城データ
城名:黒岩城
別名:大月山城
標高:456m
比高:110m
築城年:永正・大永年間(1504~28)
城主:和泉三郎左衛門尉久勝(三郎左衛門尉信正)
場所:庄原市口和町大月
北緯:東経:34.912058/132.877218
攻城記
まずは松岳院に車を止める。
黒岩城址
黒岩城は中世戦国期の大永より文禄年代(1521年~1592年)すなわち16世紀前半から後半にかけて、当地方を支配した和泉氏の山城である。
領主については諸説があるが、和泉氏三代にわたったと伝えられている。
中世城郭の分類型式により、形態を規定すると
*全体が自然の山地を利用して構築された典型的山城である。
*城郭は大小十余の郭が階段状に連接して構成された多郭階段式山城である。
当時この地方は、山陰の尼子氏と山陽の毛利氏との争いの陰陽最前線にあたり、毛利氏にとって戦略的にも極めて重要な拠点として、三次盆地防衛の「前線砦」的な政治的・軍事的に重要な山城であった。
海抜456m、城郭部分の面積は3ha、頂上からは東に向かって脚下に大月集落および雲伯路に向かう向泉集落や大合戦橋が見下ろされ、遠くには釜峰山をはじめ中国山地の連峰が望見できる。
現在の駐車場は、大永年間に城主が開基した「松岳院」跡にあり、その前方約20mに参詣路の両側が巾3mの切割りとなり石垣が残っており、松岳院の山門跡と推察されるが、黒岩城の大手口も、このあたりと考えられる。
山頂には「アベマキの巨木」が林立し、その途中には「矢竹」の群生地もあり、山城らしい山相を示している。
また「シラカシ林」は分布的には、県最北端部に位置しており「ヤブツバキ・ベニシダ・ヤマツツジ」が群生し、自然美の宝庫でもある。
今は廃寺となった「松岳院」跡に昭和30年代に建立した「収蔵庫」があり、松岳院の本尊や松岳院に安置されていた城主の位牌や、古文書等々、黒岩城にまつわる宝物が収納されている。
また、付近に「八十八ヶ所札所地蔵」や「六地蔵」もある。
なお、北東側に「犬走り」(腰郭)跡があり、これを保存し、さらに史跡を後世に伝えるため、要所に石柱による標識を建立してある。
平成19年3月
庄原市教育委員会
金毘羅宮。
攻城開始。
南郭跡で広さはそこそこある。
一番広い。
この城は矢竹が多い。
三の丸にある井戸跡。
更に上を目指す。
神社の鳥居がある。
祠の基壇か。
本丸跡。
口和町には山城が多い、おそらく多くの戦があったのであろう。
麓の田園風景。
池といえば池っぽい。
周辺部。
全体的に曲輪の加工度も高い。
大合戦跡
余湖図【黒岩城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【黒岩城】
拡大図。
城の概要
1郭は北端がやや高く、南東に虎口が開く、3郭には井戸がある。
1郭から東に延びる尾根上にも郭郡があり、これらと4郭は通路で結ばれている。
東麓の松岳院跡は居館として機能したものであろう。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
黒岩城
黒岩城は、口和町大月の苧瀬(荻ケ瀬)で竹地川と宮内川が合流する地点の西 方約一㎞に位置している。
この城は、南に延びる比高差のある丘陵上に本丸を設け、その南に向かって 二の丸・三の丸と階段式に郭を配置し、本丸の背後は深い空堀で交通を断っている。
城主である和泉氏の出自は明らかではないが、『芸藩通志』には、初代久勝より久正までの三世の在所と記しており、初代の久勝は、『西備名区』 信正・信行・久正と記載のある人物のうちの信正のことで 初代久勝(信正)から二代の信行への交替は、『西備名区』によると、信正は当地の南方の三次地方に勢力を張る三吉宗隆(宗高・致高)の聟にあたり、近隣の山内氏や山内氏の一族の高野山(多賀山)氏などが尼子氏に属していたように、 嫡子信行を人質として尼子氏の富田城に送って従属していた。
ところで、三吉宗隆は、信正に対し、当時、隆盛の途上にあった毛利元就に属するよう、再三にわたって勧めていたが、これを断わっていた。
しかし、おもな家臣は、三吉宗隆の意見によって毛利氏に属することを望み、原勘兵衛・同但馬・間鍋五郎左衛門・秋山伊勢守などが謀議して、大永六年(一五二六)六月十三日に信正を殺害し、嫡子信行が尼子氏の富田城から帰って第二代の城主となり、富田城へは家臣の石田尾張守の嫡子孫三郎が人質となり、信行は毛利氏に従ったという。
