城データ
城名:丹下城
別名:無し
標高:470m
比高:90m
築城年:不明 正和年間(1312~17)の城主は斉藤美作守景宗であった為この頃には築城されていたか。
城主:斉藤美作守景宗、長谷部氏
場所:広島県府中市上下町上下
北緯:東経:34.689362/133.126401
攻城記
丹下城全景。
入り口探すも見つからず。
このような木々があり断念。
位置関係
善昌寺
丹下城城主の斉藤景宗が大檀那となり開基。
その後長谷部元信が外護者となる。
曹洞宗 護国山善昌寺
本尊 千手観世音菩薩(伝 安阿弥正作)
開山 (臨済開山始祖)佛心慧燈国師辨翁智訥禅師(ぶっしんえとうこくしべんのうちとつぜんし)
(曹洞開山)関叟梵機大和尚(かんそうはんきだいおしょう)
(曹洞法地開山)雪嶺梵積大和尚(せつれいぼんせきだいおしょう)
開基 丹下城主(たんがのじょうしゅ) 斉藤美作守入道藤原朝臣景宗公
中興開基 翁山城主 長谷部加賀守元信公
(略縁起)
護国山善昌寺は、後醍醐天皇の御代、鎌倉幕府の地頭職として当地に下向された丹下城主斉藤美作守入道藤原朝臣景宗公が開基大檀那となり、臨済宗法燈派の佛心慧燈国師辨翁智訥禅師を請し、正中2年(1325)、10年の歳月を費やして創建された。
辨翁智訥禅師は、後に後村上天皇の帝師となられ、国師号を授けられるなど比類稀な傑僧であったが、南北朝時代が南朝方の滅亡で終わると共に禅師の名声も歴史より抹殺されてしまった。
創建百有余年後、外護者を失い衰微していた当寺を備中国西江原(岡山県井原市)、法泉寺関叟梵機大和尚が慨き、長禄2年(1458)、曹洞宗に改めて再興。
その後、教俊和尚が、足利幕府地頭職翁山城主長谷部加賀守元信公の絶大な外護によって34年の歳月をかけ諸堂伽藍を再興し、法地開山雪嶺梵積大和尚を経て現在に至っている。
下町指定重要文化財(昭和40年9月10日指定)
坐禅堂 善昌寺創建当時の建物で現存する唯一のもの。
鴬張り廊下 永禄3年(1560)本堂の再建にあたり、京都より名工を招いて造らせたと伝えられ、今なお妙音を響かせている。
open-hinataより【丹下城】
余湖図【丹下城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
山頂部の郭群と,その南西下の堀切によって独立した郭群から成る。
山頂郭群は最高所の1郭とその西・北・東に取り付く小郭から成る。
1郭は25m×70mと大規模である。南西郭群は4段の主たる郭から成る。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
城の歴史
正和年間(1312~17):この頃斉藤美作守景宗が城主であった。
天文年間(1532~55):この頃には長谷部氏が城主となっていたが、『西備名区』の記載では、長谷部飛騨守元政がこの頃に翁山城を築 いたとあり、丹下城から移ったと思われる。
城主家系図
伝承家系図の為、一部誤っているところもあると考えられる。
家系図は実際は種連・・・隆信・・・信忠・・・春勝ではないか?
信忠だけだと1世代おかしい種連1463年生まれ、春勝1565年生まれで100年差がある為最低2世代は必要。
また隆信の三代後の頼勝が1640年代に毛利就頼に知行をもらい、長家は山口県熊毛郡平生町に居住し始めたと家伝は伝える。
推定家系図
城主(一族)石高
長 六左衛門 515.514石
長 美作 559.769石
長 善右衛門 452.660石
長 源蔵 11.000石
長 万槌 10.010石
所感
●山頂の登り口が無く断念、じっくり探して直登すれば何とかなったかもしれないが、時間が無く周辺の散策で終わる。
●縄張り図から見れば翁山城よりも技巧的には優れていると感じる。
●斉藤氏が最初に築城していたが、後に長谷部氏が地頭として入部して長年かけて改修したのではないか?
●城名は(たんげ)(たんが)ともいうらしい。
関連URL
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/09/04