城データ

城名:仲蔵城

別名:無し

標高:386m

比高:90m

築城年:不明

城主:不明

場所:広島県庄原市峰田町

北緯:東経:34.803784/133.036644

仲蔵城はここ

攻城記

道路からみて分かる場所にある。

山頂部分は笹があるが歩きやすい。

削平された曲輪。

麓を臨む。

別の角度から仲蔵城を臨む。

 

余湖図【仲蔵城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

 

城の概要

丘陵のピークに二段からなる主郭を置き、その両側を配す構造である。

 

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用

 

城の歴史

古文書等にもでておらず詳細不明。

 

仲蔵寺について

由来

仲蔵寺(ちゅうぞうじ)は庄原市峰田町にある曹洞宗のお寺である。

 

青嶽山の北西山麓、本村川の北岸にあり、大応山と号し曹洞宗。本釈迦如来。

 

寛永九年(1632)甲奴郡稲草村(現総領町)の龍興寺の玄舟により、峰(峯)村南西部の仲蔵(なかくら)の地に建立された。

 

宝暦十二年(1762)冬、伽藍を全焼したため、寄信(小池)利兵衛が現在地に寺地を寄進し、翌十三に再興移転した。仲蔵寺建立よりも早く、現在地の本村対岸にあたる元実の地に創建されたとの伝承もあるが、詳細は不明。十一世道見は学僧として知られた。

 

仲蔵寺本堂。

 

この仲蔵寺であるが1762年までは現在の地ではなく仲蔵(なかくら)という地に寺院があった。

 

仲蔵の地は春田町との境にある津谷と呼ばれる場所にある。

 

拡大図。

1762年の火災があるまで寺があったとされる場所 。

 

 

 

才木氏よって平成13年に整理されている(古墓を祀ってある)

現在は寺の跡地に隣接した場所に観音堂が祀ってある。

 

以上が旧仲蔵寺のあった場所の概要であるが、整理された墓所の古墓の多さや観音堂の隣に祀ってある五輪塔などから、この寺の開山は寛永九年(1632)と伝えられているが、それ以前に遡る可能性も否定できない。

墓所の古墓について

前列には五輪塔のみならず宝篋印塔の残欠もある、また後列には五輪塔の残欠が積まれており空風輪だけでも20~30個ある。

 

大きさから戦国時代まで遡れる。

 

これだけの墓があるということは、この寺の歴史の古さを物語っており、1632年開山で1762年に火災で移転したわずか130年という短期間では、これだけの墓を建てることは困難と思われるため、それ以前にもこの場所に寺があったと推測される。

 

当然平成13年に近隣の古墓を集められたため、最初から1つの場所にあったということではないが、それでもこれほど多くの古墓があることから、有力な土豪がこの周辺にいたことは否定できない。

 

これら五輪塔は空風輪のすわりの良さからも室町時代まで遡れる可能性が高い。

※特に右の空風輪は年代がもう少し遡れる可能性がある。

 

右端の墓石は宝篋印塔と呼ばれるもので層塔部と基壇部がみてとれる。

 

墓が作成された当時のままの状態ではなく、後世に積み替えられている為、正式な大きさや高さは不明であるが、現状の高さは約120㎝弱である。後列の五輪塔は低く全て整った状態で100㎝弱と思われる。

 

これは江戸時代初期に流行ったもので御須屋と称す。

中に仏像を祀ったり、壁石に彫刻したりするものもみられる。

 

観音堂隣の五輪塔。

左五輪塔

大きさ形といい室町時代でも初期の墓と思われる空風輪の大きさ 火輪、水輪のすわりの良さからもすべて同年代のものではないかと推測する。

※小領主クラスの墓と推測される。

 

専門家の意見では背が高く、軒の幅もほぼ一定しており、中央からゆっくり反っている。

 

いわゆる真反(しんそり)に近い。ただ、端がやや幅広く反っているので、いわゆる真反(しんそり)に近いとのこと。ただ、端がやや幅広く反っているので、室町初期、南北朝と見立てられる。

 

寄せ集めになっているが、領主クラスの可能性もあるとのこと。

 

右五輪塔

空風輪に比べて火輪、水輪が小さいように思われるので別々の年代ではないか、左の空風輪に比べて形が違からも、もう少し後年(室町後期)でなないか?

ちなみにこの空風輪は逆さまになっている。

 

以上の墓の大きさや形状から近世だけでなく中世の墓もおおく存在していることが判明した。

 

これは仲蔵寺もしくはその前身となる寺の開山が中世にまで遡れることの微証となりえると考える。

 

『芸藩通志』【仲蔵寺】

1825年当時の芸藩通志ではこの仲蔵の地に寺があるように記載されている。

 

 

仲蔵における仲蔵城の役割

総領町稲草と庄原市峰田町赤川に至る道と、稲草から北西の実留地区に延びる道がこの仲蔵城跡の南で交流している。

 

一見、山中の様相を呈している地区の城であるが、中世においては、非常に大切な交通の要所の地であったと考えられる。

 

その道を制する位置にあるこの城は、まさにその任に当たるために築造させたものとみられる。

 

標高三百八十㍍の等高線が、北方に突出する丘陵上にあり、東・南側は急斜面で谷にのぞみ、特に東側はかなりの傾斜である。

 

現在、赤川から稲草の道は粟石トンネルでつながっているが、開通したのは昭和47年であり、それ以前は山裾を旧国道432号線が通っていた、しかし、この旧国道432号線も明治24年に着工開通したもので江戸時代には、山道を通って近隣の集落に移動したものと考えられる。

 

城というよりは交通の要所にあった砦のような感じだと思われる。

 

しかし、交通の要所を任せられた城主もしくは城代がこの地にいたことは確実であり、この城主もしくは城代の居住地域が旧仲蔵寺付近に比定することは可能である。

 

