城データ
城名:篠津原館跡群
別名:無し
標高:430m
比高:0m
築城年:不明
城主:家臣団の居館跡、雲井城の城主も居住していたか。
場所:広島県庄原市小用町
北緯:東経:34.866422/133.079892
攻城記
武家屋敷跡
この武家屋敷跡は、中世の武家屋敷の様式を明らかに残すもので、西方に険しい山を負い、北東南の三方には堀と土居をめぐらしている。
土居の中の面積は約40aあり、堀には今尚水をたたえ、当時の姿が完全に残っている。
この屋敷跡には何人が住んでいたのかは不明であるが、ここから500m北方にある篠津原城(要害山標高650m)の城主、あるいはその家臣が住んでいたと思われる。
堀跡。
今でも水を湛えている。
土塁か。
館跡。
前方の山は雲井城。
位置関係
余湖図
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
福山城跡の南麓、雲井城跡の西から南にかけての裾野に館跡郡が広がる。
全域の詳細分布調査は実施していない。館跡郡のうち、最大級の規模の二つの遺跡(A・B)を図化した。
Aは27m×35mの規模で、西端に切岸部分を石垣で固めた桝形がる。この北西下に二段の平坦面が広がり、不形成な緩斜面のさらに先端に20m×25mの郭がある。この郭の北西辺の中央部に坂虎口があり、これより南側の切岸は石垣となる。
Bは高池と小用池の間に位置し、土塁と堀に囲まれた70m×30m程度の規模である。東辺中央にある虎口は土塁と堀に囲まれている。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
篠津原城
篠津原城は、眼下に西城川によって開かれた水田地帯を望み、北方六・五㎞には宮氏の拠る大富山城、西方には山内氏の本拠である甲山城を何の障害もなく見通し、南方の本村川流域の諸城もまた眼下におさめている。
この城は、狭義には地元で要害山と呼んでいる標高約六六〇mの山頂の遺構のことをいい、広義には要害山の前方にある標高四七四mの前要害山福山城と、 その南の龍王山から篠津原と呼ばれている小盆地一帯に群在する館跡および中 世武家星敷跡群を包括している。
これらの遺跡は、全体とて密接に関連をもつものであり、また、西方にある城の越城、南方の笹丸城など、周辺の出城とも防衛上の関連をもっている。
本城は、山内氏の支城のうちでは、北方の比婆郡高野町の部山城とともに、 東方の守りとして、特に重要であったとみられ、古文献による城主名のうち、 田中河内守を除いては山内氏とその有力な庶家である。
なお、田中河内守は戦国末期頃の人物で、篠津原城の南方約四㎞の、庄原市本村町と高門町との境にある篠津原城の支城にあたる笹丸城の城主で、北方の大富山城に拠る宮氏との 抗争が激しくなる弘治~永禄二年(一五五五~五九)頃に、城代あるいは守将の 一人であったとみられる。
山内氏が、この地域に入って来たのは、建武五年(延元三、一三三八)に通資 の子通時が、足利尊氏から信敷荘東方を与えられたことによる。
篠津原城とその南にある篠津原の武家星敷跡群は、高荘との境に位置しているため、通時に与えられた信敷荘東方の地に、この地域が入っていたのか否かは明らかでない。
ところが、地形的には、信敷荘を西南流する本村川の支谷が篠津原から開けて いるので、支配地としていたものとみられる。
篠津原城や篠津原の中世武家屋敷跡群は、後述するように戦国期の種種の特徴を備えているので、戦国時代以前に築造されていたとは考え難い。
また滑 (滑良)氏は通時からこの地の地頭職を譲られているが、この滑氏による築城とするにも時期的になお疑問がある。
通忠の代になると、応安七年(文中三、一三七四)に、幕府から西城川流域の高郷を与えられており、篠津原城や福山城の築城は少なくともこののちとみられる。
