中世近世の甲奴郡と秋山氏
広島県三次市甲奴町太郎丸は中世には足利一族の内紛であった観応の擾乱頃に秋山氏が城主となり以後戦国時代まで小領主としてこの地を治めていたことが分かっている。
近世になると、大庄屋として地元の領民を慰撫しつつ幕末を迎えた。
秋山氏がいつ土着したかは不明であるが遅くとも14世紀前半までにはこの地域に土着した可能性がある。
戦国時代この地域は地元の小領主がひしめき合っており、その中の地侍にあたる、領地経営者だと思われ、戦があれば都度参加するような感じであったのではないかと推測する。
太郎丸の北には稲草の田総氏がおり、その客分として活躍した伝承もある。
現在甲奴郡を中心に秋山氏が多くおり、広島県の秋山氏の発祥の地としても違和感がない位多くの一族を長い歴史の中で繁茂させていった。
ここに、文献等や周りの状況から秋山氏の行動を詳細に確認して、戦国時代に秋山氏がどのように発展していったかを調査してみたいと思う。
まずは、秋山氏の調査と共に、城郭や神社仏閣なども含めて考察してみたいと思う。
第1章 中世近世の甲奴郡
第1節 芸藩通志における「甲奴郡」
中世甲奴郡に関しては文献も少なく詳しくは分かっていない。江戸時代の地誌である『現藩通志』に若干の記載があるため引用する。
甲奴郡は元明天皇の御字より置かれしと見ゆ。
按に、続日本紀に 和銅二年冬十月庚寅、備後国葦田郡甲努村、相去郡家山谷阻遠、百姓往還領費太多、仍割品遅郡三里隷芦田郡甲努村とあり、異本に末 の甲努村の上に建部於の三字あり、類聚三代格、三代実録並に甲努に作り(同式は甲怒の字を用う)倭名抄に甲奴に作り、加不乃と訓ぜりされば今もがふのというべし、奴は古は野の訓に用う、三次郡布努を布野と読む類なり、甲努の名考うべからず、神野、河野などの義にてもあらんか。
今の藩府広島の東、廿一里にありで、全郡は他領入交りて、藩の所管は広一里余、東は稲草村割岩より、西は木屋村枯木に至る、袤五里、南は矢野村伊尾村越えより、北は稲木村一の渡に至る、五里の内にも、又他領二里許も入交れり、管内、四隣東は郡内にて公邑また中津領の村なり、南より西は世羅郡西は三谷郡、北は三上郡なり、 稲草村を郡本とす。
当郡の形勢、他領に係わるものは、姑く舎き、当領の地方を見るに形瓢のごとくにして四境山多く平地を以界する所甚だ少し、就中稲草、木屋村村境の一山は尤も高くして郡の望山ともいうべく、名を高山とよぶ。
水は田総(房)本郷、小童、三川の外にもありて矢野村を除き余は灌漑に困まらず多く水利を得たり。
当郡の気候、海辺に比すれば、寒多しといへども小郡極僻の類にあらず、大むね、順気を得、民俗、神を崇び、仏を喜ばず、産業 県、製紙、造席、縫笠、又戸障子を造るの類あれど、皆農余浮得にて、別に専業の産はあらず。
『芸藩通志 甲奴郡』より
また、太郎丸についても以下の記載がある。
太郎丸
太郎丸は現在の部落名で云うと太郎丸郷、敷尾、宇根部落である。 戦国時代の昔は尼子氏の領地で、田総の稲草小平山城々主永井氏の支配下であったようである。
当時の太郎丸古屋城々主は、秋山伯耆守で、この人物は高遠な理想家で今の高田郡出身者である城主秋山伯耆守は毛利元就に心服して尼子氏攻めの四天王の一人として武勇をたて、毛利氏を勝利に導き元就より恩賞を受けた武将で後裔は初代上川村長の秋山一内氏である。
その后、慶長年間に毛利輝元より、尾張の国、清洲城々主、福島正則の領地に変わり、元和五年七月水野藩をへて、享保二年一一月十一日中津藩奥平領となって明治維新まで続いた。
明治五年一月より戸長制となり秋山一内氏が太郎丸村の戸長となる。
次いで明治十六年戸長秋山一内氏が初代村長となる。村長の自宅を太郎丸村外四ヶ村組合役場として村政を司る。
明治二十六年に従前の往還道路を新しく現在の上市〜 甲山線(県道)を建設す。
「村を興すは此れ道を以て一となす」と村民全戸の奉仕により岩肌を石ノミひとつで完成されたと聴く。現今の交通の便利の良いのは、この時代に築かれたもので、太郎丸の歴史上特筆すべき事 ある。今も当時の難工事の苦労と石ノミの跡をしのばせる道路である。
昭和三十年三月の分村合併まで太郎丸は上川村役場所在地として村政の中心地として発展した処である。
『甲奴郡郷土史 第二集 上川地区編』より引用。
第2節 平安末期~戦国時代の甲奴郡
元暦元年(1184)には源頼朝が,梶原景時・土肥実平を,播磨・美作・備前・備中・備後の 5 か国の守護とする〔(県)吾妻鏡〕。
上記のように土肥実平が備後国の守護となる。
元応元年(1319)には宮正盛(備後三郎)が備後国甲奴郡佐倉村(現在の広島県府中市上下町佐倉)地頭として任地に赴いたと云われる。
このように備後国大きく勢力拡大しており隣の神石郡にも宮豊松氏、宮高光氏、宮高尾氏などがおり甲奴郡にも勢力を拡大していてもおかしくはない。
また、総領町稲草を本拠として田総氏もこの地域を支配しており、稲草から南下して甲奴町方面に勢力拡大を目指した可能性もある。
文献に出てくる初見は観応年間(1350年頃)の秋山五郎入道和時であり、遅くとも14世紀前半には甲奴郡太郎丸には勢力を扶植していたと思われる。
甲奴郡は江戸時代初期には福島正則の領地であったが、元和5年(1619)に転封すると浅野氏と水野氏に分かれ、最終的には広島藩、中津藩、倉敷支配(天領)の3つに分かれる。
福島氏の転封直後の甲奴郡の村数は27村あったが、後に領家村が4村に分かれて、矢多田村から佐倉村が分かれて32村になる。
稲草村は田総が支配していたが、客分として秋山氏がおり、また川平山城の一角を任されていたと云われている。また、川平山城の西にある、意賀美神社の宮司は秋山氏であり、太郎丸の秋山氏とも関係があったと思われる。
太郎丸村には古くから秋山氏がおり、戦国時代終わりまで地侍として領地経営をしていたのではないか?