黒岩城の東麓の松岳院跡には、「大永六丙戌年六月十九日、捐舘前泉州太守春林玄勝大居士」の位牌がある。
これが殺害された信正、すなわち初代の久勝 とみられる。
第二代の信行は、尼子氏を離れて毛利氏に属したが、天文二十年(一五五一) に陶晴野の大内義隆殺害によって、県北の諸豪族は動揺をきたし、とくに三次市東部に勢力をもつ江田氏が尼子氏に属したため、毛利方は、同二十二年に江田氏を攻撃するところとなった。
このため、江田氏救援のため、尼子方は富田城を発し、毛利方は和泉氏の黒岩城に拠って、これを迎撃した。
この合戦を和泉合戦と呼んでいるが、『陰徳太平記』によると、毛利方は先陣が吉川元春を大将として、 熊谷・香川・飯田の各氏ら国人衆二 千余騎に、和泉入道父子(和泉三郎五郎信行・同三郎久正)が加わり、 後陣に毛利元就・隆元の二千余騎が 控えた。
これに対して、尼子方は先 陣に尼子誠久や卯山・米原・疋田の 二千余騎、二陣に尼子敬久と牛尾・ 桜井ら一千余騎、後陣には尼子国久が二千余騎の手勢をもって控え、黒岩城の東方約一㎞の芋瀬(荻ケ瀬)の橋を挾 んで対峙し、合戦が始まった。
戦況は、一進一退のうちに大雨が降り、尼子方 は川を渡ることができないため、本城を抜くことができず、結局、撤収したという。
このことは、尼子氏の影響が弱くなっていることを示しており、尼子方であ った鎌倉以来の名族江田氏の滅亡につながるもので、また、甲山城(庄原市山 内町本郷)に拠って県北に勢力をもつ山内氏が尼子氏から離反する一因ともなった。
なお、和泉信行は、この合戦の功により笠野山城(三次市糸井町)を毛利元就から与えられた。
第三代の久正は、三吉氏の所領で三吉氏の本拠に近い三次市上里に福谷山城を築いており、三吉氏の家臣となっていたことを物語っている。
黒岩城の本丸は、三五m×二〇mで、その南に九m下って一〇m×三〇mの二の丸があり、この二の丸からさらに一二m下ると三〇m×二一mの広い三の丸がある。
なお、この三の丸には東北隅近くに、径二m×二・五mの井戸がある。
三の丸の下にも七m下って一六m×三〇mの郭と小郭を設けており、大手道が付いている。
本丸の西側は約九m下って小郭を設け、北側にも三m下って、やはり小郭を 設けて備えを堅固にしている。
また、北側のこの小郭から東に九m下って、ま た小郭があり、さらに一五m下にも小郭を配置している。
このほかにも途中に小郭をいくつか設け、最下段には一四m×二七mの郭を配しているが、この郭群は、南に配置された郭群とはやや趣が異なることから、新たに加えられた郭群ではないかとみられる。
城主である和泉氏の菩提寺は、黒岩城の西側の谷奥に三段の平地があって光善寺跡と伝えている。
また、近傍に城主の墓と伝えているものがある。
和泉合戦における尼子方の陣地として、『西備名区』には「こしき岩山」「重信山」「柞山」「八幡山」など、多くの地名を記している。
また、苧瀬に近い万福寺跡も尼子方の陣地と伝えており、苧瀬には大合戦橋の名が残っている。
このほか、黒岩城の付近には市場・土居・大番橋・弓ケ原・番久・殿屋敷の地名や、上堀・下堀・テッポウヤ・バテイヤ・ヤリヤなどの屋号が残っている。
また、当地の若一王子社は第三代の久正が天正十二年(一五八四)に勧請したものである。
ところで、和泉氏の所領は、黒岩城の東北方にその出城とみられる茶臼山城 と信安城が存在することから、口和町の西部の大部分と、黒岩城の西方で、現在、君田村泉吉田の地を眼下にする小地域とみられ、のちに三吉氏の勢力下にある三次市糸井町の笠野山城、同市上里の福谷山城の周辺地を加えている。
その後、毛利氏の広島城築城と、慶長五年(一六〇〇)の防長移封にともない、黒岩城は廃城となったようである。
『日本城郭大系』13より引用。
泉氏
大月の黒岩城を本拠として口和町西部を支配していた泉氏について、『芸藩通志』は黒岩城主として「泉久勝より三世久正まで所居」とし、『西備名区』では「信正・信行・久正」という系譜をあげている。
大永元年(一五二一)泉久勝が多加意加美神社へ御神体を寄進したと伝え、また同社を天正四年(一五七六)再建したときの棟札に「大檀那 辛巳藤原久正同子息藤原長久」とあり、久正・長久父子は実在の人物であったことが知られる。
