城データ

城名:翁山城

別名:護国山城

標高:538m

比高:140m

築城年:戦国時代

城主:長谷部飛騨守元政 長谷部大蔵左衛門元信

場所:広島県府中市上下町上下

北緯:東経:34.692911/133.126966

翁城はここ

 

攻城記

翁山城全景。

 

府中市指定史跡「翁山城址(護国山城址)」
      町指定 平成8年9月20日
所在/上下町字上下

「平家物語」の「信連合戦」に記されている高倉殿に仕えていた長谷部信連の流れをくむといわれる城主長谷部氏は、南北朝争乱の時北朝方に属し、南朝方有福城竹内氏との戦をはじめ数々の戦に参加して戦功をたてたので、暦応3年(1340)上下の地頭に任ぜられ、前地頭斉藤氏の後、丹下城を賜り根拠地としていた。

 

その後戦国時代に至り、長谷部大蔵左衛門尉元信により領域は拡大され、居城もこの地に移されたものである。

 

山は傾斜急峻で比高160m余り20くらいの郭を配し、要所は石垣を築く等、全山を城郭化している堅固な山城であった。

 

関ヶ原合戦の後毛利氏の萩移転に伴い、長谷部氏も主流は萩へ移住し、当城は廃城となったといわれる。

 

平成15年3月  府中市教育委員会

 

眼下を臨む。

本丸。

八紘一宇の石碑。

この部分も曲輪跡か。

本丸先端から1段降りた場所。

石垣がある。

矢竹があるが、この部分も削平地となっている。

本丸側面の石垣。

若干残っている。

車で降りて帰る途中の道の側面にこのような石垣の様な感じのものを発見。

曲輪とは全く関係ないところなので石垣かどうかは不明。

仮にこれが石垣であったら、城域は広大になると思われる。

 

善昌寺

 

丹下城城主の斉藤景宗が大檀那となり開基。

その後長谷部元信が外護者となる。

 

曹洞宗 護国山善昌寺

本尊    千手観世音菩薩(伝 安阿弥正作)

開山    (臨済開山始祖)佛心慧燈国師辨翁智訥禅師(ぶっしんえとうこくしべんのうちとつぜんし)
      (曹洞開山)関叟梵機大和尚(かんそうはんきだいおしょう)
      (曹洞法地開山)雪嶺梵積大和尚(せつれいぼんせきだいおしょう)

開基    丹下城主(たんがのじょうしゅ) 斉藤美作守入道藤原朝臣景宗公

中興開基 翁山城主 長谷部加賀守元信公

 

(略縁起)
護国山善昌寺は、後醍醐天皇の御代、鎌倉幕府の地頭職として当地に下向された丹下城主斉藤美作守入道藤原朝臣景宗公が開基大檀那となり、臨済宗法燈派の佛心慧燈国師辨翁智訥禅師を請し、正中2年(1325)、10年の歳月を費やして創建された。


辨翁智訥禅師は、後に後村上天皇の帝師となられ、国師号を授けられるなど比類稀な傑僧であったが、南北朝時代が南朝方の滅亡で終わると共に禅師の名声も歴史より抹殺されてしまった。

 

創建百有余年後、外護者を失い衰微していた当寺を備中国西江原(岡山県井原市)、法泉寺関叟梵機大和尚が慨き、長禄2年(1458)、曹洞宗に改めて再興。

 

その後、教俊和尚が、足利幕府地頭職翁山城主長谷部加賀守元信公の絶大な外護によって34年の歳月をかけ諸堂伽藍を再興し、法地開山雪嶺梵積大和尚を経て現在に至っている。

 

 

下町指定重要文化財(昭和40年9月10日指定)


坐禅堂   善昌寺創建当時の建物で現存する唯一のもの。


鴬張り廊下 永禄3年(1560)本堂の再建にあたり、京都より名工を招いて造らせたと伝えられ、今なお妙音を響かせている。

 

1325年に建立された座禅堂。

 

位置関係

 

open-hinataより【翁城】

 

余湖図【翁山城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

山頂部と南東側の鞍部に向けてと,北西側尾根先端部に郭群がある。前二者はテレビ塔とその取付道路のため破壊されている。

 

北西側の郭群は4段から成り,中ほどの郭には1辺5m,高さ1mの櫓台状の遺構がある。

 

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用

 

翁山城

翁山城は、上下町の町並みの東南に位置する長谷部氏の本城である。

 

この山 の周囲は急峻で、背後の山より一段と高く、いわゆる男山の立地をとる城で山頂部だけに郭を設けている。

 