また近隣の亀谷村にも秋山氏が城主をしていたとう伝承がある。
他にも井永村に太郎丸の秋山氏から分かれた一族がいる。
太郎丸、双三郡吉舍町上安田
西流する田総川と、同じく西流して上下川に入る抜湯川とに挟まれた山地を村域とし、北は稲草村(現総領町)、 南は抜湯村。東には稲草村の飛地敷尾がある。
中世には田総庄に含まれていたと思われ、下地中分の際には地頭領となったといわれる。
戦国時代は稲草川平山城城主永井氏の支配下にあったともいうが詳細は不明。
元禄一一年(一六九八)福山藩領より幕府領となり、享保二年(一七一七)以降豊前中津領。元和五年(一六一九)の備後国知行帳に村名がみえ、二二五・六三七石。
寛政(一七八九~一八〇一)頃の中津藩明細帳(前原篤来氏蔵)によると耕地三六町八反二畝余で高二七六石余、うち田方が一九町五 反三畝余で高一八九石余、畠方一六町二反八畝余で高八七石余。
また同帳は溜池八ヵ所、井関一四ヵ所を記す。 享保二年の家数六六・人口三四七、寛政六年には六〇軒 で二八三人(旧版「広島県史」。
氏神は大歳神社で、「水野記」に「大明神古来之社領不」審、田総元秀拾壱石二斗之地寄」之、其後平作主没収之至寛永十六年一凡五 十年無領也」とあるのがそれかと思われる。
寺院はないが、屋号を「寺」という家があり、稲草村の曹洞宗龍興寺の分院であったと伝える。
城跡が二ヵ所あるが、中津瀋明細帳には「一ケ所城主秋山伊豆守と申伝候、通称古屋城」、他の一ヵ所を「段畑城《城主不明」と記す。
『広島県の地名』より引用
赤丸は中津藩領
『甲奴郡誌資料 第一集』より引用
第2節 文献に出てくる秋山氏
『甲奴郡誌資料 第一集』より引用
以上は各文献に出てくる城主である秋山氏である。
文献により若干の違いがあるが、秋山五郎入道が観応年間(1350年頃)に活躍、秋山隼人正隆信という人物が天文年間(1540年頃)に活躍、そして秋山伊豆守という人物がいたことが分かる。
稲草の秋山氏に関しては天安年間(857~859)と時代があまりにも古いが、神主として秋山氏がでてくるために、何かしらの示唆があると考えられる。
『甲奴郡郷土史誌 第二集 上川地区編』に太郎丸の秋山についての記述があるので引用する。
太郎丸城趾古屋城趾秋山家の事
秋山家は鎌倉時代安芸国秋山村地頭職として赴任爾来此の地に居住降って戦国時代に至っては朝氏左衛門尉氏永正年間をへて朝仲氏大永年間(従五位下秋山伯者守)は毛利元就の四天王として赫々たる武勲に輝き数次に亘って元就より恩賞を受け後徳川時代に及びて 北備の大庄屋として歴代地方行政を司どり明治時代に於ては十四代秋山一内は戸長並に初代村長として在職四十年に及び県道開設に又教育普及其の他幾多の業績を遺し模範村長として県知事より表彰されると共に国より叙勲を受け、
第十五代秋山栄は外科医として広島県病院並に匹田病院副院長等歴任信望厚く後郷里に迎えられて広く診療に従事したが若くして逝去
十六代秋山鳳見は大阪に於いて 山国際特許事務所を主宰し居を西宮市仁川町に移す全国弁理会長、国家試験委員等へ昭和四十五年十月工業所有権制度関係効労者として陛下より国家褒章を受けた。
秋山屋敷趾東北に隣して観音堂があり秋山家持仏堂として京都清水寺舞台を模して築造され壮麗を極めたもの有りた由今は改築され僅かに其の遺影を留めるに過ぎす道路改修等で同所の沢山の五輪石現蘭塔山墓地にうつして現在に至る。
更に秋山家旧居城の一つとして古屋城の遺跡があり城趾には秋山旧墓所の一部がある。曹洞宗竜興寺の過去帳等の記録に基き、秋山伯耆守朝仲の子孫として代々相続し引続き同伯耆守の墓所を守り仏事を営み今日に及んでいる。
秋山家のことについて調べているうちに太郎丸城に住みし秋山五郎入道和時(一三五〇年観応年中)-同伊豆守高寅-同隼人正信-伊賀守等を経て-秋山朝氏-朝仲(伯耆守)―朝忠氏等太郎丸と近在に住み永年に亘り住民を守護すると共に要職にあって支配されたことが伺われる。
また近郷近在に其の縁故者の多いことも事実である。 例えば太郎丸を中心に田総 三良坂 福山 神石 比婆 上下 本郷 有田等 に縁故者があり先祖として供養されているようである。
太郎丸蘭塔山墓地管理者 上落市供
また近隣には子孫も多く由来書を持っている家もある。
黒木家由来書(秋山氏の来歴が記載)
私先祖は甲斐源氏新羅三郎義光 孫逸見冠者清光 二男賀々美二郎遠光 嫡子秋山太郎