泉氏の出自については、名前から推して地元向泉に生まれ成長した武士で、口和町西部を勢力範囲にしていたと思われる。
また、根拠は薄いが、三次の三吉氏系図(三次町国郡志所載)に室町時代前期の人物として、泉五郎なる名前がみられ、戦国末期には三吉方について行動しているので、三吉氏からの分流の可能性も考えられる。
戦国時代を迎え、泉氏ははじめ尼子方に従ったが、後に毛利方の三吉氏と主従関係を結ぶようになり、天文二二年の泉合戦では黒岩城が毛利軍の本陣になった。
『芸藩通志』は現三次市三次町にある福谷山城について「福谷山城上里村にあり、泉三郎五郎久正が所居、泉は三吉家士なり」としている。
これは、三吉広高がこれまでの比叡尾山城に代わって三次町に新しい城下町を建設して、天正一九年(一五九一)比熊山城へ移るが、このときの家臣団の城下町集中政策として泉氏は大月を離れ、旧領を失って右の新領を与えられたのかもしれない。
城郭部会城跡調査報(比婆郡口和町)より引用。
【街道編 雲石街道(阿井越) その1】
三次 ― 宮内 ― 高野 ― 出雲仁多郡へと通ずる雲伯街道は、戦国時代毛利と尼子が北備の覇権をめぐって、いくたびか干戈を交え、軍馬のいななき、旗鼓が峡間にあふれたみちであった。
君田の泉吉田から「しんぎょうだお」を越すと口和町大月に入る。この峠の「地名については諸説があり、新業峠、新境峠、信行峠、心経峠、新郷峠、神御峠など、何れも定説はない」(小豆原たまき著『君田春秋』)という。
大月の黒岩城は和泉氏が本拠とした山城で、小規模ながら城郭もよく整った名城で、麓に大月の集落を従え、北に向泉盆地をへだてて遠く八国見山や、湯木氏の本拠であった釜峯山城を睥睨(へいげい)している。
戦国時代に備北で活躍した武士たちの多くは、鎌倉時代に新たに東国から入ってきた、いわゆる関東御家人(ごけにん)の子孫であるが、この口和町の和泉と湯木の両氏は、そのような系譜を伝えていない武士で、はっきりしたことは不明だが、地元で生まれ育った地侍(じざむらい)であった可能性もある。
現在君田村域にある泉吉田について、文政3年(1820)頃に書かれた恵蘇(えそ)郡の記録に「現在は三次郡になっている櫃田・泉吉田・西入君の4カ村は以前は恵蘇郡であったが、いつの頃にか三次郡になった。
現在も櫃田・泉吉田の氏神社の祭礼は(恵蘇郡の)向泉村の神主が勤めている」(「恵蘇郡辻書出帳」、『比和町誌』による)とあり、現在の君田村北部は中世には泉氏の支配下になっていて、泉吉田という地名も「泉氏の支配する吉田」という意味から生まれた地名であろう。
戦国時代、この地方の国人衆たちは、大内・毛利氏と尼子氏のはげしい対立のはざまの中にあって、どちらに付くべきか一族の存亡をかけた去就に迷った。
『陰徳太平記』も「実(げ)にや人の心の定めなさは、雲となり雨となり朝変暮化する備雲石の国人共」と嘲っている。
黒岩城主和泉信正は、周辺の国人衆が毛利方へ転ずる中で依然として尼子方に属し、嫡子三郎五郎の舅である三吉氏の、毛利方へ一味同心をという再三の勧めにがえんじなかった。
そのため三吉氏の内意をうけた和泉の家老たちは、主君信正を雪見と偽って城外に連れ出し、ついに殺し、尼子へ人質として差出してあった嫡子三郎五郎を計画をもって黒岩城へ連れ戻し城主となし、毛利・三吉方へ与したという。
大月から対岸の向泉へ渡る竹地谷川にかかる橋に「大合戦橋(おんがせばし)」がある。
天文22年(1553)5月、毛利元就が僅か数千の軍勢を率いて三次盆地へ出陣したのを、尼子晴久は毛利氏攻略の絶好のチャンスととらえて、2万の軍勢を催して中国山地を南下し、湯木氏の本拠釜峯山城(口和町湯木)へ入り、さらに向泉へ兵をすすめ、大月の黒岩城に入った毛利勢と竹地谷川を挟んで対峙した。
何度めかの毛利・尼子の直接対峙である。
「橋ノ上ノ戦ヒ既ニ火出ル程ナリト雖モ、此程ノ梅雨ニ水重増リテ逆流奔水岸ヲ浸シ、唯橋一条ヲ頼ンデ追越追越、モミニモンデゾ戦ヒケル」(『陰徳太平記』)激戦の中で、毛利方の作木の住人佐久木新右衛門が、尼子方の武将米原左馬允の首級をあげる武勲をたて、寡勢よく尼子方に打撃を与え、渡河を許さず、またも尼子勢は空しく引揚げた。
