城データ
城名:松尾城
別名:髙橋城、松尾山城、土肥城、土居城
標高:457m
比高:150m
築城年:南北朝時代か
城主:髙橋氏
場所:広島県安芸高田市美土里町横田
北緯:東経:34.731611/132.646832
※C. フォーマット「度(DD)」の場合を参照。
攻城記
広島県史跡
松尾城跡
所在地 安芸高田市美土里町横田
指定年月日 平成19年4月19日
この松尾城は、南北朝時代から戦国時代にかけて、安芸・石見の両国にまたがって広大な領域を支配した国人領主、高橋氏の安芸国側の居城として構築した本格的な山城である。
南北朝時代末期から室町時代初期に築城されたと推定され、享禄2年(1529)大内氏や、毛利氏の連合軍によって落城した。
城跡は、横田盆地北側にそびえる大狩山から南へ伸びた尾根上にある。比高約150mの最高所から東の尾根筋に郭を並べ、東・北・南の尾根続きに堀切、南北両側斜面に竪堀を配置し、高い切崖、明瞭な通路を有する加工度の極めて高いものである。
広島県地域の中世政治史を語る上で、欠かせない城跡で、全国的に見ても現地に残る遺構の年代が判明する貴重な事例である。
平成19年4月19日
安芸高田市教育委員会
鹿よけの柵を超えていく。
山頂までひたすら歩く。
山頂に到着。
地元の方がなにやら整備しているのが分かる。
木が無ければ麓もしっかり確認できる。
先端を降りていく。
曲輪跡。
余湖図【松尾城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
最新版の縄張り図。
『芸藩通志』【松尾城】
拡大図。
城の概要
城の遺構は,東に延びる尾根上の郭群と北及び南に続く尾根を遮断する堀切群からなる。
1郭は約25×30mの大きな郭で,北西端部は櫓台状に一段高くなっている。
北東側と東側には土塁が設けられている。
2郭は北・南側が削り出しの土塁に囲まれており,土塁は通路として利用されていたものと思われる。
5郭は二段の平坦面からなり,上段(北側)の北端及び下段(南側)の東端に土塁がある。
各郭の虎口は南側に設けられ,通路は南側を通っている。4郭の東端は土塁状に盛り上がっているが,明瞭でない。
堀切は北尾根に二条,南尾根に一条設けられているが,いずれも尾根自体がやせているので,小規模である。
城跡は,高橋一族横田氏の居城である。高橋氏は1529(享禄2)年に毛利・和知・大によって松尾城・石見阿須那の藤掛城を攻められて滅亡し,これとともに本城跡もものと思われる。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
松尾城
松尾城は、本村川によって開けた横田盆地の北側にに位置する山城で、阿須那の藤根城主高橋氏の居城であった。
当城の歴史は明らかではないが、南北朝期に高橋師光が阿須那の藤根城に入 っているので、それ以後に築城されたものと考えられる。
記録の上では、以後数代を経て、永正年間(一五〇四~二一)頃に高橋大九郎久光が松尾城に入って外孫の毛利幸松丸(元就の兄興元の嫡男で、元就先代の当主)の援護に当たっていた。
久光は大永三年(一五二三)に三吉氏の属城加井妻(青屋)城を攻撃中に油 断から陣中で戦死し、その子弘厚が松尾城に拠った。
また、享禄二年(一五二九)には、松尾城は大内・尼子両氏の争いに巻き込まれ、大内勢の援助を得た毛利元就によって攻められて落城している。
その後、弘厚の子興光も毛利氏によって藤根城で自刃させられ、高橋氏は滅亡した。
城は、北から南の横田盆地に向かって延びる丘陵の背後を空堀で区切り、頂部に六段の郭を直線状に並べたもので、郭の南・北両側には部分的ながら地山 の削り残しによる土塁もみられる。