光朝 孫同弥三郎朝長 二男同弥五郎朝秀末葉ニ御座候処 弥五郎儀建長五年九月四日賜御教書芸州秋山村之被補地頭職候 自是秋山代々知行仕候 弥五郎四代之孫 兵部丞と申候者 建武三年四月 足利尊氏公従九州御兵路之時 尊氏公ニ随ひ所々合戦軍忠励申候 兵部丞嫡子雅楽頭と申候者応永六年冬 大内左京太夫殿属泉州堺之合戦ニ討死仕候 右雅楽頭戦死之節当歳之男子御座候 字は小太郎と申候 家臣久田文五郎介抱仕 秋山村立退小原村江致隠蟄 年月を送成長仕候処 嘉吉元年之春二月 芸州厳島之社領没収之節 社家方ニ與仕 桜尾籠城之時秋山氏改小原左衛門と名乗申候 其後康正二年再没収之節大内教弘殿ニ属 金山城責之砌痛手負疵不癒而同年八月廿拾八日朝相果申候左門儀忰男女四人持申候処 嫡子は小原源太郎と申候次男は秋山彦次郎と申候 三男小原新三郎と申候四女ニ而御座候 新三郎儀永正五年春前将軍義稙公御上洛之時 供奉人数ニ加同年八月廿四日
舟岡山合戦ニ討死仕候 其節新三郎亡女懐妊仕居申候処新三郎戦死之後同年九月廿六日於川尻村ニ男子出生仕 字源蔵と申候 成長之後高怒郡太良丸村江越 小原左衛門と改申候 其砌尼子伊予守殿備中備後安芸国ニ致入討武威被振候故 其節ニ至 左衛門儀暫伊予守殿江随ひ申候処 天文七年秋終ニ病死仕候同八年ニ至 大内殿尼子殿と被及国論ニ之刻 左衛門忰秋山隼人助と申候者 毛利殿江属数度尽忠戦申候後隼人助儀後伯耆守と申候 私儀則伯耆守末葉ニ御座候 今度御領国芸備ニ居住仕候毛利家之諸牢人由緒御尋ニ付乍恐書附差上申候以上
(慶長六年)
丑二月十六日 黒木主計
治元
御奉行中様
右は今度福嶌左衛門太夫様被遊 御入部
御尋ニ付差出扣
慶長六年辛丑二月十六日也
今度旧記御尋奉申候所前文之通甲斐源氏より秋山伯耆守江相続天文八亥年より毛利殿属弘治永禄之頃尼子晴久殿と合戦之刻数度依軍功ニ嶌忠賞再度給短刀 二男備前守朝綱 永禄七甲子九月当村川上之城ニ移 嫡子主計治元代福嶌左衛門太夫様芸備被 領之刻由緒御尋ニ付慶長六年丑二月郡御奉行様迄前文抜書奉差上候同九甲辰年■■之社職譲受 黒木部賀左衛門継跡目領家十二郷住連頭役相勤 嫡子治部太夫治信孫喜内太夫治好嫡子ニ御座候 喜内太夫儀延宝四辰六月廿七日病死仕候 同五年巳二月上京仕吉田御殿江継目之儀願出 同二月十日免許頂戴仕候御尋付乍恐抜書差上申候以上
未四月 黒木河内守
治浚
■陳
御出張所
【現代語訳】
私の先祖は甲斐源氏である新羅三郎義光の孫である逸見冠者清光の二男の加賀美二郎遠光の嫡子秋山太郎光朝の孫である、同弥三郎朝長の二男の同弥五郎朝秀の末葉です。
弥五郎は建長五年(1253)九月四日に芸州秋山村の地頭職を仰せつけられました。これにより代々知行致しました。
弥五郎の四代孫に兵部丞と申すものがおり建武三年(1336)四月に足利尊氏公が九州へ兵を率いてきた時に、尊氏公に随い所々の合戦で忠勤に励みました。
兵部丞の嫡子は雅楽頭と申します応永六年(1399)冬に大内左京太夫殿(大内義弘)泉州堺の合戦において討死をされた時に、雅楽頭も戦死してしまいました。雅楽頭が戦死した時に当歳の男子がおりました。字は小太郎と申します。
家臣の久田文五郎に介抱され、秋山村を立ち退き小原村へ隠蟄しました。
年月を経て成長したところ、嘉吉元年(1441)の春二月に芸州厳島の社領を(安芸国分国守護の武田方に)没収されることがあり、社方に仕えて桜尾城に籠城の時に秋山氏を改め小原左衛門と名乗りました。
その後康正二年(1456)再没収の時にも大内教弘に属して(武田氏が籠っている)金山城を攻めた時に痛手を負いその傷が元で同年八月二十八日に相果ました。
左衛門には忰が男女四人おり、嫡子は小原源太郎と申します、次男は秋山彦次郎と申します、三男は小原新三郎と申します。あと女性が1名います。
新三郎の事ですが永正五年(1508)春、前将軍の足利義稙公が上洛の時に仕える人数に加わり同年八月二十四日に船岡山合戦において討死しました。
(船岡山の合戦は実際には永正8年の出来事)
新三郎が亡くなった時に女が懐妊しておりまして、同年九月二十六日川尻村において男子を出生しました。字を源蔵と申しまして成長した後に甲奴郡太郎丸村へやってきました。その後、小原左衛門と改めました。
尼子伊予守(尼子経久)殿が備中、備後、安芸に討ち入り武威を示した時には左衛門は伊予殿(尼子経久)に随いました。
天文七年(1538)の秋に病にかかり病死しました。
同八年(1539)に至り大内殿と尼子殿が争っていた時に左衛門の忰で隼人助と申すものが毛利殿へ属し数度の戦で忠勤に励んだ後に隼人助を伯耆守と改めました。
私はその伯耆守の末葉です。この度(福島正則様の)御領国である芸備に居住している元毛利の家臣である牢人の由緒を尋ねられましたので恐れながら提出致します。
