城データ
城名:桜山城
別名:一宮城
標高:81m
比高:50m
築城年:鎌倉時代に桜山慈俊によって築かれたと云われる。
城主:桜山氏
場所:広島県福山市新市町大字宮内
北緯:東経:34.566351/133.270499
攻城記
中興寺(桜山茲俊の菩提寺)
史跡一宮(桜山茲俊挙兵伝說地)
桜山城跡
桜山城跡を含む吉備津神社境内周辺は、「太平記」によると鎌倉時代末期の元弘元(1331)年に後醍醐天皇が倒幕を計画したが失敗し、笠置山に逃れて兵を募ったときに、楠正成に呼応して桜山四郎入道茲俊も挙兵し、備後一宮に拠って一時は備後半国を従えました。
しかし、同年九月には笠置山が落城し天皇が捕らえられ、十月には千早城も落城し楠正成も戦死したと伝えられたことから、桜山方の味方は離散したため茲俊は一族郎党23人とともに、翌2年正月に吉備津神社に放火して自刃したと伝えられていることから、1934(昭和9)年3月13日に史跡一宮(桜山茲俊挙兵伝説地)として、国の史跡に指定されています。
桜山茲俊の挙兵の地とされる桜山城跡は、吉備津神社の南側の標高81mの低丘陵頂部全体を空堀で区切って城郭としたもので、中央に長さ約50mの主郭を置き、その東・西・北三方の尾根上に一段下げて曲輪を配置しています。
各曲輪の規模は大きくないが、それぞれかなりの比高をもたせ、盛土と削平により壁面を切り立たせた堅固なもので、実戦的色彩が強い城郭です。
また、これらの曲輪群の西側は尾根を空堀により分断しており、東・西ともその外側に若干の平坦地を続けたのち、さらにもう一重空堀を巡らせ守りを固くしています。
また、西側に伸びる尾根続きには、標高156mのところに鷲尾山城跡があります。
この地は、吉備津神社と門前町を中核として、輪蔵の谷から御池を堀として、三方を山に囲まれ一方に開けた「城郭都市一宮」が考えられます。
この辺りが本丸。
特段何もない。
位置関係
桜山城は亀寿山城の宮氏(惣領家)の庶流だと伝えられる。
open-hinataより【桜山城】
余湖図【桜山城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
城の遺構は桜山全体に広がっている。周囲の谷部には館跡と思われる平坦地があり,土師質土器が散布している。
山頂の1郭の北端には長方形の櫓台があり,この西側を2郭に通じる通路が通る。2郭から3郭への通路は東側斜面に取り付いている。
3郭への登城路には,1郭北東下の谷部からの道と,北西斜面の段状虎口を経由するものがある。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
桜山城跡 新市町宮内
吉備津神社の南側丘陵上(標高約九〇メートル)にある。
慶安元年(一六四八)以前のものとされる備後国宮内吉備津宮古絵図写(旧版「広島県史」所収)は、吉備津神社背後の山の 西南側に山を描き、手前から「桜山城」「とひの尾山」と記す。
また「備陽六郡志」は著者自筆の吉備津神社およびその付近の図を載せ、吉備津神社の南側の山に桜山入道城跡と記す。
「福山志料」には「備後古城記ニ桜山ノ城亀治山ト鳶ノ尾ノ峰ノ間ニアリト云」と記す。一宮城ともいい(大日本史)、桜山慈俊の居城。 慈俊は備後の豪族宮氏の一族(庶家)で、当地に本拠を置 き桜山氏を名乗ったと推定される。
楠木正成の挙兵に呼応して元弘元年(一三三一)挙兵。
「太平記」巻三(笠置軍事付 陶山小見山夜討事)は同年九月のこととして「十三日ノ晩景 二、備後ノ国ヨリ早馬到来シテ、桜山四郎入道、同一族等御所方ニ参テ旗ヲ揚、当国ノ一宮ヲ城郭トシテ楯籠ル 間、近国ノ逆徒等少々馳加テ、其勢既七百余騎、国中ヲ打、剰他国へ打越ント企テ候、(中略)トゾ告タリケル」と記す。