大合戦橋というのは、いかにも古戦場跡にふさわしい名前であるが、竹地谷川は古くは苧ガ瀬(おがせ)川といい、『比婆郡誌』には寛政7年(1795)の「向泉村書出帳」によるとして、大合戦橋の語源は苧ガ瀬橋にあるとしている。
この天文22年の戦いで、毛利勢は尼子方の江田氏を滅ぼし、また備北最大の国人衆山内氏を味方に付けて、背後の備北を安泰にしたうえで、待望の長州を平定し、さらに宿敵尼子氏を征服して中国地方の覇権を手中にするにいたるのである。
『ふるさとの峠と街道 雲石街道(阿井越) その1』より引用。
城の歴史
大永6年(1526):近隣の豪族である三吉氏が毛利氏に属することを勧めるも和泉信正はこれを拒否、家老等により殺害され、尼子氏の人質になっていた嫡男の信行が当主となる。
※信行は毛利に属する。
天文22年(1552):三次市東部に勢力をもっていた江田氏が尼子氏に属していた山内にそそのかされて、大内氏から尼子氏に属する。
その為、江田氏を討伐する為に毛利氏が動き、江田氏救援の為、尼子氏が南下してくる。
毛利氏は和泉氏の黒岩城に拠ってこれを迎撃する。
詳細は『陰徳太平記』詳しく記載。
『陰徳太平記 合本二』より引用
【和泉合戦戦力】陰徳太平記から
【尼子方】
一陣:湯木、尼子国久・卯山・米原・疋田の2,000騎
二陣:尼子左衛門(敬久)・牛尾・桜井の1,000騎
三陣:尼子紀伊守(国久)(新宮党)の2,000騎
本陣:尼子晴久の15000騎
合計:20000騎
先陣:和泉入道父子(和泉三郎五郎信行・同三郎久正)、吉川元春・熊谷・香川・飯田・山田・福島氏の国人衆2,000騎
本陣:毛利元就・隆元の2,000余騎
合計:4000騎
洪水も影響もあるかもしれないが、毛利軍の5倍の兵力があるので、雨がやんでから軍を立て直して攻めれば勝てるような気もする。
その後
2代目、和泉信行は旗返城落城後に近隣の笠城山城を毛利元就から与えられる。
3代目、和泉久正は三次上里に福谷山城を築く。
※三吉氏の家臣化したか。
城主家系図【推測】
『城主三吉家系譜之写』より。
正式なものではなくあくまでも文献からの推測になる。
疑問
大永6年(1526)年ころに当時隆盛だった毛利氏に属するように三吉氏の勧められたとの記述には疑問が残る。
①大永5年(1525)に尼子氏と決別するが、この頃の毛利氏はまだ国衆の1人に過ぎない。
②三吉氏がすでに毛利氏に属しているような雰囲気があるが、大永7年(1527)に尼子氏が毛利氏と三次で合戦を行う(細沢山合戦)
この時、尼子氏が三吉氏の本拠であるこの地域に陣城を築いており当時三吉氏は尼子氏に属していたと思われる。
③和泉信正は家老に殺されて、尼子氏の人質になっていた嫡男の信行が当主になり、また、尼子氏には家臣の石田尾張守の嫡子孫三郎が人質となったと云われるが、尼子氏がこれを許すとは思えない。
④毛利氏がこの地方にも発言権を得られるのは天正22年(1552)4月3日付の三吉氏起請文で三吉氏が毛利氏に属したため、それ以降だと思われる。
『毛利家文書223』より
上記の事から、大永6年の和泉信正殺害に関しては毛利氏の影響ではないと判断、例えば信正と家老等の対立や三吉氏と家老等の利害が一致したなどで信正が殺害されたと考えた方が自然な気がする。
注意点
●『日本城郭大系』13では信正が三吉到高の娘聟。
●『ふるさとの峠と街道 雲石街道(阿井越) その1』では信行が三吉到高の娘聟。
●三次市史{古代・中世文献資料編」では久正が三吉到高の娘聟(隆亮の妹)
となっており混乱がみられる。
城主(一族)石高
詳細不明、戦国時代末期には三吉氏の家臣となっていたと思われる。
所感
●城の造りはよく堅牢さがある。
●麓の松岳院跡に宝物館(といってもフレハブ)があるが鍵がかかって見えないどうも位牌などがあるみたいだ。
●城主の墓が二の丸と三の丸の間にあるみたいだったが看板がなく発見できなかった。
●伝承に混乱が見られるが、当時和泉氏がいたことに間違いはない、戦国時代を生き残った和泉氏は三吉氏家臣となり萩にいったものもいれば、在地に残ったものもいたと思われる。
関連URL
和泉合戦で活躍した佐久木氏の城。
黒岩城攻防戦以降に毛利氏が攻め落とした城。
参考URL
参考文献
『陰徳太平記 合本二』
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/04/09