慶長六年(1601)二月十六日 黒木主計治元
御奉行様
右はこの度福島正則様が入部した時に差し出したもので慶長六年二月十六日のものです。
この度旧記を尋ねられましたが、前文の通り甲斐源氏より秋山伯耆守へ相続し天文八年(1539)より毛利殿に属し弘治、永禄の頃尼子晴久殿と合戦を行い数度の軍功により再度短刀を賜りました。
二男備前守朝綱は永禄七年(1564)九月当村(亀谷村)の川上城(井原城)に移り嫡子主計治元の代に福島正則様が芸備に罷り越した時に由緒を尋ねられ慶長六年(1601)にお奉行様に前文を奉りました。
同九年(1604)社職を譲り受け 黒木部賀左衛門の跡目を継ぎ領家十二郷注連頭となりました。
嫡子治部太夫治信の孫は喜内太夫治好で嫡子で御座います。喜内太夫は延宝四年(1676)六月二十七日に病死しました。
同五年(1677)二月に上京しまして吉田殿に跡目の儀を願い出ました
同二月十日免許を頂戴いたしまして恐れながら書き出しました。
(延宝七年1679)未四月 黒木河内守治浚
黒木家文書
上記の伝承から家系図を作成する以下のようになる。
上記での共通点では隼人正(助)という人物がおり、また伊豆守という人物もいたことが分かる。
ただし、1350年頃の秋山五郎入道は由来書には記載がなく不明である。
諸家系図纂の系図に一部作図
西備名区で秋山五郎入道観応年中居住 秋山者 加賀見次郎遠光嫡男、太郎光朝男、小太郎光重末葉也 とある(小太郎は光定であるが)、光重の子孫が秋山五郎入道であり、後に古屋城の城主となる秋山朝仲は経明の子孫となっているため、秋山の子孫でも2系統あり、初期の南北朝時代に活躍した光重から派生した秋山五郎入道の系統は経明から派生した秋山朝仲の系統にどのかのタイミングで変更した可能性も否定できない。
広島市安佐北区白木町秋山を本拠にしていた秋山氏の子孫(井原氏)の書状している『閥閲禄』「井原助之進」17に「秋山の先祖備後国に罷在、元就公御代御幕下に属し」とある。
この文言を信じると、この太郎丸にいた秋山一族の庶流が白木町秋山に土着したと考えられるが、黒木家文書からは逆に白木町秋山にいた一族が紆余曲折の後に太郎丸にきたようになっている。
どちらが正しいのか、どちらも間違っているのか判断に迷う。
第2章 太郎丸の秋山氏
第1節 古文書にみえる秋山氏とその詳細
黒木家文書には朝氏(小原)が太郎丸の古屋城に在住した記載がある
秋山氏家系図
秋山氏歴代人物
小原朝氏
永禄八年九月廿六日誕生、小原源三郎、従五位下左門尉、尼子経久属備後国高怒郡太郎丸村居城、天文七年八月二日卒、行年三十
【解説】
1509生
1538没
秋山ではなく小原姓を名乗っている、通称は源三郎、従五位下は僭称、尼子経久に属しており太郎丸村に居城していたことが分かる、天正7年(1538)に30歳で亡くなった為逆算して1509年(永正6年)に生まれたことが分かる。
戒名は長安浄久居士
妻は本要良空大姉で1533年に亡くなっている。
秋山朝仲
大永七年四月五日誕生、小原源太郎、秋山隼人助、従五位下伯耆守、拾三歳之頃父朝氏天文七戊戌八月二日卒、同八己亥年ヨリ芸州高田郡吉田郡山城主大江朝臣毛利宰相元就殿随同、同十一年壬寅年閏三月大内義隆伐尼子晴久不克、弘治元年八月廿九日厳島ニ而陶入道全姜退治之時軍功有、永禄四年十一月雲州嶋根郡白鹿城改之時軍功有元就公ヨリ預恩賞太刀二腰絡リ、天正十一癸未年三月廿日卒、行年五十七
【解説】
大永7年(1527)生
天正4年(1576)若しくは天正11年(1583)没
天文7年(1538):13歳で父を亡くす、天文8年(1539)に毛利氏に従っているが、この時に甲奴郡の一地侍が毛利に従うということは主家にあたる家(田総家か)も毛利に従っていたのかもしれない。
天文11年(1542):大内義隆に従って尼子征伐に参加。16歳
弘治元年(1555):毛利方として陶晴賢を厳島合戦の時に成敗する。29歳
永禄4年(1561):尼子方の白鹿城を攻めて武功をたてる。35歳
天正4年(1576):没(龍興寺過去帳) 50歳
天正11年(1583)没(家系図記載)57歳
戒名は伯紋亮耆居士
太郎丸秋山氏で家運を盛り上げた人物。
真贋は不明であるが感状もある。
秋山盛久(広久)(親之)
秋山伊豆守
天文十六丁未年三月十日誕生、居城太郎丸村古屋山
【解説】
天文16年(1547)生 没年不明
古屋城の城主としか記載無い、龍興寺の過去帳にも記載なし。
他の地域に移ったか、山口県 防府市にいる秋山氏の家系図も上記の家系図と同様のものがあるようなので山口に移転した可能性も否定できない。