一時は備後半国をおさえ、備中や安芸へも進出するほどの勢いであったが、笠置(現京都府相楽郡笠 置町)の落城などで味方は離散、翌二年「今ハ身ヲ離ヌー 族、年来ノ若党二十余人ゾ残リケル、(中略)人手ニ懸リテ 戸ヲ曝サンヨリハトテ、当国ノ一宮へ参り、八歳ニ成ケ ル最愛ノ子ト、二十七ニ成ケル年来ノ女房トヲ刺殺テ、 社壇ニ火ヲカケ、己ガ身モ腹搔切テ、一族若党二十三人 皆灰燼ト成テ失ニケリ」(同書巻三桜山自害事)と滅んだ。
城跡には桜山慈俊を祭神とする桜山神社が創建された。
創建年代は不詳であるが、かつての神体は法体の木像で 裏書に長享二年(一四八八)と記されていたという(旧版「広 島県史」。
明和二年(一七六五)風のため社殿が倒れ、廃絶し たが、明治一六年(一八八三)社殿を再興、同四四年吉備津 神社随身門の北側、旧神宮寺跡に移建(同書)、慈俊の木像は位牌とともに桜山城跡の南側にある中興寺に保管され る。
なお桜山城には慈俊のあと吉備津宮祀官有木氏が居城したと伝える。
『広島県の地名』より引用。
桜山城
桜山城は、新市町市街地の北方約一・五㎞にある備後一宮吉備津神社の南側の丘陵上にある丘城で、鎌倉時代末期の元弘の乱で、笠置山に兵を挙げた補木正成に応じて挙兵した桜山玆俊の城として知られている。
位置的には神谷川によって開けた新市町北方の盆地西側丘陵群の端部で、北方の鳶尾城から延びる丘陵の先端部にあたる。
背後は一応空堀で切っているが、 比高も低く、山容もゆるやかなため、かならずしも守りは堅くないようで、山頂からの展望もあまりよくない。
ただ、北側には備後一宮である吉備津神社があり、吉備津神社裏山、 すなわち桜山城の尾根続きには、吉備津神社宮司有木氏の居城鳶尾城、また谷を隔てて南側正面には新市宮氏の 亀寿山城があって、周囲三方はこれら宮氏に 関係の深い一族に囲まれていることになる。
城の歴史は明らかで ないが、鎌倉時代末の応長元年、桜山茲俊に よって築城されたという説が有力で、元弘の乱では城主桜山茲俊は 弘元元年(一三三一)八 月に楠木正成に呼応して挙兵、一時は備後半 国を従えるほどになったが、九月の笠置城落城、十月の楠木正成の赤坂城落城などにより味方が減り、 敗北したため、翌年正月には一族と共に自害し、城も焼失したとされている。
しかし、その後についてはまったく記録がなく明らかではない。
なお、桜山氏 についても明らかでないが、備後在地の武士で、新市亀寿山城の宮氏の一族とする説が有力である。
城の遺構は、比高約四〇mの低丘陵頂部だけを空堀で区切って城郭とした ので、中央に長さ約五〇mの主郭を置き、その東・西・北三方の尾根上に一段 下げて郭を配置している。
各郭は規模こそ大きくはないが、それぞれかなりの比高をもたせ、盛土と削平により壁面を切り立たせた堅固なもので、実戦的色彩が強い。
また、これらの郭群の西側は尾根を空堀により分断しており、西ともその外側に若干の平坦地を続けたのち、さらにもう一重空堀をめぐらせ 守りを固くしている。
なお、南麓には桜山から延びる支尾根に挟まれた微高地に菩提寺、中興寺が あり、桜山茲俊の位牌・木像も安置されている。
また、中興寺のある微高地の北部斜面からは、かつて多数の土師質土器皿が採集されており、この周辺に居館があったことも考えられる。
『日本城郭大系』13より引用
城の歴史
応長元年(1311):桜山茲俊に よって築城されたと云われる。
弘元元年(1331):楠木正成に呼応して挙兵する。
弘元2年(1332):落城して自害する。
城主家系図
詳細は不明であるが亀寿山宮氏の庶流と言われる。
『西備名区』によれば宮(備後三郎)正盛の長男とある。
※この場合、父である宮正盛は備後国甲奴郡佐倉村(現在の広島県府中市上下町佐倉)地頭として任地に赴いたらしい。
また、亀寿山城主である、宮下野守正信が応長元年(1311)備後国守護職を賜わり下向したとあり、桜山玆俊も1311年に桜山城を築城したという伝承もあることから、この地で生まれたのではなさそうである。