山内氏は、この高郷をめぐって、北方の大富山城に拠る宮氏とたびたび紛争を起こしていたらしく、篠津原城・福山城の築城と篠津原の武家屋敷群の形成は、信敷荘および高荘を合わせて、より強固な支配を進め、宮氏に対抗するためのものであったとみられる。
永禄二年には、篠津原やその北方の西城川。 段司河原で、宮景盛と田中河内守が戦っているが、この頃がもっとも緊張して いた時期であろう。
要害山山頂の狭義の篠津原城は、標高六五九mの山頂尾根上に、長さ約二〇〇mの規模で西に下って階段式に郭を配置している。
本丸は、二四m×一六mで、中央に井戸があり、東側には幅二~三 を配置して石垣を築き、ここを通って本丸に入ることが できる。
本丸の三m下には、西から南にめぐる一部に石垣を築いた郭がある。
二の丸に相当する郭は、四つの段からなり、石垣を築いた場所が多く、南側に腰郭を設けて本丸と連絡している。
なお、この腰郭の下方には大きな竪堀がある。
三の丸に相当する郭は、南北一五m×東西七〇mの大 きな郭で、北西側に腰郭を設けているほか、西側に一段 低く小郭を配し、南側には三段からなるやや大きな郭を 設け、井戸がある。
三の丸から、さらに西方に下ると石垣を築いた細長い郭があり、大手としている。
前要害山の福山城は、六〇m×一三五mの山頂の 郭と、その東側の四〇m×一五~二五mの郭と二五m× 約五mの小郭とからなり、滑(滑良)十郎左衛門が守った という。
なお、福山城とは谷を隔てた標高四五三mの龍王山も城として利用されていたとみられる。
武家屋敷跡群は、福山城の南方にあって、立地や遺構の状態などによっていくつかの群に分けることができる。
また、福山城と龍王山に囲まれた屋敷跡群は、篠津原城の大手筋にあたるためであろうか、石垣を築き、なかには城郭の一部とみられるような繩張りの場所もある。
龍王山南側の高池・小用池一帯にかけての武家屋敷跡群は、面積が大きく、単独で存在するものや、西に下る丘陵上に階段状に配置されているもの、広がりをみせ散在するものなどがある。
またこれらの屋敷跡 には、門・井戸・石垣・石段・土塁などが設けられており、特に門跡とその通路には、近世初期の様式に類似したものがみられる。
高池と小用池との間にあるこれらの屋敷跡群の中核とみられる館跡は、西側背後を急峻な丘陵で守り、東・南・北の三方を塁と堀で囲み、東側には近世内桝形の初期の型式に似た門跡がある。
また、この館跡内には泉水跡が残っている。
これらの武家屋敷跡群のうち、その南限の一部は、中国縦貫自動車の建設工事にともなって、昭和五十年に発掘調査が行なわれ、遺構の状態や遺構からみて戦国時代に築かれたものであることが明らかになった。
天正十九年(一五九一)に、毛利氏が広島城に移ったことから、山内氏も従い、さらに慶長五年(一六〇〇)の毛利氏の防長移封によって、篠津原福山城、篠津原中世武家屋敷は放棄されてしまった。
『日本城郭大系』13より引用
城の歴史
詳細は不明であるが、雲井城と同じ歴史を歩んだと思われる。
天正14年(1586)の知行書に高小用として100貫が記載されている。
所感
●かなり広範囲に館跡があり、この雲井城や福山城の城主や家臣の家族が生活していたと思われる。
●すべての調査をしてみると新たな発見があるかもしれないが広範囲の為一部にとどめた。
●現在は植林しているが当時はそのあたりもすべて屋敷跡だと思われる。
●小用池を目指していけばすぐにたどり着ける。
●当時、ここでどのような生活をしていたのかを想像すると楽しさも広がる。
関連URL
参考URL
参考文献
『庄原市の歴史 通史編』
『久代記』
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/04/03