『ふるさと牟禮』に秋山家系図が記載されており
朝仲の子どもとして親之がおり、「備後国太郎丸村古屋山城より防州熊毛郡三尾に下る 食録八十石」と記載されているため、関ケ原の戦いの後に長男が毛利氏に従ったと思われる。
『ふるさと牟禮』より引用。
秋山清右衛門
居城、田総川平之城西之丸
【解説】
諱不明、稲草にある川平山の西の丸を居城としている。
秋山朝綱
秋山備前守
天文十九年庚戌正月十一日誕生、秋山次郎兵衛、野稲ニ居城、永禄七年甲子九月同郡瓶谷村(亀谷村)大谷山湯原川上城移賀屋に居城。
天文19年(1550)生 寛永4年(1627)没か
通称、次郎兵衛 官途、名備前守
永禄7年(1564):15歳の時に亀谷村に移る、大谷山川上城移るとは賀屋、川上城は現在の井原城で賀屋は現在の茅城と思われる。
朝仲の子孫に黒木家に入り宮司になった家系がある。
戒名:大庵宗性居士
秋山盛綱(神三郎)
記載なし詳細不明。
秋山盛慶
元亀元庚午年八月十二日誕生、秋山市郎右衛門従五位下石見守居城野稲に住、天正十二甲申年八月彼岸同郡稲草村五雲山
元亀元年(1570)生 慶長13年(1608)没
通称、市郎右衛門 官途名石見守
天正12年(1584)、五雲山とは龍興寺のころ、天正12年龍興寺で何かしらのことをしたのか。
第3章 秋山氏に関する史跡、伝承等
古屋城
城データ
城名:古屋城
別名:太郎丸城、かます城
標高:380m
比高:10m
築城年:南北朝時代か
城主:秋山氏
場所:広島県三次市吉舎町大字上安田
北緯:東経:34.755094/133.056625
open-hinataより【古屋城】
余湖図【古屋城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『甲奴町郷土誌 第二集 上川地区編』より引用。
『和智氏と吉舎町の山城』より引用
『和智氏と吉舎町の山城』より引用
攻城記
古屋城全景
曲輪内
二の丸。
堀切。
井戸跡。
【位置関係】
城の概要
古屋城跡 吉舎町大学上安田
吉舎町上安田から同町平田に至る町道と、甲奴郡甲奴町大和谷から延びる道と、さらに、甲奴郡総領町木屋からの道がこの古屋城跡の南で交流しております。
また、上安田の堀越に下る山道も分岐しており、 一見、山中の様相を呈している地区ですが、中世においては、非常に大切な交通の要衝の地でありました。
その街道を制する位置にあるこの城は、まさにその任に当るために築造されたものとみられます。
遺構は第7図に示すように、標高三百七十メートルの等高線が、北方に 突出する丘陵上にあり、北・西・東側は急斜面で谷にのぞみ、特に北側はかなりの傾斜であります。
南側は畑として耕作されており、現状では道路と比較しての高低差はそれほどでもありません。
第8図は郭の平面と断面を示しています。
1郭は当城の中心郭で、 ほぼ当時の遺構を伝えています。三十七メートル×ニ十一メトル、 郭内は表面上では平坦です。東側には1郭よりも一メートル低く2郭 があり、郭内はわずかの段差で二段に削平され、東端には高さ五十セ ンチ、幅一メートルの土塁がまわり、基底部内側には石列もみられます。
そこには中世の墳墓、五輪塔がありますが、近世の石塔もみられ、 あるいは②郭は後世に墓地を造成するために構築したのではないかと考えられます。
従って当時は、1・2郭は同一の郭であった可能性も あります。 ②郭の東下には幅ニ〜三メートルの堀切りが設けられています
1の郭西端にも一段低い小郭が設けられ、2郭と同様に近世の墳墓がみられますが、ただ、3郭からの郭への虎口としての機能も推定され、後世の築造であるとも断定できません。
一方、1郭の北端中央には三メー トル低く、十メートル×ニメートル五十センチの郭内に井戸跡(直径 ニメートル、深さ五十センチ)とみられる遺構を残した郭があり、さらに、その郭を防御するように三条の堅堀が設けられています。
この堅堀と井戸郭の関係から、当城の築城期は戦国期と推定されます。
1郭より三メートル五十センチ低い3郭は、1郭の西・南端下をとりまくように囲郭されていますが、後世の開墾で郭内の平面上はかなり変化はしていますが、全体的な囲郭からみて、築城期には郭として土地を占有していたと考えられます。3郭の南端下には、さらに、平らな上地が広がって牧草地となっていますが、南方のレベルからみて郭としての構築はなかったと考えられます。
以上が、当城の土地の占有・囲郭でありますが、いわゆる山城としての規模をもっておりません。
なお、当城の歴史ですが、中世時代に は、当地は田総庄として長井(田総)氏の支配地であったことは確かです。
