城データ

城名:川平山城

別名:田総城、稲草山城

標高:380m

比高:120m

築城年:南北朝時代か

城主:田総氏(永井氏もしくは長井氏)

場所:庄原市総領町稲草

北緯:東経:34.784737/133.040784

川平山城はここ

 

攻城記

川平山城全景。

庄原市指定文化財 川平山城址

川平山城は、鎌倉時代より戦国期に至る間の山城である。

鎌倉幕府の役人大江広元の子孫の長井氏(後に田総氏を名のる)の居城で、築城は長井重広と言われ、1591年に長井元好が毛利氏について広島に移るまで続いた。

 

長井氏は田総庄十二ヶ村と小童保(現甲奴町)長和庄(現福山市)等の地頭職であった。

山頂の標高360m。五段階の台地に井戸・竪堀・堀切・腰郭等が見られる。

庄原市

 

攻城開始。

途中にある縄張り図。

最初の曲輪。

後世の石積みか

堀切。

第四曲輪。

矢竹。

第三曲輪。

第三曲輪から第四曲輪をみる。

第五曲輪。

第五曲輪の石積み跡、後世のものか。

近世の瓦もあり神社があったのかもしれない。

第二曲輪にある井戸跡。

本丸。

櫓台。

本丸からみた田園風景。

 

 

龍興寺【田総氏(永井氏)菩提寺】

康永2年(1343)に田総庄の地頭永井氏(田総氏)が鎌倉建長寺の大覚禅師を招じて開基したという。

貞和3年(1347)銭100貫文分の寺領を与えられ、以後田総氏代々の菩提寺として庇護を受けたというが、文亀3年(1503)寺領を失って衰退。

田総氏の長州引っ越し後は曹洞宗に改めて奴可郡川東村の千手寺末となった。

 

田総氏(永井氏)墓。

 

余湖図【川平山城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

『芸藩通志』【川平山城】

 

 

城の記載は無いが川平山が城跡となる。

 

城の概要

最高所の1郭は北側に1m高く櫓台をもつ。さらに北側には、深さ約30mの堀切を設ける。

2郭は1郭の南側7m下を取り巻き、東端部には径4m、深さ3m以上の井戸が、中央部の切岸端部には石垣がある。

1郭と2郭は小郭を介して通路で結ばれ、この小郭には一部石垣が見られる。3郭は2郭の南東下5mにあり、ここから南東下3mの4郭、南西下7mの5郭に通路が延びる。

 

4郭から南東に続く尾根には深さ15mの堀切を設け、その先に三日月状の小郭を10段並べている。

城主は田総氏と伝えられる。

 

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用

 

城の歴史

古文書などに記載が無いので詳細不明であるが田総氏の歴史として記載する。

 

文永10年(1273):長井泰茂,備後国長和荘の下地中分に同意。

 

貞和元年(1345):足利尊氏,長井重継に備後国田総荘・小童保・長和荘東方地頭職を安堵〔閥閲録 89〕。

 

貞和2年(1346):長井重継,嫡子直千に田総荘・小童保・長和荘東方地頭職を譲る。

 

貞和5年(1349):長井重継,嫡子直千に備後国石成荘下村地頭職を譲る。

 

永和3年(1377):長井直千,嫡子能里に田総荘・小童保・長和荘の地頭職を譲る。

 

永徳元年(1381):長井能里,幕府に宮氏押領の長和荘東方・石成荘下村地頭職の安堵を請う。

 

応永5年(1398):長井能里,嫡子広里に田総荘・小童保・長和荘東方の地頭職を譲る。

 

応永32年(1425):長井広里,嫡子時里に田総荘・小童保・長和荘東方地頭職以下を譲る。

 

応永33年(1426):長井広里,嫡子時里が幼少のため,所領支配について置文を認める。

 

嘉吉元年(1441):長井時里,嫡子豊里に田総荘・小童保・長和荘東方の地頭職と石成荘下村職を譲る。

 

嘉吉2年(1442):これより先,田総氏, 社より,70 貫文で小童保代官職を請負う。

 

文安3年(1446):田総氏,小童保の年貢 80 貫文を上納。

 

文安4年(1447):長井時里,置文を認め,嫡子豊里に与える。

 

享徳3年(1454):田総時里ら,播磨国平位要害で討死〔閥關録 89〕

 

文正元年(1466):長井豊里,嫡子こうしゅ丸に本領を譲る。

※こうしゅ丸は好里のこと。

 

文明17年(1485):長井豊里,置文を認め,嫡子好里に与える。

田総豊里,備前国福岡合戦で討死〔閥閲録89〕。

田総好里ら,備前国土師河原で合戦。

 

永正10年(1513):この頃,田総信(好か)里夫妻,花蓮侍従を先達として,熊野那智大社に参詣。

 

永正12年(1515):毛利興元,和智誠春の三谿郡吉舎出陣につき,田総好里に加勢を求める〔閥閲録89〕。

 

大永6年(1526):この頃,尼子軍,恵蘇郡多賀山表に出張。山内直通・田総俊里ら,これを撃退〔閥閲録89〕。

 

天文13年(1544)に田総にて尼子氏と毛利氏が激突して戦になっている。

『毛利家文書283』の一部。

 

天文17年(1548):大内義隆,田総元里に神石郡福永内 200 の地を宛行う。

 

城主家系図

田総氏は田総俊里の時に城中出火により家系図を焼失している為詳しいことが不明。

田総氏家臣の中に五郎右衛門がいる。

 

 

城主(一族)石高

田総三郎左衛門(元好)

500.170石  出雲 大原

 

田総五郎右衛門 

65.981石

【内訳】

08.138石  安芸 山県

06.990石  備後 世羅

43.270石  備後 三谷

07.583石  周防 都濃

 

田総市郎右衛門 

2.832石   安芸 佐西

 

所感

●南北朝時代から連綿と続いている国衆であるが、宮氏の侵攻などもあり、大きく成長できなかった。

 

●公園化していた為比較的楽に行けた(30分というところ)

 

●麓には馬場という地名もあり城下を形成していたのだと思う。

 

●昔は麓の道はかなり狭く川が道の近くまであったのを、道幅を広くする為に護岸工事をして川の流れを変更したらしい。

 

●麓の方に話を聞くと以前城には隧道がありコウモリが住んでいたとのこと、またどこからか水を引くため水路があったとのこと。

 

●天文13年(1544)には尼子に攻められた事もあるため城の防御機能もこの頃ピークで築城されたか。

 

●南北朝以降の田総氏の支配は安定しておらず田総庄は山名氏と結びついた山内氏の知行するところとなっていたため、田総氏も山内氏の家臣化していった可能性もある。

 

関連URL

【広島県】茅城【庄原市総領町亀谷】

近隣の城。

 

参考URL

武家家伝(田総氏)

田総長井氏の興亡の跡(広島県庄原市)

 

参考文献

『田総永井系談記全』豊原善 筆写  藤原一三 編著

『日本城郭大系』13

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』

『広島県の地名』

『広島県地名大辞典』

『広島の中世城館を歩く』

『萩藩諸家系譜』

『毛利八箇国御時代分限帳』

『萩藩閥閲録』

公開日2022/04/03

 

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