城データ
城名:福山城
別名:無し
標高:477m
比高:200m
築城年:不明
城主:滑十郎左衛門
場所:広島県庄原市高町
北緯:東経:34.880205/133.080401
攻城記
中央の山が福山城。
看板も設置されており分かりやすい。
どんどん進んでいく。
ここから急になってくる。
山腹で分岐点がある。
雲井城方向。
曲輪へ到着。
何段にも加工されている。
麓を臨む(西城方面)
二の丸東の土塁
本丸。
本丸から見た、田園風景。
本丸より一段下がった場所の曲輪。
ここから北へ進むと細長い曲輪へ到着する。
堀切跡。
周辺部。
千人塚
天文22年(1553)若しくは永禄2年(1559)に山内隆通の家臣田中河内守と宮景盛の家臣奥宮豊後守が戦っており、その戦死者を弔った千人塚が世尊寺の入口にある。
位置関係
余湖図【福山城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【福山城】
拡大図。
城の概要
東西に延びる山頂郭群、ここから西下に続く小郭群と北に延びる細尾根上の郭群、及び堀切などからなる。
最高所の1郭が45m×5~20mの規模で、北側に通路が取りつき3m下の郭につながる。
1郭の東に2m低く2郭があり、南西端に虎口が開き南下の堀切に続く。
2郭の北下3mから幅5m弱の通路が北に延び、先端にわずかな平坦面がある。その下5mに土橋を伴う深さ0.5mの堀切があり、ここから北側に4段の長大な郭が広がる。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
福山城跡
要害山(雲井城)は山城立地の理想とされる孤立した山(男山)に近い山容であるが、尾根続きで前要害山(福山城)があり防衛上、その山頂に出城福山城を置いたと思われる。
小型であるが北方の宮氏の侵入に備えるには格好の位置にある。「芸藩通志」に「首藤より、滑十郎左衛門をして守らしむ」とある。
要害山北西山遺跡、要害山中腹から延びる三つの尾根と谷を余すところなく活用し、郭、堀、土塁などを設けているが、北に向かうほど入念、大規模である。桝形・土橋・堀内道・十文字土居や右前の坂などさまざまな築城技術を駆使している。
福山城
福山城は雲井城の主郭から伸びる尾根先端に位置し、尾根の鞍部によって半ば独立した山容を見せる。
その最高所に主郭を置き、山頂から放射状に伸びる尾根に郭や堀切を備えて防御する。
北に伸びる尾根には長大な郭を配して、この方向を強く意識した構造となっている。
『庄原の歴史 通史編』より引用。
篠津原城
篠津原城は、眼下に西城川によって開かれた水田地帯を望み、北方六・五㎞には宮氏の拠る大富山城、西方には山内氏の本拠である甲山城を何の障害もなく見通し、南方の本村川流域の諸城もまた眼下におさめている。
この城は、狭義には地元で要害山と呼んでいる標高約六六〇mの山頂の遺構のことをいい、広義には要害山の前方にある標高四七四mの前要害山福山城と、 その南の龍王山から篠津原と呼ばれている小盆地一帯に群在する館跡および中 世武家星敷跡群を包括している。
これらの遺跡は、全体とて密接に関連をもつものであり、また、西方にある城の越城、南方の笹丸城など、周辺の出城とも防衛上の関連をもっている。
本城は、山内氏の支城のうちでは、北方の比婆郡高野町の部山城とともに、 東方の守りとして、特に重要であったとみられ、古文献による城主名のうち、 田中河内守を除いては山内氏とその有力な庶家である。
なお、田中河内守は戦国末期頃の人物で、篠津原城の南方約四㎞の、庄原市本村町と高門町との境にある篠津原城の支城にあたる笹丸城の城主で、北方の大富山城に拠る宮氏との 抗争が激しくなる弘治~永禄二年(一五五五~五九)頃に、城代あるいは守将の 一人であったとみられる。
山内氏が、この地域に入って来たのは、建武五年(延元三、一三三八)に通資 の子通時が、足利尊氏から信敷荘東方を与えられたことによる。
篠津原城とその南にある篠津原の武家星敷跡群は、高荘との境に位置しているため、通時に与えられた信敷荘東方の地に、この地域が入っていたのか否かは明らかでない。
ところが、地形的には、信敷荘を西南流する本村川の支谷が篠津原から開けて いるので、支配地としていたものとみられる。
篠津原城や篠津原の中世武家屋敷跡群は、後述するように戦国期の種種の特徴を備えているので、戦国時代以前に築造されていたとは考え難い。
また滑 (滑良)氏は通時からこの地の地頭職を譲られているが、この滑氏による築城とするにも時期的になお疑問がある。