江戸時代の「中津藩明細帳」に、甲奴郡太郎丸村に「一か所城 主秋山伊豆守と申伝候、通称、古屋城」と「段畑城、城主不明」として、二か所の遺跡を記していますが、当城については、「かます城」 城名が伝えられ、また、城跡付近には、「段畑・やぐらまち」の古地名 が伝わっています。
『和智氏と吉舎町の山城』より引用
城の歴史
観応年間(1350年頃)の秋山五郎入道が居城していたとある。
戦国時代は(永井氏)田総氏の支配下にあったと思われるが家臣ではなく与力的な働きをしていたのではないか、理由として永井家臣団の中に秋山氏がおらず、また客分だったとの伝承もある為。
家系図等から小原朝氏や息子の秋山朝仲も居城していたと思われる。
中津藩明細帳にある秋山伊豆守というのは、最後の城主である秋山盛久(広久)(親之)と比定される。
ただし、秋山五郎入道と朝氏以下の関係は不明。
天文13年(1544)に3-11 毛利軍,甲奴郡田総表で尼子軍と合戦〔毛利 283〕。とあり田総地域で毛利軍が尼子軍と戦っていたことが分かる、田総氏傘下であったと思われる秋山氏もこの戦に参加したと思われる。
『毛利家文書283』の一部。
城主家系図
古屋城の城主のみ抜粋。
城主(一族)石高
『毛利八箇国御時代分限帳』に秋山氏の名前がある
秋山 仁兵衛
132.000 総石高
【内訳】
16.000 安芸 山県
100.000 出雲 大原
16.000 周防 都濃
秋山 次郎兵衛
24.120 総石高
【内訳】
11.712 安芸 山県
12.408 周防 都濃
秋山 善兵衛
5.737 周防 玖珂
関連するか不明であるが次郎兵衛は秋山朝綱の通称である、仁兵衛に関しては断定できないが伊豆守の通称かもしれないが今となっては詳細が確認できない。
城データ
城名:段畑城
別名:無し
標高:445m
比高:10m程か
築城年:不明
城主:不明であるが秋山氏の可能性が高い。
場所:広島県三次市甲奴町太郎丸
北緯:東経:34.760503/133.063514
※C. フォーマット「度(DD)」の場合を参照。
山を削られ現在遺構は無い、この付近から五輪塔が出たと云われる。
open-hinataより【段畑城】
黒丸が推定地。
城の歴史
「中津藩明細帳」に「段畑城、城主不明」とだけある。
段畑城趾(太郎丸、段畑)
蘭塔墓地から北三〇〇mの所
調査昭和四十八年
昔、太郎丸には段畑城があった。城主は秋山伯耆守で、その後四代城主の秋山安左衛門時代には、水野藩の庄屋段畑となった。
その後、孫子秋山寛斉は、幼少の頃から読経が好きであり、十三才の時仏門に入った。以後ひたすら学を修め、大成しから太郎丸へ帰って、貧しい郷士の発展につくして、富をふやし皆の苦しみを救うた。
人々は皆この人をうやまい、したったそうである。明和六年八月五日(西紀一七六九年)に歿した。
住民は深く之を悲しんで、道路に莚を敷いておがむ人で、墓地まで続いた―という事である。
加村一男供
甲奴町郷土誌編さん委員会『甲奴町郷土誌』「第二集 上川地区編」より引用。
城の歴史
「中津藩明細帳」に「段畑城、城主不明」とだけある。
段畑城趾(太郎丸、段畑)
蘭塔墓地から北三〇〇mの所
調査昭和四十八年
昔、太郎丸には段畑城があった。城主は秋山伯耆守で、その後四代城主の秋山安左衛門時代には、水野藩の庄屋段畑となった。
その後、孫子秋山寛斉は、幼少の頃から読経が好きであり、十三才の時仏門に入った。以後ひたすら学を修め、大成しから太郎丸へ帰って、貧しい郷士の発展につくして、富をふやし皆の苦しみを救うた。
人々は皆この人をうやまい、したったそうである。明和六年八月五日(西紀一七六九年)に歿した。
住民は深く之を悲しんで、道路に莚を敷いておがむ人で、墓地まで続いた―という事である。
加村一男供
甲奴町郷土誌編さん委員会『甲奴町郷土誌』「第二集 上川地区編」より引用。
城名:茅城
別名:無し
標高:370m
比高:70m
築城年:不明
城主:福場備前守、秋山朝綱
場所:庄原市総領町亀谷
北緯:東経:34.782984/133.089497
家系図に秋山朝綱がこの城にいたことが記載されている
城名:井原城
別名:大谷山城
標高:490m
比高:70m
築城年:不明
城主:森戸弾正忠実泰(田総氏の被官)、川上杢之進常之(毛利元就の家臣)、山内滝口炊介武通(山内氏家臣か) 秋山朝綱
場所:庄原市総領町下領家
北緯:東経:34.777575/133.082126
家系図に秋山朝綱がこの城にいたことが記載されている