この城の眼下を西に流れる上下川流域は、備後中部の要地で、支谷の谷水田が奥深く入り、翁山城から南へは矢田川に沿って備後国府のある府中に至る。

 

城主の長谷部氏は、三条官侍で、のちに鎌倉幕府の御家人となった長谷部信連を祖としている。

 

信連は平家追討に土肥実平と共に西行し、その功績により幕府から矢野荘を与えられ、翁山城を築いたといわれる(西備名区』)。

 

また、 『芸藩通志』には、信連の子良連が承久三年(一二二一)に当地に来て、およそ 十二代を経て元信の代に毛利氏に従ったとしている。

 

南北朝時代の長谷部氏は北朝方として活躍し、建武三年(延元元、一三三六)、 長谷部信仲は、南朝方の世羅郡重永城を攻撃している(『山内首藤家文書』)。

 

応仁・文明(一四六七―八七)の頃には、備後国の守護である山名氏に従い、 そののちは尼子氏に従っていたが、元政・元信の代になると、吉田郡山城の毛利元就に従った。

 

元信は、天文二十三年(一五五四)、毛利氏の防長攻略にともなう佐伯郡廿日市町の折敷畑の合戦で活躍しており、弘治三年(一五五七)の毛利氏の親類・年寄・家人による連署起請文案には、元信のほか一族の里資の名がみられる。

 

その後、毛利輝元は、天正十九年(一五九一)に郡山城から広島城に移り、慶長五年(一六〇〇)には防長移封となったため、翁山城も廃城となった。

 

翁山城の郭の構成は山頂を本丸として、東・西 側に各二段の郭を設けており、比較的単純な配置 である。

 

本丸は、七四m×一六mの規模で、西半分が若干高くなる。

 

この本丸の東側は一段下って小郭を設け、その下には、通路で連絡して石垣による鋤形の郭を設けている。

 

本丸の西側は一段下って小郭を設けている。この下は、現在、道路となって いるが、小郭を設けていたようである。

 

この城の築城については、『西備名区』に、長谷部飛騨守元政が天文年間(一五三二~五五)に築 いたとの記載があり、石垣を使用していることか らも戦国時代的な感じが強い。

 

しかし反面、立地 は南北朝時代に築かれた城に類似し、いわゆる男山と呼ばれる独立丘陵の山頂部に郭を設けており、 郭の配置も戦国時代のものとは若干趣を異にしている。

 

『日本城郭大系』13より引用。

 

城の歴史

承久3年(1221):長谷部信連の子である良連が当地に来住する『芸藩通志』

 

建武3年(1336):北朝方として長谷部信仲が南朝方の世羅郡重永城を攻撃『山内首藤家文書』

 

応仁・文明(1467~87):備後国の守護である山名氏に従い、 そののちは尼子氏に従う。

 

天文年間(1532~55):元政・元信の代になると、吉田郡山城の毛利元就に従う。

この頃翁山城を築く。『西備名区』

 

弘治三年(1557)毛利氏の親類・年寄・家人による連署起請文案には、元信のほか一族の里資の名がみられる。

毛利家文書225

 

慶長5年(1600):関ケ原の戦いにて毛利輝元が長州に移封し長谷部氏も移封し廃城となる。

 

城主家系図

 

伝承家系図の為、一部誤っているところもあると考えられる。

 

家系図は実際は種連・・・隆信・・・信忠・・・春勝ではないか?

 

信忠だけだと1世代おかしい種連1463年生まれ、春勝1565年生まれで100年差がある為最低2世代は必要。

 

また隆信の三代後の頼勝が1640年代に毛利就頼に知行をもらい、長家は山口県熊毛郡平生町に居住し始めたと家伝は伝える。

推定家系図

 

城主(一族)石高

長 六左衛門 515.514石

長 美作   559.769石

長 善右衛門 452.660石

長 源蔵   11.000石

長 万槌   10.010石

 

所感

●城自体は曲輪の数も少なく単郭に近い、どちらかというと古い時代の城の雰囲気を感じる。

 

●一部石垣もあり戦国時代に改修した部分があると考えられる。

 

●南の丹下城からこちらに移動したとあるが、城の造りでは丹下城のほうが戦国時代の城っぽい。

 

関連URL

【広島県】国留城【府中市上下町国留】

 

参考URL

城郭放浪記(備後翁山城)

西国の山城(翁山城)

 

参考文献

『日本城郭大系』13

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』

『広島県の地名』

『広島県地名大辞典』

『広島の中世城館を歩く』

『萩藩諸家系譜』

『毛利八箇国御時代分限帳』

『萩藩閥閲録』

公開日2022/09/04

 

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