも墓石とも分からないがきちんとされている。
この上が山頂部分で本丸に該当すると思われる。
麓を臨む。
急峻であり御所でも防禦機能は高かったと思われる。
目の前の山が安芸武田氏の居城である銀山城。
位置関係
余湖図【南御所跡】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』
土居とあり、この辺が推定居館跡だと考えられる。
城の航空写真、明治時代の地形図
今は団地が出来て面影がないが、明治時代の地形図を確認すると、銀山城の南麓の先端に出城があったことが分かる。
城の概要
本城跡は、武田山(標高 410m)から南東に延びる丘陵先端部に位置するが、現況は、周辺の宅地化により、独立した小丘陵のようになっている。
郭は、丘陵北半が神社境内地によって削平されているため、南半分しか残っていないことから全容を把握することはできないが、現状での最高所に1郭をおき、北東へ延びる主尾根上に二つ、南側斜面に一つを確認できる。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
南御所 金龍山 大内氏より武田氏を攻めたる時、南御所には、陶陣取、金龍山には、毛利元就出張ありたるよし、房顕記に見ゆれど、今其他を知らず。
「芸藩通志巻48」より引用
武田在城当時は、この境内にあるところに出城があり米庫があったので、明治の末頃まで焼米が掘り出されたという。
「祇園町誌」より引用。
<感神院/歓喜寺>
感神院は現在歓喜寺と改名されている。
感神院は元慶8年 僧 宥尊 が、南下安松尾山(通称寺の堂=てらんどう) に開基し、松尾山徳達寺 と号していた。
天正11年(1583年)松尾山から現在の 安神社(当時は祇園社と呼ばれていた) 境内に移され 祇園社感神院 と称し、神仏習合の寺社であり、感神院住職が明治維新直前まで、祇園社宮司をも兼執してきた。
不動院、明星院 等とは特に係わり合いも深く、特に、不動院十代住職 宜命、十一代 増繁 等は感神院住職から転任している。
明治維新時に、祇園社は安神社と改称され、一方の感神院は神仏分離令に伴い廃寺の恐れもあったが、明治4年に今の場所に移され、寺名も 瑞城山 歓喜寺 に改められて存続している。
移設後は 真言宗の僧 常誓 が任に当たったが、引退後以降は地元の信徒たちが管理をしている。
近くの墓地にはもとの感神院墓地から移された高位高僧の住職の墓十数基や、武田氏に係わりのある武士たちの五輪塔墓が多数ある。
(参考:歓喜寺総代資料、祇園公民館30年記念誌)
城の歴史
承久3年(1221):承久の乱の恩賞として武田信光が安芸国佐東郡を得る、この頃守護所をこの辺りに建てた。
正安元年(1299):桜尾城主平員家の攻撃を受け、佐東銀山城は落城するとあるので、この南御所も何かしら関わったものと考えられる。
大永4年(1524):大内義興による銀山城攻略、焼米が出たという戦はこの戦ではないか。
享禄元年(1528):大内義興が再度出兵して銀山城を包するが、義興の病により城を落とせずに帰国。
天文10年(1541):毛利元就が銀山城を攻め落城させた、この戦でも出城として機能していたのではないか。
この頃廃城とされたと思われる。
所感
●現在は住宅地となっており、面影が無いが、南側から山を臨むと比高もあり出城の雰囲気がある。
●神社の境内になっているが、当時はこのような削平地はなく曲輪も存在していたと考えられる。
●武田氏が最初に下向して館を構えたのはこの辺りではないか?
関連URL
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2023/01/09