総領町役場の東南、下領家井原に、室町~戦国期の城址がある。山頂の下領家北向きに二段、ほとりにまわり道があり、門のあった跡にも段がある。前後とも急峻で、土居の峠が堀切になっている。
五雲山龍興寺文書の「奕葉記」永享三年辛亥(一四三一)には、井原城は、田総氏被官の森戸弾正忠実泰が城主であったと記されている。また、龍興寺の五月八日花祭りにでる台座を甘茶に囲まれた釈迦仏のブロンズ像は、井原城主森戸弾正忠実泰が寄進したもので、その名が刻まれている。
天文年中(一五三二~五五)には、山内大和守直重が出口村より千余騎で押し寄せ、此の城を打ち破り燃亡させ、子息亀若丸を生け捕り、城番の森原、石見、佐田彦四郎らがここを修理し、長重は永禄年中(一五五八年)毛利より帰参、後に長府に移り、ここへは子孫が残った。また天正年中(一五七三年頃)に毛利家幕下の川上杢之進常之(川上杢亮正秀)が、大矢村より移り、更に山内滝口炊介武通も城主であったと記されている。
『総領町誌』134頁より
意加美(おかみ)神社
現総領町 稲草205番地
稲章の北西部、田総川北岸の山際に鎮座する。主祭神は高籠神であるが吉備津彦命を相殿に祀るため彦宮とも称する。
旧郷社。「延喜式」神名帳に甲奴郡一座として記される同名社に比定される。田総庄の鎮守社ともいわれ、 「芸藩通志」には長久三年(一〇四三)重修の棟札があると記す。
同書は「社の東神入谷の傍に影向石といふあり、 里俗神石と称し敢て触れず、昔村内川平山城主永井某当社へ神田を付といふ。里老相云ふ。この村雷の落つることなし」と述べている。
なお「西備名区」はこの社の式内社であることに疑問 (ママ) を挟み「木屋村イガミ谷と云処に社あり、是意賀美神社 也と、いまだ何れか是なるをしらず」と記す。
江戸時代以降の神主家の秋山系譜
文禄三年 1594 木屋艮神社に社人稲草村秋山出羽守の文字が見える棟礼あり『棟礼』
寛永十五年 1638 秋山五郎左衛門尉時貞、稲草馬場の大歳神社建立『棟簡裏書』
承応二年 1653 大夫 秋山清右衛門尉近知
延宝五年 1677 吉備津宮再建勧化牒 神官 秋山宗左衛門の記載あり
天和二年 1682 大夫 秋山伯耆近知
元禄十二年 1699 木屋室大明神再三建立「元禄十二年巳卯十月吉日奉再三建立室大明神社壇一宇・大夫秋山但馬守清次」の記録『棟礼』
享保五年 1720 神主 秋山薩摩守祇治
享保九年 1724 秋山薩摩守
宝暦九年 1759 意加美吉備津社殿並大鳥居勘化帳 祠官秋山薩摩守の記載あり
宝暦十一年 1761 木屋姫宮神社に「奉再三建立姫宮大明神社一宇、願主甲辰八歳癸丑歳幸右衛門宝暦十一辛巳八月二一日太夫秋山伯耆守祗清、幣取秋山対馬晴清」の棟礼あり
出典『甲奴国郡志 春』より引用。
1720年頃に活躍している、秋山薩摩守祇治は太郎丸村の庄屋秋山朝易の次男で稲草村竹之内に住んでいた秋山但馬守の聟となる。
彦宮秋山家について
彦宮秋山家とは広島県庄原市総領町稲草の彦宮にいる秋山氏のことである。
拡大図「イカミ社」がある。
意加美神社の宮司を代々しており「芸藩通志」には以下の記載がある。
稲草村秋山氏
先祖、福礼木大夫、天安年中の人なりという、今は、秋山を氏とす、世々当村の祠官なり、歴世詳ならず、年数文政中、出羽まで、凡九百六十余年なり、家に、天安文明の古文書を蔵す。
これから分かることは
天安年間は857~859であり、「芸藩通志」が出来た1825年頃からすれば900年余り前のこととなる。
文政中(1818~30)頃には秋山出羽守がいたことが分かる。
1825年当時、家には文明年間(1469~87)頃までの古文書があったらしい。
当初名前は不明であるが、1825年当時宮司は秋山氏を名乗っていた。
気になる伝承が以下にある。
意加美神社宮司の秋山氏については弘安3年(1280)頃本郷の大宮八幡宮の宮司一名が田総の地頭である永井(田総)照重に招聘されたという伝承がある。
弘安年間に大宮八幡宮にて争論があり、稲草の隣村の領家村にあった領家八幡神社もこの時に創建されたという。
領家八幡神社の文化財
甲奴郡の旧本郷村に本郡八幡総社大宮八幡宮という大社があり、その八幡宮において建治元年(一二七五)旧八月十五日放生会の祭礼について論争が起り、その際下領家の仏ヶ峠の某(法印)が御幣を持ち帰った。
稲草の上市の宮原というところに仮殿を設け、そこで三年間勘請し、弘安元年(一二七八)下領家の森戸山の麗に社殿を建て東照山八幡宮と唱え、地頭領家の氏神として崇敬した。