また、旧仲蔵寺から仲蔵城は同高度にあり、なにか異変があった際にはすぐに対応できる位置関係にあったと想像できる。

 

寺の開山について

仲蔵寺の縁起では寛永九年(1632)に総領町稲草の龍興寺の玄舟によって建立されたとある。

 

しかし、旧墓所にある無数の五輪塔、また室町時代から戦国時代に遡れる五輪塔や宝篋印塔の残欠からもこの寺が寛永九年(1632)に建立したとは考えにくく、それよりもはるか以前からこの寺は存在していたと考えたほうが自然である。

 

これだけの五輪塔や宝篋印塔の残欠が集積していることは、室町時代からの寺があったことの証左になりうると考える。

 

仲蔵寺の本寺にあたる総領町稲草の龍興寺についても以下のことが分かっている。

 

龍興寺は毛利氏の萩への転封に伴い、家臣の田総氏も一緒に萩へ移動したため、寺は凋落の一途をたどったが、近隣の四ケ村(知和、木屋、稲草、太郎丸)庄屋が1613年に千手寺(東城町)より仏蓋連種和尚を開山に勧請し臨済宗を曹洞宗に改宗して再興した。

 

とある、同様のことが仲蔵寺でもあったと推測できないか。

 

戦国時代の混乱や江戸時代初期の福島正則の寺領没収などで凋落していたものを村民が龍興寺の住職を招いて中興開山したとも考えられる。

 

この地域の支配者と寺の保護者について

この地域の支配者として1300年頃には長井氏(田総氏)が地頭であったが、地元の名主である「泉谷秀信」との間で争いが生じている南北朝の混乱期には1338年に山内氏が足利氏に忠節を尽くしてこの地域の支配権を承認してもらっている。

 

1553年以降は山内氏が毛利氏の支配下に入る。

 

しかし、赤川氏は青影城の看板では赤川氏は応永15年(室町時代の初期 1408年)将軍足利義満公の命により、下野国那須郡佐々山城より転国し、この青嶽山に築城した。とある。

 

赤川氏が1408年当時からこの地域にいた証左として赤川家の家系図を確認すると、その婚姻関係に近隣の国衆の名前が確認出来る事からも信じてもよさそうである。

 

以上のことから

南北朝から戦国時代中期にかけては長井氏(田総氏)、山内氏、赤川氏らの支配下と考えられるので、寺の保護者も長井氏(田総氏)、山内氏、赤川氏や縁のある人物の菩提寺だった可能性がある。

 

まとめ(推測)

①南北朝時代から戦国時代までの中世においてこの地を治めていたのは長井氏(田総氏)や山内氏、赤川氏であった。また名主の力が大きかった時代もあった。

 

②峯村の南西にあたる字仲蔵という場所は交通の要所であり南は稲草から北の赤川や北西の実留に通じる重要な場所であった。

 

③当時この場所には仲蔵城と呼ばれる城が存在していたことからもその重要性が推測できる、城主もしくは城代がこの地区に居住していたことは想像に難くない。

 

④また、仲蔵城と旧仲蔵寺は同高度にあり、緊急の場合にはすぐに対応できる体制を整えていたと思われる。

 

⑤このような重要な拠点を在地で支配していた人物が居住地域付近にて自家の菩提寺として寺を開山していたとしてもおかしくはない(稲草の龍興寺は田総氏の菩提寺である)

 

⑥寺といっても一族の菩提を弔うものであり庵程度のものだった可能性もある。

 

⓻このような一族が室町時代の早い段階にて仲蔵寺の前身を開山した可能性がある。

 

⑧戦国時代を経てお寺の状態がどのようになったのかは不明であるが、稲草の龍興寺が一旦凋落して1613年に臨済宗から曹洞宗として中興開山した例があるように、仲蔵寺も1632年に開山したのは中興開山したのかもしれない。

 

⑨もしくは、仲蔵の地に寺があったがそれは廃棄して、その後、全く新しく龍興寺の玄舟和尚により仲蔵寺を建立したのかもしれない。

 

⑩寺伝は1762年の火災により焼失した為に詳細が不明な点も多い開山に関する事も詳細は不明。

 

⑪しかし、旧仲蔵寺跡には室町時代から戦国時代に遡れる古い五輪塔や宝篋印塔の残欠が多数あることから、寺の開山年代が室町時代から戦国時代の中世まで遡れることは確実である。

 

⑫国人領主である山内氏一族の墓と類似していることから、山内氏との縁がある人物がこの地の支配者層並びに寺の保護者として存在していた可能性もあるが、詳細は不明。

 

⑬峰田にこのような中世の遺物があり、しかも、大切に保存されていたことは非常に喜ばしいことである。

 

所感

●城の規模としては見張砦程度だったかもしれないが、交通の要衝であり南の田総、西の実留、北の赤川、峰村へ通じる場所である。

 

●東の仲蔵寺付近に城主の館があったと想像すると興味深い。

 

●峰田町の青掛山は戦国時代に赤川氏の居城だという言い伝えがあるため、近隣の支城の役割をしていいたとも思われる。

 

●実際に山頂から眺めると改めてその重要性を認識できた。

 

関連URL

【広島県】青影城【庄原市峰田町】

 

参考URL

 

参考文献

『総領の文化財第八集 総領の昔 総領町教育委員会』

『広島県の古石塔』

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書 第四集』

『庄原市の歴史 通史編』

『広島県史 中世』

『日本城郭大系』13

『広島県の地名』

『広島県地名大辞典』

『広島の中世城館を歩く』

『萩藩諸家系譜』

『毛利八箇国御時代分限帳』

『萩藩閥閲録』

公開日2022/04/03

 

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