城データ

城名:雲井城

別名:篠津原城、要害山城

標高:659m

比高:380m

築城年:戦国時代か

城主:田中河内守、滑兵庫介、滝口通英などが考えられる。

場所:広島県庄原市高町

北緯:東経:34.875184/133.087647

雲井城はここ

 

攻城記

道なりに進む。

山腹で分岐する。

 

石垣が特徴である雲井城。

本丸。

高村を臨む。

福山城の見える。

本丸南東の曲輪。

河原石が散乱している。

 

雲井城石垣

雲井城の特徴として石垣の多用があげられる。

宮氏との戦いを想定して強固な城を築城したのか、他に理由があるのか分からないが、庄原市のなかでも屈指の石垣を誇る。

平積みでの石垣ではあるが高さもある。

先端部分。

大堀切。

 

千人塚

天文22年(1553)若しくは永禄2年(1559)に山内隆通の家臣田中河内守と宮景盛の家臣奥宮豊後守が戦っており、その戦死者を弔った千人塚が世尊寺の入口にある。

 

 

位置関係

 

余湖図【雲井城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

『芸藩通志』【雲井城】

拡大図。

城の概要

最高所の1郭ほどには径約2mの井戸がある。この1郭から南西尾根上に郭が並び、所々に石垣が多様されている。

郭群をつなぐ通路は南側を通っている。北西麓からの登城路は2郭北西端に取り付く。

 

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用

 

要害山山頂部分が雲井城で、標高654mの山頂に本丸があり、水田地帯との比高は400m、篠津原との比高は240mあり、急斜面で守られる。

南北に延びる郭は全長約200mあり、石垣の規模も大きい、山麓北端の郭から山頂中央部へ幅2m前後の大手道が通じる。要害山背後にそびえる

大目黒山は山内氏の居城甲山城から見通しがよく、山頂に狼煙台として用いられた巨石がある。

 

雲井城

雲井城は要害山山頂にあたる長さ約二二〇メートルの尾根全体を一体的に加工して城 域とする。

 

最高所の北東端に主郭を置き、各郭間の一体性を強調した構造である。

 

また、要所に石垣を使用していることから、城郭全体の一体 性を確保しながら、各郭の防御をより強固にしているといえる。

 

このように、本城と支城の関係にあると思われがちな両城郭であるが、少なく とも築城の時期差を考慮する必要がある。

 

戦国期山城の特徴をよく残す福山城に対して、雲井城の構造的特徴はやや新しい時期を示すと考える。

 

山麓の土居その他の遺跡群も石垣・石組を使用したものが多く、全体的密集・連携した構造をもつ点、土居の中には小規模ながら枡形虎口をもつものが認められる点、そして、雲井城(要害山)をとりまくように分布する点など、比較的新しい時期に構築されたものと考えられる。

 

『庄原市の歴史 通史編』より引用。

 

 

篠津原城

篠津原城は、眼下に西城川によって開かれた水田地帯を望み、北方六・五㎞には宮氏の拠る大富山城、西方には山内氏の本拠である甲山城を何の障害もなく見通し、南方の本村川流域の諸城もまた眼下におさめている。

 

この城は、狭義には地元で要害山と呼んでいる標高約六六〇mの山頂の遺構のことをいい、広義には要害山の前方にある標高四七四mの前要害山福山城と、 その南の龍王山から篠津原と呼ばれている小盆地一帯に群在する館跡および中 世武家星敷跡群を包括している。

 

これらの遺跡は、全体とて密接に関連をもつものであり、また、西方にある城の越城、南方の笹丸城など、周辺の出城とも防衛上の関連をもっている。

 

本城は、山内氏の支城のうちでは、北方の比婆郡高野町の部山城とともに、 東方の守りとして、特に重要であったとみられ、古文献による城主名のうち、 田中河内守を除いては山内氏とその有力な庶家である。

 

なお、田中河内守は戦国末期頃の人物で、篠津原城の南方約四㎞の、庄原市本村町と高門町との境にある篠津原城の支城にあたる笹丸城の城主で、北方の大富山城に拠る宮氏との 抗争が激しくなる弘治~永禄二年(一五五五~五九)頃に、城代あるいは守将の 一人であったとみられる。

 

山内氏が、この地域に入って来たのは、建武五年(延元三、一三三八)に通資 の子通時が、足利尊氏から信敷荘東方を与えられたことによる。

 

篠津原城とその南にある篠津原の武家星敷跡群は、高荘との境に位置しているため、通時に与えられた信敷荘東方の地に、この地域が入っていたのか否かは明らかでない。

 

ところが、地形的には、信敷荘を西南流する本村川の支谷が篠津原から開けて いるので、支配地としていたものとみられる。

 

篠津原城や篠津原の中世武家屋敷跡群は、後述するように戦国期の種種の特徴を備えているので、戦国時代以前に築造されていたとは考え難い。

 

また滑 (滑良)氏は通時からこの地の地頭職を譲られているが、この滑氏による築城とするにも時期的になお疑問がある。

 

通忠の代になると、応安七年(文中三、一三七四)に、幕府から西城川流域の高郷を与えられており、篠津原城や福山城の築城は少なくともこののちとみられる。

 

山内氏は、この高郷をめぐって、北方の大富山城に拠る宮氏とたびたび紛争を起こしていたらしく、篠津原城・福山城の築城と篠津原の武家屋敷群の形成は、信敷荘および高荘を合わせて、より強固な支配を進め、宮氏に対抗するためのものであったとみられる。

 

永禄二年には、篠津原やその北方の西城川。 段司河原で、宮景盛と田中河内守が戦っているが、この頃がもっとも緊張して いた時期であろう。

 