通忠の代になると、応安七年(文中三、一三七四)に、幕府から西城川流域の高郷を与えられており、篠津原城や福山城の築城は少なくともこののちとみられる。
山内氏は、この高郷をめぐって、北方の大富山城に拠る宮氏とたびたび紛争を起こしていたらしく、篠津原城・福山城の築城と篠津原の武家屋敷群の形成は、信敷荘および高荘を合わせて、より強固な支配を進め、宮氏に対抗するためのものであったとみられる。
永禄二年には、篠津原やその北方の西城川。 段司河原で、宮景盛と田中河内守が戦っているが、この頃がもっとも緊張して いた時期であろう。
要害山山頂の狭義の篠津原城は、標高六五九mの山頂尾根上に、長さ約二〇〇mの規模で西に下って階段式に郭を配置している。
本丸は、二四m×一六mで、中央に井戸があり、東側には幅二~三 を配置して石垣を築き、ここを通って本丸に入ることが できる。
本丸の三m下には、西から南にめぐる一部に石垣を築いた郭がある。
二の丸に相当する郭は、四つの段からなり、石垣を築いた場所が多く、南側に腰郭を設けて本丸と連絡している。
なお、この腰郭の下方には大きな竪堀がある。
三の丸に相当する郭は、南北一五m×東西七〇mの大 きな郭で、北西側に腰郭を設けているほか、西側に一段 低く小郭を配し、南側には三段からなるやや大きな郭を 設け、井戸がある。
三の丸から、さらに西方に下ると石垣を築いた細長い郭があり、大手としている。
前要害山の福山城は、六〇m×一三五mの山頂の 郭と、その東側の四〇m×一五~二五mの郭と二五m× 約五mの小郭とからなり、滑(滑良)十郎左衛門が守った という。
なお、福山城とは谷を隔てた標高四五三mの龍王山も城として利用されていたとみられる。
武家屋敷跡群は、福山城の南方にあって、立地や遺構の状態などによっていくつかの群に分けることができる。
また、福山城と龍王山に囲まれた屋敷跡群は、篠津原城の大手筋にあたるためであろうか、石垣を築き、なかには城郭の一部とみられるような繩張りの場所もある。
龍王山南側の高池・小用池一帯にかけての武家屋敷跡群は、面積が大きく、単独で存在するものや、西に下る丘陵上に階段状に配置されているもの、広がりをみせ散在するものなどがある。
またこれらの屋敷跡 には、門・井戸・石垣・石段・土塁などが設けられており、特に門跡とその通路には、近世初期の様式に類似したものがみられる。
高池と小用池との間にあるこれらの屋敷跡群の中核とみられる館跡は、西側背後を急峻な丘陵で守り、東・南・北の三方を塁と堀で囲み、東側には近世内桝形の初期の型式に似た門跡がある。
また、この館跡内には泉水跡が残っている。
これらの武家屋敷跡群のうち、その南限の一部は、中国縦貫自動車の建設工事にともなって、昭和五十年に発掘調査が行なわれ、遺構の状態や遺構からみて戦国時代に築かれたものであることが明らかになった。
天正十九年(一五九一)に、毛利氏が広島城に移ったことから、山内氏も従い、さらに慶長五年(一六〇〇)の毛利氏の防長移封によって、篠津原福山城、篠津原中世武家屋敷は放棄されてしまった。
『日本城郭大系』13より引用
城の歴史
応安7年(1374):山内通忠が高郷の地頭職を得る。
『山内家文書57』
宮氏が進出しており一時期この地域を支配される。
『山内家文書177』
この文書から「宮高方知行分」として宮氏が支配していたことが分かる。
天文22年(1553)若しくは永禄2年(1559):高村の支配権をめぐり大富山城の宮氏と戦う。
天正14年(1586):この頃には高村も山内氏の支配が及んでいる。
『山内家文書304』
高小用で100貫とある。
城主家系図
滑兵庫介通泰や滑平四郎通経は天正時代の人物。
『山内家文書407』天正4年(1576)4月27日付
甲山城の南に滑良や滑谷、滑池 などがあることから滑氏の発生した場所なのかもしれない
城主(一族)石高
山内家家臣の為不明。
所感
●築城時期は戦国時代だと思われるが、雲井城の出城として築城されたと思われる。
●一時期高村は宮氏に支配されていた時期もある。
●『久代記』に天文22年(1553)若しくは永禄2年(1559)に大富山城の宮景盛と戦う記述があるため、この城もなんらかの形で利用されたとも思われる。
●今でも庄原市本郷町辺りには「滑」氏がいる。
関連URL
参考URL
参考文献
『庄原市の歴史 通史編』
『久代記』
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/04/02