城データ
城名:福原城
別名:小屋谷山城
標高:373m
比高:173m
築城年:不明(戦国時代か)
城主:佐久木新右衛門
場所:広島県三次市作木町上作木
北緯:東経:34.884591/132.744421
攻城記
作木町史跡 福原城跡
戦国時代 天文年間(約450年前)に活躍した佐久木新右衛門の居城、佐久木氏の出自については諸説があるが、天文22年(1553年)
毛利氏側について泉合戦(比婆郡口和町)に加わり、尼子側の敵将米原左馬允を討ち取って、その勇名を現している
(「安西軍策」「陰徳太平記」)
城跡の郭(平地)は大きいもの4つあり、郭の全面積は805平方メートル(約490畳)である。
また、敵の侵入を防ぐために土塁や堀切、竪堀がよく観察できる。
そのほか、井戸跡や少し離れたところに馬を洗ったと伝えられる「馬洗い場」も残っている。村内では大きい城跡の一つである。
山のふもとの近くには自然石による佐久木新右衛門の墓がある。
平成3年3月設置 三次市教育委員会
攻城スタート
いきなり道が無くなる。
たまたま下草刈りをしていた方がおり確認するとこの方向であっているらしい。
地籍調査の方のようだ。
やっとの思いで南端部分に取り付く。
規模も小さくこんなものかと思うが、実は全然違うことに後から気づく。
堀切発見する、そのまま登っていく。
堀切からの風景、次の曲輪に期待が膨らむ。
次の曲輪。
大きな堀切。
本丸。
周辺の曲輪。
二の丸にある井戸。
福原城全景。
作木八幡宮
常清滝
open-hinataより【福原城】
余湖図【福原城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【福原城】
城の概要
最高所の1郭から北・西に延びる尾根上にそれぞれ郭を置いており、西先端部と東斜面には竪堀がみられる。
背後(南東)に続く尾根上には底幅6mの堀切を挟んで1郭とほぼ同一レベルの2郭があり、さらに南東には堀切が連続して設けられている
城主は佐久木氏と伝えられる。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
城の歴史
城自体の歴史は不明であるが、城主の佐久木新右衛門については『陰徳太平記』に詳しく記述されている。
和泉合戦
大合戦橋の合戦ともいう、尼子氏が江田氏を救援すべく富田城から南下してくるおり、毛利方に属していた湯木(庄原市口和町)の釜峰山城城主湯木氏が尼子、山内方の圧力に屈し、吉川元春が同城に派遣していた家臣13名を自害させ、尼子方に寝返って城内へ尼子晴久以下の軍勢を迎い入れた。
そのため三吉方の大月黒岩城の泉入道(和泉信行)が危なくなったので、毛利軍の主力は急きょ大月へ移動して、元就は黒岩城へ入り、軍勢は同城の前の河岸段丘上に布陣した。
尼子晴久も新宮党の精鋭五千を湯木から向泉へ南下させ、竹地谷川を挟んで両軍が対峙した。
毛利、尼子の両軍が、竹地谷川をはさんで対峙した古戦場跡に架かる橋は今も「大合戦橋」という。
しかし、折からの梅雨の豪雨のため、竹地谷川が氾濫して、戦いは1日で終わり決戦にいたらず、両軍は兵を分け、元就はいったん志和地(三次市)へ退き、晴久も6月3日山内氏の本拠甲山城(庄原市)へ入れ、毛利勢の江田攻めを北から牽制する構えをみせた。
尼子側
湯木 尼子国久 卯山 米原 疋田 2000騎 第一陣
尼子左衛門 牛尾 桜井 2000騎 第二陣
尼子紀伊守 2000騎 第三陣
尼子晴久 15000騎 本陣
合計20000騎
毛利側
和泉入道親子 吉川元春 熊谷 香川 飯田 山田 福島 毛利軍先陣
毛利元就、隆元親子 2000騎
合計4000騎
城主作木氏について
『西備名区巻六十六』に以下の2名についての記述がある。
作木隼人亮
天女九年、尼子伊豫守晴久、和泉の城主和泉三郎五郎信行、毛利家に従ふを償り、同六月八日雲伯の勢三千飲騎にて冨田を打来 同十日高野山に着陣、十三日湯木釜が峰を追ひ落し、十四日和泉に押寄せ、波多野勘能、米原平内先陣して、苧が瀬の橋を渡さんとす、作木隼人亮、和泉に加勢して先陣にするみ、橋に向ひ渡り來れる波多野勘能を切て落す。
家士鬼十郎兵衛、川へ飛込み 其首を取る、三上源内、米原が渡り來り突懸る鍵ををもぎ取れば、三原藤兵衛討て怒り戦ふ處を、元永と云僧、米原を射る、 原射られて引退くを、三原追かけ首を取ると云ふ。
注:天文9年(1540)とあるが実際は天文22年(1552)の毛利と尼子の合戦だと思われる。
作木新左衛門尉
一名、新右衛門。天文十一年、大内義隆、雲州發向に随軍。
同二十一年、毛利元就朝臣、江田尾張守隆貫を攻め給ふ泉合戦の時、杭が瀬にて雲州尼子の先隊の將、米原右馬尤を橋より射ず し、首を取を云。
注;これも天文22年の事だと思われる。
この佐久木新右衛門尉が『陰徳太平記』で以下のように記載されている。
「当国の住人佐久木新右衛門として聞ゆる精兵の手利あり。橋狭くして渡るべき様無りければ、河下の方へ廻り差詰引詰射たりけるか、米原か吾身一分の大事と真先に進て戦う有様殊に射ちよげに見えければ、能引て放ちけるに、其矢不レ錯脇坪を肩先かけて射徹しける間、さしも樊噌か勇を成し米原も、大事の痛手なれば、何かは少しも漬るべき、鎗を彼所へからりと捨、橋より真逆に河水の中へ落たりけるを、佐久木得たりやと弓を抛揺走り懸り引よせて甄をそ掻たりける。」
所感
●伝説によると上作木の佐久木氏は地元で敵に討たれ、子孫がその後を継いだようだが、毛利の家臣団の一員として力はもはや持っていなかったようで、泉合戦を境として以後は佐久木氏の名前は記録に見えない。
●地元の有力土豪が三吉氏の支配下に入りその地域を治めていたと考えられる。
●看板があるので結構楽に行けると思ったが途中で進路を変えなくなり、そこが全くの藪化であった、もし草刈をしていなかったら到底分からなかった。
●地方の小豪族にも関わらずこれだけの城が築けるのが驚き(上作木で石高は江戸時代で327石)
関連URL
近隣の城。
参考URL
参考文献
『作木村誌』
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/03/19