城データ
城名:椋山城
別名:無し
標高:178m
比高:120m
築城年:室町時代か
城主:桑原伊賀守重信が築いたと云われる。
場所:広島県福山市駅家町助元
北緯:東経:34.573329/133.307408
攻城記
福山市史跡
椋山城跡
昭和63年6月24日指定
この城は170mの椋山の山頂を本丸とする中世の山城である。
天文年間(1500年の中頃)に最も栄え出雲の尼子氏が備後に勢力を配していた頃毛利氏の家臣として桑原氏が居城していた。
その後天正年間(1570~80年代)に廃城となった。北・西・南・南東に伸びる15の郭と4本の空堀と井戸が残っている。
本丸一帯の調査では青磁片や古銭(天聖元宝)が出土し、室町末期の遺物と推定されている。
ここで合っているのか不安になる。
看板に沿って登る。
矢竹。
空堀。
ここも空堀。
やっと山頂に到着。
井戸跡。
一の郭。
一の郭からの眺望。
見下ろすと二の郭がある。
反対側が本丸となる。
本丸。
本丸逆方向から。
二の郭に移動する。
こちらは藪化している。
二の郭から更に下りる。
八幡神社のイチョウ
服部八幡神社
open-hinataより【椋山城】
余湖図【椋山城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
概要
山頂部に1郭を置き,この南東下に二つの郭を配しており,これらが中心的な郭群と考えられる。
この郭群から北・南東・南に派生する尾根に郭群が設けられている。3郭には桝形虎口があり,4郭へと通じている。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
服部永谷村 椋山城
中世の椋山城跡があり、南北朝時代南朝方の桑原重信 が居城、鞆の大可島で戦死したが、その後桑原氏は足利方となり代々服部郷を領し、戦国時代の末には毛利氏に従った。
椋山城跡(むくやまじょうあと)
この山城は,標高170mの椋山の山頂を本丸とし,北・西・南・南東に延びる15の郭と4本の空掘で構成された中世の山城である。小規模であるが各郭の保存状況は良く,福山地方の代表的な山城の一つである。
本丸一帯より採集した土師質土器,青磁破片,古銭(天聖元宝)などは,室町時代後半のものである。
椋山城の歴史については,この城が服部を領した桑原氏の本城であったことは『西備名区』,『福山志料』,『備後古城記』などに書かれているが,築城の時期については,詳しいことは不明である。
石垣は残存しておらず,築城当初から構築しなかったものと思われる。
天文10年(1541年)大内義隆が出雲へ出発の時,桑原越中守通兼が従軍し,服部へ帰陣したことが諸書に記されており,「平川家文書」(『岡山県古文書集』第3所収)の天文10年2月2日付の実信感状により,この城がこの地方の一勢力の拠点であったことがわかる。
これらの史料により,天文年間にこの城がもっとも栄え,山城としての整備もなされたものと推察できる。
その後,桑原氏は毛利家の家臣として働き,中世の末(天正頃)この城は廃城となっている。
福山市のサイトより。
城の歴史
築城の年代は不明であるが天文年間が一番栄えたと云われる。
※天文10年2月24日付宮実信感状に「今度於椋山云々」の文言がある。
城主家系図
城主の桑原氏の遠祖は土肥氏につながるという。
桑原重信
伊賀守で椋山城を築城すると云われる。
南朝側で鞆大河島城の守将となって、北朝方の軍勢と戦い壮烈な最後をとげる。
桑原重信
父重信の跡を継ぎ、椋山城周辺を治める小領主。
桑原通兼
越中守で泉山城主宮常陸介信清の家老として服部谷の南部を支配したが、宮氏滅亡後は毛利氏の配下となる。
城主(一族)石高
『毛利八箇国御時代分限帳』には桑原氏が沢山いるがどの桑原氏か不明。
所感
●城の規模も大きく、宮氏の家老クラスでこの大きさは宿老だったか。
●曲輪も数多くあり、技巧に富むが石垣は無い。
●一の郭からは遠くまで見通せる、近くに大嶝城や岡山城があり椋山城の支城だったと思われる。
関連URL
桑原氏が守った大可島城。
同じ土肥氏からの庶流である光成氏の城。
参考URL
椋山城跡 (福山市駅家町服部永谷)
参考文献
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/05/08