このほか、前面南側の丘陵上にも空堀状の 掘り込みがみられ、頂部の郭群を一つのまとまりとして独立させている。
『日本城郭大系』13より引用。
【城 史】
備芸石雲四か国にまたがる広大な領域を支配した国衆 高橋氏の本拠城の跡である。
高橋氏の活動時期から、南北朝時代終末期から室町時代初期(十四世紀末〜十五世 紀初頭)に築城されたと推定される。
高橋氏は、周防・ 長門両国の大名大内氏と関係の深い芸石国人領主連合の 盟主の地位にあったが、永正十二年(一五一五)三月に当主元光が戦死し、跡を継いだ興光のとき出雲国の大名尼子氏方になったようで、翌永正十三年(一五一六)に 毛利興元(元就の兄)の軍勢に「松尾要害」の尾頸・麓 を攻撃されている。
享禄二年(一五二九)、毛利元就・ 備後国衆和智氏・安芸国衆戸·大内氏東西条代官弘中氏の連合軍により、松尾城、次いで石見国阿須那(島 根県邑南町)の藤掛城(藤根城)を攻められ、高橋氏は滅亡した。
高橋氏の領域と盟主の地位は毛利元就に継承され、毛利氏の戦国大名化の基盤となった。
【城の特徴】
備芸石雲四か国の要の位置に基盤を置いた国衆高橋氏 の安芸国における本拠城である。
山頂郭群がその本体で あり、切岸もよく立ち、全体的に加工度が高い。
一方、 この周囲に広がる遺構は、端部を除き全体的に加工が不 十分であり、おそらく享禄二年(一五二九)頃に大内方勢力からの攻撃に備えて急いで造った駐屯地と思われる。
いずれにせよ、城跡の地表面に観察されるこれら全ての遺構は、享禄二年(一五二九)の落城段階の状況を示し ていると考えられ、当該期の城郭遺構の基準となるものとして貴重であり、平成十九年(二〇〇七)に広島県史 跡に指定されている。
『安芸の城館』より一部引用。
城の歴史
14世紀末~15世紀初頭」この頃に築城されたとされる。
永正12年(1515):当主である高橋元光が戦死して、弟の弘厚(重光)が松尾城主になる。この頃大内氏から尼子氏に寝返る。
永正13年(1516):毛利興元から「松尾要害」の尾頸・麓 を攻撃される。
2月29日に粟屋彌六(元忠)が松尾要害を攻めて勲功を果たしたことで興元から感状を賜る。
『萩藩閥閲録巻90粟屋七郎右衛門-2』
7月21日に河野左近太夫(春重)が松尾要害を攻めて勲功を果たしたことで興元から感状を賜る。
『萩藩閥閲録遺漏巻4の1河野-2』
享禄2年(1529):毛利元就を筆頭に大内氏に組みした連合軍により攻められて落城する。
『毛利家文書251』
5月2日に粟屋孫二郎(元国)が松尾城攻めて元就から5月3日に感状を賜る。
『萩藩閥閲録巻73粟屋孫次郎-1』
城主家系図
家系図は色々なものから引用しておる、絶対に正しいとは言い切れない。
所感
●松尾城が安芸国における高橋氏の居城だったと思われるが、石見にも藤掛城があり、惣領家の当主がどこを拠点にしたのか不明。
●城自体は当初は山頂に複数の曲輪を配置した典型的な山城だと思われていたが、赤色立体地図での確認で山全体に曲輪の跡が見つかり、かなり大規模な城であったことが判明。
●大規模になったのは永正13年(1516)頃に高橋興光が尼子に寝返り、享禄2年(1529)頃に滅亡した時期に大規模改修をしたのではないか。
●永正12年に山県郡の壬生城主の壬生元泰が高橋氏に協力しない旨の起請文を提出している。
関連URL
一族が守っていた高橋城。
主家の居城。
参考URL
参考文献
『安芸毛利一族』
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『安芸の城館』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/03/12