要害山山頂の狭義の篠津原城は、標高六五九mの山頂尾根上に、長さ約二〇〇mの規模で西に下って階段式に郭を配置している。

 

本丸は、二四m×一六mで、中央に井戸があり、東側には幅二~三 を配置して石垣を築き、ここを通って本丸に入ることが できる。

 

本丸の三m下には、西から南にめぐる一部に石垣を築いた郭がある。

 

二の丸に相当する郭は、四つの段からなり、石垣を築いた場所が多く、南側に腰郭を設けて本丸と連絡している。

 

なお、この腰郭の下方には大きな竪堀がある。

 

三の丸に相当する郭は、南北一五m×東西七〇mの大 きな郭で、北西側に腰郭を設けているほか、西側に一段 低く小郭を配し、南側には三段からなるやや大きな郭を 設け、井戸がある。

 

三の丸から、さらに西方に下ると石垣を築いた細長い郭があり、大手としている。

 

前要害山の福山城は、六〇m×一三五mの山頂の 郭と、その東側の四〇m×一五~二五mの郭と二五m× 約五mの小郭とからなり、滑(滑良)十郎左衛門が守った という。

 

なお、福山城とは谷を隔てた標高四五三mの龍王山も城として利用されていたとみられる。

 

武家屋敷跡群は、福山城の南方にあって、立地や遺構の状態などによっていくつかの群に分けることができる。

 

また、福山城と龍王山に囲まれた屋敷跡群は、篠津原城の大手筋にあたるためであろうか、石垣を築き、なかには城郭の一部とみられるような繩張りの場所もある。

 

龍王山南側の高池・小用池一帯にかけての武家屋敷跡群は、面積が大きく、単独で存在するものや、西に下る丘陵上に階段状に配置されているもの、広がりをみせ散在するものなどがある。

 

またこれらの屋敷跡 には、門・井戸・石垣・石段・土塁などが設けられており、特に門跡とその通路には、近世初期の様式に類似したものがみられる。

 

高池と小用池との間にあるこれらの屋敷跡群の中核とみられる館跡は、西側背後を急峻な丘陵で守り、東・南・北の三方を塁と堀で囲み、東側には近世内桝形の初期の型式に似た門跡がある。

 

また、この館跡内には泉水跡が残っている。

 

これらの武家屋敷跡群のうち、その南限の一部は、中国縦貫自動車の建設工事にともなって、昭和五十年に発掘調査が行なわれ、遺構の状態や遺構からみて戦国時代に築かれたものであることが明らかになった。

 

天正十九年(一五九一)に、毛利氏が広島城に移ったことから、山内氏も従い、さらに慶長五年(一六〇〇)の毛利氏の防長移封によって、篠津原福山城、篠津原中世武家屋敷は放棄されてしまった。

 

『日本城郭大系』13より引用

 

城の歴史

応安7年(1374):山内通忠が高郷の地頭職を得る。

『山内家文書57』

 

宮氏が進出しており一時期この地域を支配される。

『山内家文書177』

この文書から「宮高方知行分」として宮氏が支配していたことが分かる。

 

天文22年(1553)若しくは永禄2年(1559):高村の支配権をめぐり大富山城の宮氏と戦う。

※『久代記』に詳しい。

 

天正14年(1586):この頃には高村も山内氏の支配が及んでいる。

『山内家文書304』

高小用で100貫とある。

 

城主家系図

城主もしくは、戦の時の指揮官として以下の人物があげられる。

 

田中河内守:田中河内守は門丸の笹丸城主であった 団司川原の戦いで活躍する。

滑兵庫介:福山城の城主が滑十郎左衛門とあるので同一人物かその一族と思われる。

滝口通英:西備名区では山内家の庶流とある(山内の初めのころは滝口と称していた 山内俊通=滝口刑部丞 山内経俊=滝口三郎)ということはこれらの子孫の庶家なのかもしれない

 

滑氏

高村と宮氏

高地方は1374年(応永7年)頃に山内氏が地頭職を得ているが、ある程度の時を宮氏の所領となっていたのではないかと思われる。

 

高の熊野新宮(吉備津神社)は備中吉備津宮を勧請して、相伝に紀伊より熊野権現を勧請したものと伝える『比婆郡誌』

 

吉備津神社は宮氏の関連の神社(守護神)であり、また備後一宮吉備津神社(現福山市新市町)に高村や小用村の一部を寄進しているので(年次不詳「塩冶氏盛書状」、地域支配を確実にしていたと思われる。

 

「山内首藤家文書」では「宮高方知行分高郷」とあり、在地名から「高宮氏」を名乗っていた一族がいる。

※これが久代宮内からの庶家なのか、それとも備南から分かれた庶家なのかは不明。

 

 

城主(一族)石高

山内氏の所領の為詳細不明。

 

所感

●見どころは何と言っても石垣群、これを見れれば400m弱の比高も頑張れる。

 

●当時この地域でこのレベルで石垣があるのが不思議。

 

●高村が宮氏と山内氏の所領の境で小競り合いが繰り広げられる。

 

●南西の麓には篠津原館群として館跡が広がっている。

関連URL

【広島県】福山城【庄原市高町】

【広島県】篠津原館跡群【庄原市小用町】

 

参考URL

城郭放浪記(雲井城)

篠津原雲井城跡(庄原市高町)

古城盛衰記(雲井城)

 

参考文献

『庄原市の歴史 通史編』

『久代記』

『日本城郭大系』13

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』

『広島県の地名』

『広島県地名大辞典』

『広島の中世城館を歩く』

『萩藩諸家系譜』

『毛利八箇国御時代分限帳』

『萩藩閥閲録』

公開日2022/04/02

 

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