城データ
城名:一乗山城
別名:黒木城、七面山城
標高:190m
比高:60m
築城年:文明年間(1469年〜1487年)頃に渡辺越中守兼によって築かれたと云われる。
城主:渡辺氏
場所:広島県福山市熊野町上山田
北緯:東経:34.417986/133.355671
攻城記
道なりに進む。
福山市史跡 一乗山城跡
福山市熊野町大字上山田
1964年(昭和39年)3月31日指定
戦国時代、熊野盆地を支配した渡辺氏によって築かれた山城跡です。渡辺氏は、初め草戸に本拠を置いていましたが、戦国時代の初頭、越中守兼の代に毛利氏後押しでこの地に入り、この城を築きました。
城は、熊野水源池に半島状に突き出た尾根を利用して築かれたもので、背後を堀切で断ち切り、前面に曲輪を階段状に並べた戦国期の山城の遺構がよく残っています。
福山市教育委員会
先端から登っていく。
ここも曲輪の跡だと思われる。
更に上がっていく。
ここも曲輪であろう、ここから左に勧め。
横井戸に進む。
かなり進む。
横井戸。
アップ。
戻る途中に縦井戸もある。
アップ。
ここからが本番。
曲輪に到着。
この曲輪の側面に石垣が多数ある。
本丸方向を見上げる。
一乗山城石垣群
2m以上の高さのある石垣が周囲に巡らせている。
本丸。
本丸櫓台。
櫓台頂上。
櫓台から本丸方向。
本丸にも石垣が多く散乱している。
水源地を臨む。
別の方向にも石垣あり、ただし石垣は小さい。
畝状竪堀群。
これも竪堀。
元に戻る。
常国寺の石垣があるが、これと同じ大きさの石垣が本丸周辺にあったため、同時期に造られた可能性もある。
常国寺【渡辺氏菩提寺】
open-hinataより【一乗山城】
余湖図【一乗山城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
熊野盆地南側の最奥部に突き出た丘陵先端部に築かれており,背後に当たる南側を5条の堀切で区切って城域としている。
主郭は30m×20mの規模で,南側に基底部に石垣を備える土塁がある。
この主郭を三重に帯郭が取り囲んでおり,さらにその周囲を畝状空堀群が取り巻く。水の手は東側斜面に2ヵ所ある。麓は現在水源地となっているため,遺構は不明である。
史料にでてくる「山田之城」とは,この城のことであろう。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
一乗山城跡(いちじょうさんじょうあと)
別名黒木城ともよばれ,沼隈半島の南東部熊野盆地に存在する城跡で,中世の豪族渡辺氏の居城である。
渡辺氏は,鎌倉時代末期に山田荘に入り,後足利氏に属し勢力をのばした。一乗山(七面山)に築城するのは渡辺越中守兼の時代といわれ,入城したのは文明年間(1469~1486年)とも永正年間(1504~1521年)ともいわれる。またこの頃兼は日蓮宗に帰依し,菩提寺常国寺を建立した。
城は北へのびる尾根を利用し,南は堀切,北は竪堀で区画し,この間の頂部30×20mの南半分を櫓台状にした平坦面を設けている。郭【くるわ】の跡や,石垣,井戸等もよく残存している。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦に敗れ,兼の曽孫景は一乗山城を退き,廃城となった。
福山市のサイトより。
一乗山城跡 福山市熊野町
上山 沼隈半島のほぼ中央、黒木谷の最奥部にあり、南東に ものつ 山一つ越せば鞆准に至る。
黒木城ともいい、室町・戦国代に水吞・草戸・長和・半坂・山田・坪生・木之庄などに勢力をもち、杉原氏・古志氏と並び称せられた渡辺 氏の居城。
市指定史跡。 いわゆる山田庄に渡辺氏が入部した時期とその居城は不群だが、「備陽六郡志」には「渡辺越中守兼、毛利元就命兼日、当国三太子宮、三好 杉原ノ内一人ヲ討取ニ於テハ 忠償ヲ行ルヘシト云々、因テ宮近門民部左衛門藤原信元ヲ討取、其勲賞トシテ山田三ケ村ヲ賜リ、初テ一乗山今ノ七面山是ナリニ城ヲ築テ住居ス」とある。
ただ兼が入城したのは文明年間(一四六九-八七)とも永正年間(一五〇四~二二と)もいわれ、明らかではない。
なお、菩提寺常国寺の建立は築城と同時に行われたと思われ、一乗山に法華の 守護神である七面大菩薩を祀り、麓に菩提寺を建立した ものであろう。
兼はこの後しばらくは大内氏に属していたようで、天文三年(一五三四)には宮氏の居城亀寿山城(跡地は現芦品郡新 市町)を攻撃。
同二〇年大内氏が陶氏に滅ぼされた後には毛利氏に従い、兼の子出雲守房は翌二一年宮氏の志川滝山城を攻め(西備名区、福山志料)、天正四年(一五七六)足利義昭が毛利氏を頼って鞆に来ると、その子の民部少輔元、 孫の四郎左衛門景とともに義昭の警固を勤め、三代にわたって毛氈の鞍覆および白傘袋の使用を許可されている (渡辺氏系図、常国寺文書ほか)。
慶長五年(一六〇〇)毛利氏の 防長移封に伴い廃城となり、景は浪人の後仏門に入り城下に通安寺を建立、景の子は四人までが水野氏の家臣に 取立てられている(備陽六郡志ほか)。
当城は黒木谷最奥部にある七面山山頂から北方に延び る標高約二四〇メートルの尾根を利用したもので、背後 を幅一〇メートル前後の四条の空堀で区切って城域とし ており、頂部は三〇メ二〇メートルの本丸で、南半は石 垣で区切って一段高い台状にしている。
