城データ
城名:三角山城
別名:無し
標高:440m
比高:80m
築城年:不明
城主:伊達氏
場所:広島県三次市甲奴町抜湯
北緯:東経:34.756377/133.066180
攻城記
三角山城全景。
城の中腹になる地蔵。
実は井戸跡。
堀切。
石垣跡、この地域では珍しい。
祠。
削平地。
本丸付近。
標識もある。
本丸。
本丸周辺部。
堀切。
降ってみる。
曲輪の数は多い。
石垣も多用している。
位置関係
余湖図【三角山城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『甲奴町郷土誌 第二集 上川地区遍』より
城の概要
南北方向の堀切によって独立させた丘陵の東側に「く」の字状に郭を配する。
最高所の南下5mにある郭には西から南にかけて石垣が見られる。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
三角山城
甲奴町大字太郎丸の県道甲奴上市線の西側の、標高約五二〇メートルの三角山は、南北にのびた山頂に本丸の曲輪があり、それをはさんで西側と東側及び北側に七つの曲輪をもち、南北約二〇〇メートル、東西約五〇メートルに及ぶ城跡である。
城跡の北側の山麓には吉田寺跡がある。
その中に古墓三基あり、その一つの上に文禄五年 (一五九六)丙申歳の銘のある宝篋印塔一基が建っている。
城跡の北側には縦堀二本と、本丸北側に接して空堀が一か所掘られている。
石垣も二か所存在する。井戸は発見されないが、城の南西の山麓に清水の湧き出る場所があり、この水が 利用されたのであろう。
城の東側には上下川の上流抜湯川が流れている。
三角山城跡 大字抜湯字下抜湯
高橋主水尉左門(文字不詳)という人がこの地を開き築城したとの話が伝わっている。
三角山を本丸にとりでを築き、前を流れる川をせき止め、城の堀にする計画であったと伝える。
山の南側を城根段原と呼ぶ。
二の丸・曲輪・空堀そして珍しい二本の縦堀と整った城の遺構である。
『惣領町誌』より引用。
吉田寺跡
場所は分かるが行くのが困難。
標識も建っている。
寺域は狭い。
吉田寺跡 大字字吉寺寺跡山
山の中腹に現在は雑木が樹立しているが約二畝位の平坦地がある。
人手により平坦地にされた形跡がはっきり残り、ここに吉田寺があったものと推定される。
前方はかなり急斜面で、後方はかなり高い山である。
屋敷の後方(西南)に幅一〜一・五メートル、深さ一 1メートル、長さ五〇メートル位の溝が現存している。
溝を造った目的は不明で盗難防止とか、落石を一時食い止 るためとか諸説がある。
昔、大蛇の通った跡だとの伝説もある。
敷地内に三基の積石塚がありその内の一基の中心部には宝篋印塔一基が立っている。
1積石塚三基寺跡山の山林 中世末のものと考えられる。
そのうちの一基の上に宝篋印塔がある。 中央の塚は盗掘された形跡があって石が散乱している。
2 宝筐印塔(積石塚上のもの)
イ 石質は石灰岩
ロ 九輪の部分が中央で折れている、伏鉢から上 は下部とは別のものである。
ハ 基礎正面奉建石塔一宇為大僧都丈〇〇〇〇
右(一五九六) 〇文禄五年丙申才
左 八月二日〇〇〇〇〇 (〇印は風化磨減して読みとれない) 西向きに建立している。
3吉田寺阿弥陀如来像 三体
抜湯、吉田寺跡南西約一〇〇メートルの山麓吉田寺にあったものをこの地へ移転して小堂を建立・安置している。
(棟札) 二枚
吉田寺跡の宝篋印塔群・五輪塔群 大字抜湯吉田寺阿弥陀如来堂の傍 大小数基の宝篋印塔・五輪塔が散在している。
しかしどれも三段くらい積み重ねてはあるが、正規のものに積 み重ねるとよい。
石質は結晶質石灰岩(小米石)である。
『甲奴町誌』より引用
城の歴史
詳細不明。
城主家系図
城主が伊達氏と伝わる。
城主(一族)石高
『毛利八箇国御時代分限帳』に伊達の苗字を持つものがいるが詳細不明。
所感
●城主が伊達氏と伝わっているが、麓に伊達さんがおり子孫だと思われる。
●伊達さんに話をして山に登らせていただいた。
●城は通常の山城であるが、石垣が残っておる見ごたえある。
●本丸には「三角山城跡」の標識もあるため分かりやすい。
関連URL
参考URL
参考文献
『甲奴町郷土誌 第二集 上川地区遍』
『甲奴町誌』
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/05/13