領家八幡神社の例祭”山内の山主さん、 小童の祇園さんと共に奥備後の三大祭といわれ、初九日(新暦十月九日)に大頭・小頭の二組によって祭祀した。
上記の事を勘案して伝承を信じれば、秋山某氏が意加美神社へ招聘されたのが1280年であり、この時には甲奴町本郷にすでに秋山氏がいた傍証となる。
彦宮の宮司も当初は某であったが、1280年頃に本郷村(甲奴町本郷)から招聘されてそこから秋山氏が宮司として現代にいたるまで連綿と苗字を継いでいったと思われる。
1350年に秋山五郎入道が太郎丸に居城していた70年前にはこの地域に何かしらの縁で来住したのであれば、承久の乱の後で鎌倉御家人やその一族が新補地頭での西遷も考える必要がある。
因みに黒木家文書によれば初代秋山光朝の曽孫にあたる朝秀が建長5年(1253)に広島市安佐北区白木町秋山の地頭になったとある(これに関してはかなり信憑性が低いと思われるが)
甲奴町本郷にいた秋山氏が太郎丸に来住してその子孫が秋山五郎入道の可能性も否定できない。
上記からの推測をすると
一番最初は本郷にある由緒ある大宮八幡宮の宮司である秋山某が永井氏の招聘にて総領町稲草の意加美神社の宮司とある。
他にも大宮八幡宮から太郎丸に行った秋山氏もいたと思われる。
その他にも備北や福山を中心とした地域などに拡大していったと推測される。
蘭塔墓地
秋山伯耆守朝仲夫婦の墓
近隣から集められた五輪塔。
蘭塔墓地の大半は秋山姓である。
秋山家邸宅跡
戦中までは秋山氏が居住していたが、それ以降は当主が関西に移転した為、現在は碑が建っている。
第4章 秋山氏の派生
甲奴郡には秋山氏が多くいる、その中でも広島県府中市上下町井永にも太郎丸から分家した秋山氏がおり、古い古文書の中に秋山伊豆守が記載されている。
備後国甲奴郡井永村の新屋(秋山家)記録書
元来は同郡(甲奴郡)太郎丸の城主の秋山伊豆守と申すものがいた。
落城の時に子孫は福山へ落ち延びた。 その後当村(井永村)で買居りした(断絶した家を買った)
その時土居という屋号を返して新屋という屋号になった。
秋山家は正中(1324~1326)からみられる(そのころから家がある)
実際この井永秋山家は太郎丸初代庄屋秋山神五郎の4男に当たる。
※兄である長男が1597年頃の生まれから17世紀前半に井永村に移住したものと考えられる。
太郎丸村と井永村は15キロ弱で歩いても数時間の距離である。
派生図
2000年当時の甲奴郡の秋山姓の軒数
甲奴郡全体で72軒おり広島509軒の内14%が郡内にいる、人口比率となると更に多い。
他にも神石郡に23軒 庄原市に16軒 と備北地域では20%以上となる。
13世紀頃には備後国に扶植したと思われる、秋山氏が700年かけて拡大していった結果である。
まとめ
秋山氏は13世紀には備後国に来住したと思われる。
少なくとも1280年頃に本郷にいた一族は総領町稲草で意加美神社の宮司として派生。
また1350年頃には甲奴町太郎丸に地侍としての秋山氏も来住。
※ただし、この太郎丸秋山もひょっとしたら本郷から来住した可能性もある。
宮司系と地侍系の系統があるが、時代の中では血縁も入り混じっており全く違う系統ではない。
稲草の秋山が多いのは元々いた宮司系の秋山系と地侍系秋山が稲草に移住した可能性もある。
地侍系の秋山として亀谷村や井永村に庶流を出している。
本郷系の秋山氏はそのまま地元で拡大した一族と宮司系、地侍系も江戸時代に上下宿に来住した家もあると考える。
関連URL
近隣の城
参考URL
参考文献
広島市『白木町史』広島市役所編 昭和55年
広島県『広島県史』「中世 通史Ⅱ」広島県編 昭和59年
岡部忠夫『萩藩諸家系譜』マツノ書店 平成11年
国書刊行会『芸藩通志』昭和56年
田村哲夫 校訂『毛利元就軍記考証新裁軍記』マツノ書店 平成5年
岸浩 『資料毛利氏八箇国御時代分限帳』マツノ書店 昭和62年
『広島県の地名』平凡社 昭和52年
広島県教育委員会『広島県中世城館遺跡総合調査報告書第一集』平成5年
山口県文書館『萩藩閥閲禄』マツノ書店 平成7年
東京大学史料編纂書『大日本古文書 家わけ第8覆刻』平成9年
甲奴町郷土誌編さん委員会『甲奴町郷土誌』「第二集 上川地区編」昭和49年
牟礼郷土史誌同好会会誌 『ふるさと牟禮 第4号』昭和58年
総領町教育委員会『総領の文化財 第五集 総領町の民話と伝説』昭和51年
総領町教育委員会『総領の文化財 第六集 総領の市』昭和52年
総領町教育委員会『総領の文化財 第七集 総領の昔』昭和54年
総領町教育委員会『総領の文化財 第八集 田総の昔』昭和55年
総領町誌
甲奴町誌
公開日2022/05/21