太平記/巻第三
23桜山自害事
去程に桜山四郎入道は、備後国半国許打順へて、備中へや越まし、安芸をや退治せましと案じける処に、笠置城も落させ給ひ、楠も自害したりと聞へければ、一旦の付勢は皆落失ぬ。今は身を離ぬ一族、年来の若党二十余人ぞ残りける。此比こそあれ、其昔は武家権を執て、四海九州の内尺地も不残ければ、親き者も隠し得ず、疎はまして不被憑、人手に懸りて尸を曝さんよりはとて、当国の一宮へ参り、八歳に成ける最愛の子と、二十七に成ける年来の女房とを刺殺て、社壇に火をかけ、己が身も腹掻切て、一族若党二十三人皆灰燼と成て失にけり。抑所こそ多かるに、態社壇に火を懸焼死ける桜山が所存を如何にと尋るに、此入道当社に首を傾て、年久かりけるが、社頭の余りに破損したる事を歎て、造営し奉らんと云大願を発しけるが、事大営なれば、志のみ有て力なし。今度の謀叛に与力しけるも、専此大願を遂んが為なりけり。されども神非礼を享給はざりけるにや、所願空して打死せんとしけるが、我等此社を焼払たらば、公家武家共に止む事を不得して如何様造営の沙汰可有。其身は縦ひ奈落の底に堕在すとも、此願をだに成就しなば悲むべきに非ずと、勇猛の心を発て、社頭にては焼死にける也。倩垂迹和光の悲願を思へば、順逆の二縁、何れも済度利生の方便なれば、今生の逆罪を翻して当来の値遇とや成らんと、是もたのみは不浅ぞ覚へける。
現代語訳
その頃、桜山四郎入道は、備後国半分を手中にして、備中へ越えようか、安芸を落とそうかと思案していたところに笠置の城も落とされなさり、楠も自害したと噂が流れたので、一時味方に付いた者たちは皆逃げ失せてしまった。
今や身近な一族、長年仕えてきた若党二十人あまりだけが残っていた。
今はともかくその頃は、武家が権力を握って全国にわずかな土地も残っていなかったので、親しい者も自分たちをかくまってはくれず、縁の薄い者はましてあてにならない。
人手にかかって屍を曝すよりはと考えて、自分の国の一宮に帰り、八歳になった大切な子と、二十七になった長年連れ添った妻とを刺し殺して、社殿に火を掛け、自分も腹を切って、一族郎等二十三人、皆灰燼となって死んだ。
場所もあろうに、ことさら社殿に火を掛けて焼け死んだ桜山の考えはどういうことかと考えると、この入道はその社を深く信心して長年になるが、社殿の余りに傷んでいることを嘆いて、造営したいという大願を抱いたものの、大仕事なので、志だけはあって、その力が無い。今度の謀反に加担したのも、もっぱらこの大願を遂げようというためなのであった。
しかし、神は非礼をお受けにならなかったのであろうか、念願は叶わず、討ち死にしようとしたのだが、「我等がこの社殿を焼き払ったならば、公家・武家ともに、やむを得ず、きっと造営の沙汰があるだろう。
この身はたとえ地獄に落ちることになっても、この願さえ成就するならば、悲しむ必要はない」と、勇猛の心を起こして、社頭でこそ焼け死んだのだった。
仏や菩薩が主上救済の悲願を思えば、よいことをして仏縁を結ぶのも、悪事がきっかけで仏縁を結ぶのも、どちらも衆生を救い利益を与えるための方便なのだから、現世での悪行を逆に来世で仏縁に巡り会うことになるのではないかと、これも信心が浅くないことだと思われた。
「太平記」読み 五桜山自害のこと より引用。
所感
●南朝として散った武将であり、それが戦前の南朝再評価の時に大きく喧伝された。
●城の遺構は探しきれなくて、不明瞭なところばかりになったが、縄張り図からは相当大きな城に思える。
●近隣の城と連携して城を守っていたのではと思う。
関連URL
宮惣領家の城。
宮氏庶流である有地氏の城。
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/05/03