城データ
城名:姫ヶ嶽城
別名:無し
標高:290m
比高:80m
築城年:不明
城主:槇原藤五左衛門
場所:広島県三次市布野町下布野
北緯:東経:34.864702/132.786420
攻城記
姫ヶ嶽城全景。
藪漕ぎしながら進む。
土塁。
山頂は藪も無く進みやすい。
何段かの曲輪になっている。
麓を臨む。
反対の大城山城方向。
土塁。
城の見どころである石組井戸。
しっかりとした造り。
もう一か所の石組井戸。
位置関係
open-hinataより【姫ヶ嶽城】
open-hinataより【大城山城】
余湖図【姫ヶ嶽城・大城山城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【下布野村】
姫ヶ城の名称は記載されていないが、大城山古城跡の記載があり、この付近にあった。
城の概要
40m×15m~35mの1郭は中央に櫓台状の高まりがあり,背後(南西側)に高さ1mの土塁を構える。
郭内には井戸跡と礎石らしき河原石が散乱する。
2郭内には石組井戸が残り,そこから北東に延びる尾根上には6段の郭と先端部に堀切・竪堀が構えられている。
1郭下の郭群と 2郭下の郭群の間には谷が入り,2か所に石組井戸が現存する。
城主は槙原氏と伝えられる。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
城の歴史
詳細不明であるが、三吉氏の城として機能していいたものと思われる。
天文13年(1544):尼子晴久が三吉氏の居城である比叡尾山城を攻略する為に軍を進めたが、布野の地で大内軍(毛利氏、三吉氏)がそれを迎撃した。
しかし、強力な尼子軍の猛攻により、毛利軍には多くの死傷者が出ており敗北する、油断した尼子勢は翌日の三吉軍の奇襲にて混乱しこれを打ち破る。
この布野崩れの際にこの姫ヶ嶽城も三吉氏の支城として何らかの役割をしていたと考えられる。
所感
●大城山城や狐城と連携して対応した城と思われる。
●見どころは珍しい石組井戸で2つあるので必見。
●城主の槙原氏が三吉氏の家臣であったが詳細不明。
関連URL
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/03/19