これから北方へはそれぞれ五~一〇メートルの比高をもって幅一五メ― トル前後の郭を二段、その下には小郭をさらに二段めぐ らしている。
ほかに井戸・竪堀が現存。
『広島県の地名』より引用。
一乗山城
一乗山城は、室町・戦国時代を通じて備後沼隈半島を支配した渡辺氏の居城で、当時としては珍しく戦乱に会わなかった数少ない城の一つである。
位置としては、沼隈半島のほぼ中央、熊ケ峰連山に囲まれた熊野盆地を押える黒木谷の最奥部にあり、南東に山一つ越せば鞆港に至る。
領地経営と交通の便を考えた地に位置した城である。
渡辺氏が備後山田荘に入ってきた時期については、明らかではないが、鎌倉末期に渡辺友網が移ったのが最初と考えられており、その子の四郎兵衛尉持は、 観応二年(正平六、一三五一)の足利氏の内紛時に石崎城で、またその子四郎兵衛尉究も同年、石成で戦ったとされている。
その頃の居城は、同じ出田でも、下山田城、あるいは中山田城であったともいわれている。
一乗山城が築かれたのは、その後約一〇〇年を経た文明年間で、越中守兼の時とされているが、その頃、菩提寺である日蓮宗常国寺を兼が建立している。
兼はその後、天文三年(一五三四)の大内・毛利氏による新市宮氏の亀寿山城攻めには、毛利方として加わっており、宮氏降伏後は亀寿山城の監視役も務めて いる。
また、その子出雲守房は、同二十一年の毛利氏による宮氏の志川滝山城攻めに参加しており、その子源三高も永禄十二年(一五六九)の神辺合戦で活躍しているし、その後も民部少輔元・四郎左衛門景と代々毛利氏に仕えた。
しかし、慶長五年年(一六〇〇)の関ケ原合戦による毛利氏の防長移封により、一乗山城も廃城となり、渡辺氏は浪人となった。
一乗山城は、熊野盆地南側の黒木谷最奥部にある七面山山頂から北方に延び る尾根を利用したもので、背後を幅一〇m前後の四条の空堀で区切って城域としている。
頂部は三〇m×二〇mの本丸で、その南半は石垣で区切って一段高 い台状にしている。
これから北方へは、それぞれ五m=一〇mの比高をもって幅 一五ヵ前後の郭が二段設けてあり、下段の郭は東側へ帯郭状に延ばしている。
その下には小郭をさらに二段めぐらしているが、いずれも本丸を取り巻くような配置であり、単なる直線状連郭式から同心円状連郭式へと移行していく過程のものとも考えられる。
これら郭の要所には石垣が多く用いられており、かなりの急斜面を保っている。
なお、これから北方へ延びるやや低い尾根上にかけては、中央部尾根上のみ幅二mの通路として残し、両側の谷から竪堀を延ばして頂部郭群とは境をつけている。
この竪堀から尾根の先端にかけては城の守りとされる七面明神を祀 った郭、さらに先端部には長さ三〇m以上もある長大な郭がある。
なお、一乗山城から西へ谷を一つ隔てた丘陵斜面には、渡辺氏の菩提寺常国寺の大伽藍がある。
また、本丸からは黒木谷はもちろん、熊野盆地一帯をも見 渡すことができる。
『日本城郭大系』13より引用。
一乗山城と常国寺
一乗山城は、渡辺越中守兼によって、文明から永正年間(1469~1521)に築かれた中世の山城で、郭・石垣・堀切・井戸などの保存状態が良く、市史跡に指定されている。
渡辺氏は、時代の初め(1400年頃)草戸村に入り、長和荘の管理にあたったが、四代目兼の時代に山田荘(現熊野町)に移った。初め尼子方に就いたが、兼の晩年には毛利氏に属し活躍した。兼は日蓮宗に帰依し、城郭内に法華の守護神である七面大菩薩を祀り、麓には日親上人開基の常国寺を建立し菩提寺とした。
以来五代(兼・房・高・元・景)が一乗山城を拠点としたが、関ヶ原の戦いで敗れこの地を去った。
その間、京を追われた室町幕府最後の将軍、足利義昭が毛利氏を頼って鞆へ来住した時は、その警護と接待役をつとめた。
また、常国寺は、日親上人や足利義昭関係の遺品(常国寺文書)をはじめ、江戸時代中期の建造物(唐門・鐘楼・番神社本殿)が市重要文化財に、ケヤキとモッコクが市天然記念物に指定されるなど、多くの文化財が所在している。
看板より
城の歴史
文明年間(1469〜87):この頃に渡辺越中守兼によって築かれたと云われる。
天文3年(1534):大内・毛利氏による新市宮氏の亀寿山城攻めに、毛利方として参加する。
天文21年(1552):渡辺出雲守房が毛利氏による宮氏の志川滝山城攻めに参する。
永禄12年(1569):渡辺源三高が毛利氏による神辺合戦で活躍する。
その後も代々毛利氏に仕える。
慶長5年(1660):関ケ原の戦いで毛利氏が萩に転封するに及び、浪人となる。城も廃城となる。
城主家系図
ただし、家系図は推定になり正しくないかもしれない。
城主(一族)石高
『毛利八箇国御時代分限帳』に渡辺氏が多く官途名、実名、諱が該当しないため断定が難しい。
所感
●城が技巧的で寄せ付けない防御を誇っている。
●見どころは石垣と畝状竪堀。
●麓の常国寺に車を停められるところがある。
●渡辺氏は関ケ原以降浪人した為、萩には行かなかった。
関連URL
一乗山城に来る前の城
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/05/08