城データ
城名:寄貞城
別名:無し
標高:220m
比高:10m
築城年:不明
城主:不明
場所:広島県三次市西酒屋城
北緯:東経:34.782826/132.853955
攻城記
現在道路がある一部分がえぐられているが、江戸時代はどうであったのであろうか。
登って行く。
頂上。
比高は10mほど。
曲輪周辺部。
位置関係
open-hinataより【寄貞城】
余湖図【寄貞城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【寄貞城】
拡大図(「寄」ではなく「奇」貞城を記載されている)
城の概要
道路によって一部削平されている。
背後(北西側)を土塁と堀切によって画しているが,やや不明瞭である。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
城の歴史
酒屋の地には本城跡のほかに,砂脇城跡,寄貞城跡,末元城跡がある。
規模はいずれも本城跡よりも小さく,城主名も不明である。砂脇城跡は本城跡の南約300mの谷奥の中央部に位置し,周辺の水田から数m高く,細長く突出した地形を利用している。寄貞城跡は本城跡の南約500mの谷奥部に位置し,低丘陵の先端部を利用しており,城跡の背後に土塁と堀切がある。
末元城跡は寄貞城跡とは低丘陵を隔て,西側の末元の谷の谷奥部に位置し,周辺の水田よりもやや小高く ,長方形を呈する郭の南側に堀切があるほか,南側と西側に土塁がある。
これらの城跡は規模からみても土居屋敷あるいは屋敷城的な要素が強く,室町時代後半における社会情勢の激化,戦闘形態の変化に対応した機能をはたした城とは考え難い。酒屋の地は他氏による侵入を伝えていないことから三吉氏の所領であったとみられ, これらの諸城跡も三吉氏に関係するものとみられる。
諸城跡の築城の由来などは文献,伝承などがなく不詳であるが,少なくとも立地,形態などからみて,本城跡の築城以前にすでに存在していたとみられる。
なお, これらの諸城跡はその所在については伝えていることからすると,谷筋を水田経営の基盤とした土居屋敷あるいは屋敷城として当地の経営に当っていたほかに,見張りや伝えの城としての役割も有していたのであろう。
本城跡の築城については文献などがないため詳細は不明であるが,城跡の諸特徴からみて室町時代後半に比定されることは前述したとおりである。ところで江田氏が滅んだ天文22(1553)年以後においては,酒屋及びその周辺において寵城が可能な城が築かれた様子はなく,三吉氏の所領が旧江田氏の所領を併せて東方に拡大され,弘治3(1557)年の連署起請文案(毛利家文書225号)や,元亀4(1573)年の三吉隆亮,広高父子が毛利輝元に提出した起請文(毛利家文書328号)にみられるように,三吉氏は毛利氏に従うことによって周辺諸氏との関係も安定したことが窺われ,天文22(1553)年以後に酒屋の地に新たに城を築く理由は見い出せない。
また,天文10(1541)年三吉氏が尼子氏から離反した以後とすると,三吉氏にとっては,比叡尾山城と周辺の諸城及び尼子氏が侵攻してくる北方の要所に諸城を築き,防備を堅固にすることがもっとも重要になっていたと推定される。
すなわち,本城跡の築城を必要としていた時期は,尼子氏の勢力が後退していく時期ではなく,高橋氏及び毛利氏との間に争いと,尼子氏の進出によって県北部一帯の緊張が増幅した時期で,三吉氏にとって地理的な要地である酒屋の地を他氏の侵略から防ぎ,支配をいっそう強化する必要が生じたことによるものとみられる。
なお,酒屋の地における諸城跡は,天文22(1553)年の江田氏の滅亡と共にした新宮山城跡の例からすると,小規模ではあっても所領の支配のため,家臣や一族を配置し,存続して利用していたと推定される。
『三段田城跡発掘調査報告書』より一部引用。
所感
●寄貞城単体といよりも比叡尾山の支城として、近隣の三段田城や末元と一緒に機能していたと思われる。
●城主は不明であるが、三吉氏関連の人物もしくは周辺の大きな城の城主が兼務していたと思われる。
●築城時期は毛利体制に組み込まれる以前と思われるので尼子侵攻が激しかった1540年よりも以前だと思われる。
●近隣には宍戸氏や毛利氏、また高橋氏などの国衆もおり、彼らとの緊張関係があったころに築城されたとも考えられる。
関連URL
近隣の城。
参考URL
参考文献
『三段田城跡発掘調査報告書』
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/03/19